田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

2008/9/21

2008-09-21 18:11:17 | Weblog
田舎生活の好きな皆さん、お元気ですか。
午前中は、熱帯のスコールを思わせる激しい雨。
お昼から上がり、妻と車で竹田農園で、1時間ほど畑仕事。

(堆肥置場の下を畑に)
農園のお隣の土建屋のI氏から、いただいた大量の草、畑のあちこちに厚く積み上げ、程よく腐り、虫に食われ黒々とした堆肥に。
秋野菜の種蒔きに、この堆肥を一か所に集め、空いた畝を耕すと、よく肥えた立派な畑に。
大根、アスパラ菜、ワケギを植えて、今日の作業完了。(畑をパチリ、冒頭の写真、回りの緑はイノシシ君に勝利したサツマイモの葉)

(江藤正翁)
畑仕事をしていると、近所の江藤正翁(元南海ホークスのエース)が、「天気になったな」と家から出てくる。
「40日前から、足が痺れる、戦争に行ったり、スポーツをしたり、仕事をしたりいろいろあったが、こんなにえらい目に遭うのは初めて。
医者も時間をかけて養生しなさいとのことで、ボツボツやるよ。」と。
杖を使って歩いているが、スタスタと傍目にはしっかりしている。
「11/9に飲み仲間でバス旅行にいくので、また一緒に行きましょう」と言うと、「良くなっていたら行くよ」とニッコリ。
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父の随筆(パソコンの底から出てきました)

2008-09-21 13:06:50 | 戦前・戦中の日々
今日は、朝から雨、晴耕雨読といこうと、パソコンの中の、古いデータを見るともなく見ていると、一年前に亡くなった父の古い原稿をたぶん、妻が、ワードの練習に打ち込んだものがありました。
私は読んだ記憶が無い。
幹部候補生になった経緯を綴ったもの。
7年前、亡くなる6年前で80才になる直前に書いたものと思われる。
竹田農園で私とつきあってくれている、江藤正翁と同じ生まれ年で、終戦も台湾で迎えたというのも同じ、僅かの差で、生き残ったというのも同じの人生だったと改めて、知りました。
ワードで6ページとやや長いです。
ご参考。



運命の一瞬 - 安藤中尉

第一章

 昭和十八年(1943)七月、私達初年兵の観測班は既に要地防空隊として神戸に展開している本隊に追及した。
わが中部軍七三部隊山岡隊安田中隊は神戸市兵庫区三菱重工業和田岬造船所内の突堤上に陣地を構築していた。
兵舎の屋上には七糎高射砲三門が据えられていた。
この陣地に来てからは、屯営で受けた体罰的制裁は全くなかったが、実戦に即した訓練は毎日激しく繰り返された。
 朝夕今治・神戸航路の定期船を陣地から眺めては郷愁の念に駆られていた。
私は残念ながらこの和田岬陣地に来てからは初年兵観測班の員数外に置かれる「ダメな兵隊」になっていた。
理由は色々あるが他日又語るときがあるだろう。
八月になって泉南の貝塚海岸で山岡部隊の高射砲実弾射撃演習が行われたが、初年兵の中で私だけ一人が、和田岬陣地留守隊の一人に入れられたのである。
いかに無視された「ダメ兵隊」であったかが知れる。
そして、二日目になって中隊長安田中尉の「如何なる初年兵も一度は実弾射撃の体験をさせろ。」の一言で、私はやっとこさ貝塚海岸に中隊長のお情けで向うことができたのである。
私がどんなにみじめな気分で、和田岬から貝塚に向う軍用自動貨車の古年次兵(こねんじへい)の中にたった一人のダメな員数外初年兵としてポツンと乗ったか。
もう落ち込みに落ち込んだのである。
同乗の古年次兵は「こいつがダメな初年兵か。」と言わんばかりに私をジロジロ眺めていた。
私には本当に針のむしろであった。


