今日は、佐野市在住の高橋氏と一緒に足利方面の石仏巡りに出かける。その目的は、足利市の庚申塔で読めないでいた銘文の解読作業である。加えて、途中途中の庚申名数塔調査なども加える。
兎に角今回は、高橋氏と一緒なので銘文解読には期待が持てると、まずは鹿島町の共同墓地にある寛文銘の庚申塔調査から開始。二人でタワシで擦っては磨きの作業を繰り返して、何とか物に出来た。
そして次は、春日部市在住の中山氏と野田市在住の戸向氏が偶然見つけたという板駒型の延宝庚申塔探しである。所在地がはっきりしなかったが、ナビゲータ役の高橋氏の指示通りに運転して、簡単に辿り着くことが出来た。しかし、その銘文解読となると完全にお手上げである。タワシで磨こうが拓本を取ろうが、全く文字が浮かんでこない。中山氏流に言えば「修行が足らん!」ということ。
江戸初期の庚申塔としては申し分のない姿をしているが、それも読めなければ話しにならない。悔し紛れに、その反対側にある手水鉢を眺める。が、こちらも紀年銘は土中に埋もれているのか不明。本当に悔しい場所である。
次は、近くの宝珠坊跡の共同墓地へ移動。ここにある庚申塔の紀年銘が何としても判らず、それでも諦めきれずにこの近くへ来る度に立ち寄っては眺めていたのだが、今日は強力な助っ人である高橋氏が一緒なので大いなる期待を持って紀年銘探し。何しろ、像容的には中山氏のお見立てによれば寛文塔でもおかしくない庚申塔とのお墨付きなのだから。そこで、今回も霧吹きをかけてはあちこちをゴシゴシ、何もでてこなければ又場所を移動してゴシゴシ。そんな事を繰り返して、右側の日輪下を磨いたところ、そこに文字らしき形跡を発見。更に磨きをかけたり紙を押し当てたりと奮闘・努力して、ついに「寛文」の文字を解読できた。
これで、今日の成果は大満足。一人で来たなら、こうすんなりとは行かなかったろうと、言葉に出さずに高橋氏に感謝。その高橋氏に時間を聞けば、既に12時を大きく過ぎているとのこと。道理で、空腹感を覚える筈だと、昼食タイム場所に相応しい少し先の鹿島神社を目指して車を走らせる。
鹿島神社の縁に腰掛けて、空腹を満たすだけの昼食。その昼食が終わるや、暫くぶりにやって来たこの神社の裏の庚申塔群を覗くことにする。と、前回までは立っていた二基の舟型光背石が見当たらない。不思議なこともある物だと酷い藪の中を入っていけば、二基ともものの見事に倒れ伏している。高橋氏の力を借りて表返しにすれば、どうやら二基とも傷はなく像容的には無事のようである。ホッと一安心してから、もしかしたらこれが写真の撮り納めになるかも知れぬと写真を撮っておく。そして元通りに戻しておく。それにしてもこれでは、県外や市外からやって来た庚申塔探しの人達には見つけだすことが出来なくなった。設置場所は傾斜地の上に、下が崖になっているので、中途半端な方法ではかえって下に落ちてしまう危険性があるので、このままの状態が取り敢えずはベストな保存方法なのである。
その後、板倉町へ立ち寄って確認しながら未撮影の庚申名数塔の写真撮影をしてから馬打峠を越えて月谷町へ入る。その月谷町で、地元の人に尋ねながらの庚申塔探しに入るが、一箇所を除いては思うような成果は得られなかった。しかし、和田地区で山の中にある中世の五輪塔群を案内してもらうことが出来た。その場所は、地元の方に案内されぬ限り判らぬ場所にあるので、思わぬ拾いものをしたことになる。
そうこうして、早くも時刻は午後三時半。そろそろ今日の石仏巡りも終了である。足利からの帰路も、いつもと違って隣には高橋氏がいるので話しに花が咲き、瞬く間に佐野市へ到着。高橋氏と別れた私は、今日の石仏成果の大きさに満足してわざわざ遠回りな栃木市への道を選んで帰宅する。
