昨日5月3日は、高橋久敬氏と一緒に足尾町へ行きました。私にとっては2年ぶりの訪問です。午前9時に間藤駅での待ち合わせでしたが、早く行き過ぎたのでその前に少しうろうろして情報を収集。その結果、今日は足尾祭りがあって、足尾町中心地には午後2時半まで車での乗り入れは出来ないとのこと。中心地の寺院を訪ねる予定もあっただけに残念だが致し方なしと言うところである。そして9時前に間藤駅に行ってみれば、既に高橋氏は地元の方と世間話をしながら私の到着を今や遅しと待っていた。
今日最初の訪問地は、本山の鉱山神社である。今は全くの山の中となってしまった場所だけに、今日のような機会でもなければ行く気にもなれなかっただけに、私としても初めての訪問で嬉しい限りある。そこには、高橋氏の探しもめている金文製品が沢山残っている。勿論、石造物もあるので、主に灯篭や狛犬などを私は調べる。それにしても、ここは酷い荒れようである。足尾町の鉱山歴史を物語る重要な地点にも関わらず、町では何の保護保全も考えていないようで、二人でその歴史認識の無さに「なんという町だ!」と、ぐちり嘆いてばかりの調査となる。
本当は、町中へ車を置いて巡るはずだった今日の足尾町探察だったが、二台の車を連ねて遠下地区の庚申塔調査へと次に向かう。ここは、私にとっては何度目の訪問になるのだろう。しかし、そこにある碑塔類は写真に撮るだけで調査は全くしていなかったので、今日の最大の目的としてやってきたことになる。まずは車からスコップを取り出して庚申塔の埋もれている下部を掘り起こす作業から開始。途中で高橋氏に交代して、その全体像が出てきたところで写真を撮り、銘文の拓本取りに入る。別掲載のHPをご覧頂けると判るように、それはどう見ても延宝年間を下ることはないと推定される庚申塔だけに、今日は何としても紀年銘が欲しい一心で、二人で左右から墨入れしながら注意深く読んでいく。しかし、そこには偈文・交名はあるものの肝心の探し求めている紀年銘は、その一欠片も出てこない。残念という以上に、非常に悔しい思いだけが残ったのは、その手拓した偈文にしても私の浅学さでは解読出来ないことも加わっている。掘り返した箇所を埋め戻して、高橋氏に時間を問えばまもなく12時だという。何と、今日は2箇所だけで半日を過ごしてしまったことになる。
隣の空き地広場に敷物を敷き、春風を受けながらの昼食とする。食べる口数よりも、雑談の口数の方が多いのんびりした時間をたっぷりと過ごしてから、ついでだから、猿田彦神社へ行って来ようと出発する。ここへは2年前に千葉市在住の沖本氏と西岡氏を案内以来である。
その猿田彦神社のはずれ、キャンプ村の一角で面白い庚申塔を見つけ、何度でも来ればその度に収穫があるものだと二人で大笑いしながら調査する。
その他、適当に見学していよいよ今日の2つ目の目的である、原小学校後の阿弥陀堂へ向かう。何しろここへは之までに何度も来ていながら悉皆調査をサボっているところ。だが、またしても写真撮影が目的となって適当な調査でごまかしてしまう。結局は、ここへはこれからも機会がある度に来たいがために未調査石造物を残してしまうずるい考えが合ってのことだろうと苦笑する。
足尾町唯一の庚申名数塔、十年以上も前に確認しながら写真撮影が未だだったので町中の連慶寺へ行くことにする。しかし、祭りの余韻が残っていて連慶寺さん駐車場が見つからず狼狽えてしまったが、何のことはない、花山車が駐車場一杯に分捕っていて判らなかっただけのことである。車を止めて、連慶寺裏山の愛宕山へ登る。その登る山道途中に、自然石の文字庚申塔が幾つも散乱している中の1基に「二千庚申塔」があるのだが、昔のこととてなかなかにどこにあるのか判らず狼狽えたが、仰向けに倒れているのを発見して無事に撮影終了。これで、足尾町の数庚塔は完了したことになる。ついでに高橋氏に見せるため、猪に乗る愛宕地蔵像を訪ねたが、急な山道に二人してハアハア、ゼイゼイしてしまった。全く、年を取ったというかなまけた体になったものである。下山途中で、今迄気づかずに通り過ぎていた庚申塔の数々を高橋氏が教えてくれる。その中の1基は二つに折れているが、拜待猿像の日光型庚申塔で元禄年間のものである。その後は境内の石造物を写真に撮ったり、福島で鑄造された半鐘などを見て歩いてのんびり過ごし、本日最後の締めとして、通洞の鉱山神社を訪ねて噂に聞こえた狛犬を見学する。