第二章
 この貝塚の射撃演習が終了してすぐに、山岡部隊の陸軍兵科幹部候補生の採用試験が行われた。
当時の神戸防空隊の配備は
(1) 湊川公園に山岡部隊本部
(2) 摩耶山中腹371高地   砲隊 一ケ中隊
(3) 灘区都賀川口      砲隊 一ケ中隊
(4) 兵庫区和田岬      砲隊 一ケ中隊
(5) 刈藻島(かるもじま)  砲隊 一ケ中隊
 他に照空(しょうくう)中隊が布陣していた。
 試験場は湊川公園近くの湊川国民学校である。
小学校は当時国民学校と呼ばれていた。
当日、安田隊の砲隊、観測班の初年兵有資格者が集合、試験場に向った。
今まで初年兵はこの和田岬陣地から外に出たことはなかった。
しかも、引率者はいなかった。
初年兵だけの外出である。
指揮は金子博がとった。
この日は日本晴れ。
素晴らしい好天気であった。
三菱造船所の正門には保安詰所が設けられている。
この門を出る時は部隊敬礼を行って通過。
歩調をとる。
カツカツと軍靴の響きが高くなる。
折りから附近にいた造船所員が私達の行進を眺める。
「ワッ、見事な兵隊さんだ・・・」と言った声が私達の耳に入った。
地方の人がみとれる程私達の行進は見事だったのである。
この声を耳にした初年兵一同の足音が更に高くなり晴れがましい思いを経験した。
 この頃、神戸市電は神戸防空隊の兵隊の乗車は無料にしていた。
湊川国民学校に到着。
丁度夏休みのこととて国民学校の校庭には児童の姿は一人もなく、夏の暑い日差しがコンクリート造りの白い校舎に照り映えて白々と私達の眼に厳しかった。
各隊から参集した多くの初年兵達は各教室に収容され緊張した顔で学科の筆記試験に臨んだ。


