栃木県さくら市の石碑調査も、いよいよ最後に近づきました。そこで今回は、氏家町最大の石碑である上記掲載の明治天皇駐蹕碑調査に入りました。しかし、上記写真のようにとにかく大きい。いつもなら、その大きさに拓本を採るのは潔く諦めるところなのだが、その篆額揮毫者が熾仁親王。撰文者が山県有朋で、揮毫者が金井之恭。そして石工が井亀泉とあらば、是非手拓して部屋で飽きずに眺めたいと思う気持ちが強くなる。尤も、今回はそのために脚立まで持ってきたし、現地には午前8時には着いていたのだが‥。野原(最近は振興急宅地化が進む)に高く土盛し、更に大きな自然石の台座に立っているこの石碑。それもむべなるか、日清戦争が起こった前々年の明治25年10月に、兵士3万人を集めて3日間行われた大演習に、天皇が駐蹕した場所へ建立されたものなのだ。そこでこちらも、今日は意を決して脚立を立て、まずは篆額から手拓開始。少しずつ風がそよぎ出したが気にせず、一気に碑文手拓へと進むが、本文だけの高さで2メートル。もちろん下部は継ぎ足しの用紙で手拓していく。時間がたつにつれて風は強まる中、延々と手拓作業を進めるが一人での作業では水張りした画仙紙がどんどん乾いていくので、途中での霧吹き作業が忙しい。そして最後の欄外の石工「井亀泉刻字」まで終わったのは、何と何と午後1時半近くになっていた。休みなく、手拓作業のみで約4時間半。いくら、碑面の掃除時間があったとはいえ、あまりにもの時間がかかったことに自分で驚きつつ、まだまだ拓本採りの修行が足りないと実感する。翌14日は、ふくらはぎがパンパンに張って痛いことこの上なし。やはり、歳であることを実感!。
そして自宅へ帰り、改めてそのつぎはぎだらけの拓本を広げて読めば、流石に戦争に関した碑文だけにそれほどの難しい内容ではないことに安堵。しかし、流石は山県有朋である。(石碑に撰文者と記されているので素直にそうしたが、内心では本当の撰文者は別にいて多分揮毫者金井之恭あたりだろうと思っている。これほどの銘文が山形有朋では書けないだろうと!)途中途中に、石碑調査に長く携わったものでないと読み下しに苦労する、省略した熟語が垣間見える。そして書体は、私の好きな金井之恭の書だけに、見ているだけで安心感がある。それにしても、この大きいのをこれからどうやってパソコンに取り込むか、また悩みが増えてしまった。A4のスキャナでは何十回と同じ作業を繰り返さなければならない。こうして、やらずもがなの趣味に苦労しているのだから、本当に私は馬鹿であると、苦笑している。
ところで、さくら市氏家地区の石碑調査は、残り1基。しかしこれが問題で、かつては当地の権門個人宅にあったものが今は市の管理下にあり、生涯学習課へ調査許諾を申し出たら、「個人の方には特別に開放しません。次回は11月1日一般開放がありますので、よかったらその時に見てください」と、つれない返事。理由を聞いたら、ただ管理人がいないのでどうやらメンドウらしい。何が、生涯学習課かと思ったが、まあ「生涯」を「障害」と入れ替えれば怒る気持ちも治まるというものだ。それにしても、なぜ役所の人間はああも偉ぶるのかと思う。調査報告書を今月には仕上げるつもりでいたのだが、まあ11月まで気長に待つことにしよう。多分、手拓は許可されず、写真を撮るだけが精一杯のことになるだろうが‥。ということで、次回からはさくら市を離れ、これから強風が吹き荒れる県南地区へ戻ることにしようと思っている。