こうして無事に、5月最初の石仏巡りは終了した。帰路は、高橋氏は佐野市へ戻るために桐生経由の道を選ぶのかと思ったら、私と一緒の粕尾峠越えで行くとのこと。ついでだからと、粟野町発光路の妙見神社を見ながら帰路に就いた。
今日最初の訪問地は、本山の鉱山神社である。今は全くの山の中となってしまった場所だけに、今日のような機会でもなければ行く気にもなれなかっただけに、私としても初めての訪問で嬉しい限りある。そこには、高橋氏の探しもめている金文製品が沢山残っている。勿論、石造物もあるので、主に灯篭や狛犬などを私は調べる。それにしても、ここは酷い荒れようである。足尾町の鉱山歴史を物語る重要な地点にも関わらず、町では何の保護保全も考えていないようで、二人でその歴史認識の無さに「なんという町だ!」と、ぐちり嘆いてばかりの調査となる。
本当は、町中へ車を置いて巡るはずだった今日の足尾町探察だったが、二台の車を連ねて遠下地区の庚申塔調査へと次に向かう。ここは、私にとっては何度目の訪問になるのだろう。しかし、そこにある碑塔類は写真に撮るだけで調査は全くしていなかったので、今日の最大の目的としてやってきたことになる。まずは車からスコップを取り出して庚申塔の埋もれている下部を掘り起こす作業から開始。途中で高橋氏に交代して、その全体像が出てきたところで写真を撮り、銘文の拓本取りに入る。別掲載のHPをご覧頂けると判るように、それはどう見ても延宝年間を下ることはないと推定される庚申塔だけに、今日は何としても紀年銘が欲しい一心で、二人で左右から墨入れしながら注意深く読んでいく。しかし、そこには偈文・交名はあるものの肝心の探し求めている紀年銘は、その一欠片も出てこない。残念という以上に、非常に悔しい思いだけが残ったのは、その手拓した偈文にしても私の浅学さでは解読出来ないことも加わっている。掘り返した箇所を埋め戻して、高橋氏に時間を問えばまもなく12時だという。何と、今日は2箇所だけで半日を過ごしてしまったことになる。
隣の空き地広場に敷物を敷き、春風を受けながらの昼食とする。食べる口数よりも、雑談の口数の方が多いのんびりした時間をたっぷりと過ごしてから、ついでだから、猿田彦神社へ行って来ようと出発する。ここへは2年前に千葉市在住の沖本氏と西岡氏を案内以来である。
その猿田彦神社のはずれ、キャンプ村の一角で面白い庚申塔を見つけ、何度でも来ればその度に収穫があるものだと二人で大笑いしながら調査する。
その他、適当に見学していよいよ今日の2つ目の目的である、原小学校後の阿弥陀堂へ向かう。何しろここへは之までに何度も来ていながら悉皆調査をサボっているところ。だが、またしても写真撮影が目的となって適当な調査でごまかしてしまう。結局は、ここへはこれからも機会がある度に来たいがために未調査石造物を残してしまうずるい考えが合ってのことだろうと苦笑する。
足尾町唯一の庚申名数塔、十年以上も前に確認しながら写真撮影が未だだったので町中の連慶寺へ行くことにする。しかし、祭りの余韻が残っていて連慶寺さん駐車場が見つからず狼狽えてしまったが、何のことはない、花山車が駐車場一杯に分捕っていて判らなかっただけのことである。車を止めて、連慶寺裏山の愛宕山へ登る。その登る山道途中に、自然石の文字庚申塔が幾つも散乱している中の1基に「二千庚申塔」があるのだが、昔のこととてなかなかにどこにあるのか判らず狼狽えたが、仰向けに倒れているのを発見して無事に撮影終了。これで、足尾町の数庚塔は完了したことになる。ついでに高橋氏に見せるため、猪に乗る愛宕地蔵像を訪ねたが、急な山道に二人してハアハア、ゼイゼイしてしまった。全く、年を取ったというかなまけた体になったものである。下山途中で、今迄気づかずに通り過ぎていた庚申塔の数々を高橋氏が教えてくれる。その中の1基は二つに折れているが、拜待猿像の日光型庚申塔で元禄年間のものである。その後は境内の石造物を写真に撮ったり、福島で鑄造された半鐘などを見て歩いてのんびり過ごし、本日最後の締めとして、通洞の鉱山神社を訪ねて噂に聞こえた狛犬を見学する。
こうして無事に、5月最初の石仏巡りは終了した。帰路は、高橋氏は佐野市へ戻るために桐生経由の道を選ぶのかと思ったら、私と一緒の粕尾峠越えで行くとのこと。ついでだからと、粟野町発光路の妙見神社を見ながら帰路に就いた。