第三章
 二日目は面接試験である。
私達は控室にて待機。
面接室は別教室に設けられ、一人一人が呼び入れられた。
面接を終えた兵隊達は控室に帰ってもその様子を語る者はいなかった。
この時、控室に監督者がいたかどうか今は思い出せない。
しかし、私語がなかったことから推すと多分いたのであろう。
段々と進んで、いよいよ私の番である。
 中隊随一のダメな兵隊とレッテルのはられた私も幹部候補生に採用されたいとは思っていたが、先はその希望も無為に終わるだろうと予想していたから、他の初年兵程の緊張はしていなかった。
そのかわりに何ヶ月振りかに陣地の外に初年兵だけで外出できるのが嬉しくて途中の三菱造船所内の風景から私の職場であった愛媛県新居浜市の住友機械製作KKを偲んでいた。
住友機械には徴用工も入れて五千人が働いていた。
三菱造船所の規模に比べてもそう遜色はなかった。
神戸市電の沿線風景も市民の姿も本当になつかしかった。
湊川公園の部隊本部前にはビオフェルミンの大きな広告塔が立っていた。
 さて、私の前の番の初年兵が終わって帰って来た。
どうでもええわいと思っている試験でもヒョッとしたらヒョッとするかもしれんと思っていると矢張り体が固くなる。
控室を廊下に出る。無人である。
すぐ隣の面接室の前に立って大きく深呼吸をする。
いや溜息をついたのかも知れない。
静かに引戸を開けると右側には大きな幕が張られて仕切られ、私達の通路がニ米巾程に作られている。
そして、その正面には大きな鏡が見える。
廊下の床から天井まで届く大きな鏡である。
引戸を開けた私の全身が写っている。
フウン、わしもそう捨てたもんではないなあと鏡の中の軍服姿の私を見つめた。
その鏡の前を右に入ると面接室である。
私は歩みながら鏡の中の服装を点検する。
襟布(えりふ)はいいか、釦はいいか、帯革(たいかく)は所定の位置にあるか、帯革は四ツ目と五ツ目の釦の間が定位である。
帯革はゆるんでいないか、剣吊り釦は外れていないか,手を添えて急いで点検。「ヨシ」。
私は脱帽して官姓名を名乗り、十五度の陸軍礼式をして面接室に入る。
中はガランとして何もなかった。
中央に生徒机が一脚、試験委員の三人の将校が座っている。
それから次々と質問が三人から交互に放たれる。
何とかスラスラとは行かなかったが、大声で答える。
最後に大東亜戦争への覚悟を問われる。
もう此の答は決まっている。「日本民族百年の大計の為、米英を打ち破って東洋平和、世界平和の礎、捨石になります。」と。
滅私奉公のみ叫ばれている時代である。
滅私とは、我が身を滅することではない。
私欲,私情、私利、私心などの個人の利害に優先して公即ち日本国家、民族、社会の為に力を尽くすことである。
 「ウン。」
と将校達がうなずいた。
私は多分、大真面目で大声を張り上げながら、つまりながらも叫んでいたのであろう。
この時代の若者は私のように思っている者が多かったのである。
戦場に立つこと即ち死である。それでも、その死を超えて戦場に向ったのである。現代日本人の中には「死ぬことが判っているのに何故銃を把ったのか。何故拒否しないのか。
何故逃げないのか。
その時代の指導者にうまく騙されていたのだ。」という人がいる。
私はこの人々に対しては無言である。
 さて、三人の将校達は私を見て笑っていた。
面接が終わってから試験委員長安藤中尉から講評があった。その一節に、・・・・
 「あの大鏡は何のために置かれたのか。残念ながら、そこに思いを馳せる者はいなかった。
但し一人だけ活用した者がいる。
面接する前に服装の点検を行った者は、たった一人である。・・・・・」と。
不意に意外の環境下に置かれた個人の行動、特に独断専行が観察されたのである。
 こうして試験は終わった。私は殆んどこの試験結果は期待していなかった。
帰隊したら隊舎屋上の陣地では、いつもの通り初年兵の訓練が続いている。
砲隊班は早速訓練に参加した。
観測班の私は少しでも参加時間が遅れるようにと、下でグズグズしていた。
ヒョイと上を見上げると、初年兵班長の西迫(にしさこ)軍曹がむつかしい顔をして私を眺めている。
イヤ、ビックリ。
コイツはイカンとあわてて外出套を着替えて屋上に駆け上がった。
軍曹が「下で何をしていた。」と詰問する。
もう破れかぶれである。
「ハイッ。六甲おろしの涼しい海
風に吹かれてボーッとしておりました。」
周りにいた古年次兵や初年兵が一斉に私の方を振り向いたのがわかる。
こんなことは初年兵の私の言うべき言葉ではない。
「風に吹かれてボーッとしていたのであろう。」とは班長や班付古年次兵からよく言われていたのである。
加古川の屯営では「加古川の風・・・」であった。
 九月に入って命令が出た。午後九時の日夕点呼で連隊命令が下達された。
   金子 博   愛媛  観測
   早川一也   徳島  砲隊  
   木口常三   茨城  砲隊
   金森秀雄   徳島  砲隊
   細川清水   高知  砲隊
   竹田光雄   愛媛  観測
私は安田中隊の最下位で幹部候補生に採用された。
命令伝達が終わって外に出ると、古年次兵の話声が聞こえてきた。
「竹田ってありゃ何だ。ドンナ奴だ。」
「観測におろが。」
「あいつか。あんな奴が・・・もう世も末じゃ。」
 私もそう思う。
私は笑っている安藤中尉を思い出した。
大鏡の前の服装点検で安藤中尉が私を拾い上げたのだ。だが、中隊長以下誰も知らないから、私の合格を不思議がるのだ。