※ついでに、この石仏巡りの報告も4点ばかりですが掲載しましたので、併せてご笑覧ください。
兎に角今回は、高橋氏と一緒なので銘文解読には期待が持てると、まずは鹿島町の共同墓地にある寛文銘の庚申塔調査から開始。二人でタワシで擦っては磨きの作業を繰り返して、何とか物に出来た。
そして次は、春日部市在住の中山氏と野田市在住の戸向氏が偶然見つけたという板駒型の延宝庚申塔探しである。所在地がはっきりしなかったが、ナビゲータ役の高橋氏の指示通りに運転して、簡単に辿り着くことが出来た。しかし、その銘文解読となると完全にお手上げである。タワシで磨こうが拓本を取ろうが、全く文字が浮かんでこない。中山氏流に言えば「修行が足らん!」ということ。
江戸初期の庚申塔としては申し分のない姿をしているが、それも読めなければ話しにならない。悔し紛れに、その反対側にある手水鉢を眺める。が、こちらも紀年銘は土中に埋もれているのか不明。本当に悔しい場所である。
次は、近くの宝珠坊跡の共同墓地へ移動。ここにある庚申塔の紀年銘が何としても判らず、それでも諦めきれずにこの近くへ来る度に立ち寄っては眺めていたのだが、今日は強力な助っ人である高橋氏が一緒なので大いなる期待を持って紀年銘探し。何しろ、像容的には中山氏のお見立てによれば寛文塔でもおかしくない庚申塔とのお墨付きなのだから。そこで、今回も霧吹きをかけてはあちこちをゴシゴシ、何もでてこなければ又場所を移動してゴシゴシ。そんな事を繰り返して、右側の日輪下を磨いたところ、そこに文字らしき形跡を発見。更に磨きをかけたり紙を押し当てたりと奮闘・努力して、ついに「寛文」の文字を解読できた。
これで、今日の成果は大満足。一人で来たなら、こうすんなりとは行かなかったろうと、言葉に出さずに高橋氏に感謝。その高橋氏に時間を聞けば、既に12時を大きく過ぎているとのこと。道理で、空腹感を覚える筈だと、昼食タイム場所に相応しい少し先の鹿島神社を目指して車を走らせる。
鹿島神社の縁に腰掛けて、空腹を満たすだけの昼食。その昼食が終わるや、暫くぶりにやって来たこの神社の裏の庚申塔群を覗くことにする。と、前回までは立っていた二基の舟型光背石が見当たらない。不思議なこともある物だと酷い藪の中を入っていけば、二基ともものの見事に倒れ伏している。高橋氏の力を借りて表返しにすれば、どうやら二基とも傷はなく像容的には無事のようである。ホッと一安心してから、もしかしたらこれが写真の撮り納めになるかも知れぬと写真を撮っておく。そして元通りに戻しておく。それにしてもこれでは、県外や市外からやって来た庚申塔探しの人達には見つけだすことが出来なくなった。設置場所は傾斜地の上に、下が崖になっているので、中途半端な方法ではかえって下に落ちてしまう危険性があるので、このままの状態が取り敢えずはベストな保存方法なのである。
その後、板倉町へ立ち寄って確認しながら未撮影の庚申名数塔の写真撮影をしてから馬打峠を越えて月谷町へ入る。その月谷町で、地元の人に尋ねながらの庚申塔探しに入るが、一箇所を除いては思うような成果は得られなかった。しかし、和田地区で山の中にある中世の五輪塔群を案内してもらうことが出来た。その場所は、地元の方に案内されぬ限り判らぬ場所にあるので、思わぬ拾いものをしたことになる。
そうこうして、早くも時刻は午後三時半。そろそろ今日の石仏巡りも終了である。足利からの帰路も、いつもと違って隣には高橋氏がいるので話しに花が咲き、瞬く間に佐野市へ到着。高橋氏と別れた私は、今日の石仏成果の大きさに満足してわざわざ遠回りな栃木市への道を選んで帰宅する。
※ついでに、この石仏巡りの報告も4点ばかりですが掲載しましたので、併せてご笑覧ください。