第四章

 幹部候補生教育が早速始められる。
都賀川砲隊陣地の近くに神戸製鋼所の二階建ビル一棟が提供された。
教官は網本義包(よしかね)中尉で、幹候班長として一人伍長がきた。
私は今この班長の名前を忘れている。
各砲隊、照空隊から集合して来た。
何人いたか。
これも忘れている。
しかし、九月から一月にかけて行われた幹候教育は私の軍隊生活の中で最も楽しかった時代である。
ここでは反対教育が行われた。
観測・砲隊の反対教育である。
従って、私は観測兵であるから砲隊教育を受けた。
この幹候隊教育が終わると甲乙分離の試験がある。
甲種幹部候補生は予備役将校に、乙種幹部候補生は下士官になる道が開かれる。
 幹候隊班長には候補生の中から二名宛当番がつく。
この当番にあたった私は或日、班長個室の掃除に向った日、班長は留守であった。班長の机の上には、班長の候補生に対する評価表が開かれたまま置かれていた。
最後には各候補生の総合評価がしるされていた。
見るともなく見てみると、私の評価は「下士官適」と大きく書かれていた。
「ヤッパリナ」と私は納得した。
 甲乙分離試験が学科・術科ともに完了したとき、砲隊・観測の全候補生は七糎高射砲の周囲に集められた。
砲側に立ったのは安藤中尉である。
この時には各候補生は自分の成績はほぼ積算して自分の序列を胸算用していたのだが、私には無関係である。
何しろ、班長の評価は「下士官適」だからな。
この班長の評価が重要なことは勿論である。
 私は安藤中尉を取り囲んだ候補生の輪の最後列にいた。
もう乙種幹部候補生になることは間違いない。
甲なんかとてもと思っていた。
安藤中尉は色々な質問をした最後に七糎高射砲の部分名を質問した。
ところが誰も答える者がいなかった。
暫らく沈黙の静かな時間が流れる。
砲隊の連中には分かりすぎた質問である。
安藤中尉が皮肉な声なき笑いを顔に浮かべた。
成績の良い連中はここでしくじったらと考えて答を渋ったのである。
安藤中尉の笑いはこの候補生の心理を見透かしていたのである。
「今畜生、これが黙っておれるか。」私は大声で「ハイッ」と挙手した。
それから二問・三問と続いたが、結局は誰も答えず、私が全部答えた。
当否は別である。
 「ウン」安藤中尉が頷いた。
私は大声で全部答えて、甲になりたい奴は何してんだと心の中でわめいていた。「そこの候補生は誰だ。」
「ハイッ竹田候補生」
「ウン」と顔を縦に大きく振った安藤中尉の頷いた笑顔が深く私の胸に印象づけられた。


第五章

 やがて甲乙分離の結果が発令された。
昭和十八年度山岡部隊甲種幹部候補生は、金子博、小西二郎、早川一也、木口常三、金森秀雄、竹田光雄、六名である。
私はビックリ仰天である。
山岡部隊甲種幹部候補生六名のうち五名が安田隊である。
小西は刈凛島の砲隊である。因に小西は宇和島の出身である。
 戦後、復員したとき今治から一緒に加古川高射砲隊に入隊した矢野孝基(兵長で復員)-山岡部隊照空中隊に在隊―が、
「お前が幹部候補生に採用された命令を聞いた時はビックリ仰天した。」と私の顔をマジマジと眺めてあきれていた。
器用に世間を渡る彼の人生では、不器用な私など馬鹿の代表だと思っている。
彼には私の甲種幹部候補生合格が理解できないのだ。
 とにかく、安田隊のダメ兵隊,観測兵としては員数外の兵隊が二等兵として入隊、一年八ヶ月で陸軍予備役少尉に任官したんだからな。
誰よりも私自身が驚いていたのである。
 この原因は、
(1)鏡の前の服装点検 
(2)甲乙分離試験最後の三問への応答であると私は思っている。
安藤中尉が大いに干与している。私は安藤中尉の人を見る目を裏切れないと思った。
人の運命は、単純なこれだけで左右されることがある。
私のこの二つの事項が安藤中尉に取り上げられなかったならば、私は一兵卆として、ダメなボヤスケ兵隊として南方戦線にトックに放り出されていただろう。
 私が神戸防空隊から南方派遣軍に転属を命令され一隊を引率神戸駅を出発した時、見送ってくれた山岡部隊将校連の中に、相変わらず微笑をたたえた安藤中尉の姿があった。
 さらば、安藤中尉。
 昭和十九年も押し詰まった十二月七日の夕暮れであった。



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