昨日は、足利市松田町の松田神社に建立されている個人顕彰碑2基の碑陰にある交名を手拓してきました。この2基の調査報告書を書くための資料としてなので、簡単に写真だけでも良かったのでしょうが、氏名は一字たりとも間違いは許せないことなので、念には念を入れて拓本を採ったわけです。しかし、朝方までの雨で碑面はビッショリ。加えて汚れが酷すぎて碑面を洗わないことには作業にならないので、相変わらず水路からバケツで水を汲んでは碑面掃除で、益々タップリと水分を含ませてしまった。そこで今回は、手持ちの画仙紙の中で最も薄い用紙を取り出して水張り。勿論、いつものようにタオルで水分を取るが、石の中から湧き出してくる水分で、見る間に又ビッショリ。そこで面倒でも、画仙紙の橋切れで吸い取り紙よろしく、それで水分を取り除く。面倒なので、二基一度に全て水張り(どうせ、碑陰なので一時間以上経過しても墨入れするにはまだ乾かぬだろうと推測)し、且暫く墨入れ出来るまで時間待ちとして一休み。そんなこんなで、二基の手拓作業が終わったのは12時になってしまった。半切画仙紙で5枚なのに、朝8時からここまで時間を費やすとは、と苦笑いである。
そして昼食後は、以前に手拓した文字が読めないところがあったのでその文字を再確認のために立ち寄ってから、掲載した写真の庚申塔がある篠生(おごせ)神社へ向かう。その目的は、この庚申塔の碑陰にある銘文箇所の剥離が進んでいるので、今の内に拓本を採って残して置くためである。その銘文は短く、以下に示すがごとくである。ただし、1文字が大きい!。苔などもあるが面倒なので、そのまま強引に手拓する。
「庚申」「七十七齢霞翁」(碑表)
「余嘗有所志願登高山渉深澤禮拝」
「庚申塔既歴七星霜其数一萬五千」
「體所願已就因建此塔云文久紀元」
「歳次辛酉冬十月十有六日」
「阿部仙五郎知睦」
ここで思わず笑ってしまうのは、7年間で15,000基の庚申塔を高山・深沢を跋渉して礼拝したとあること。庚申塔は、高山には無く、深い沢にも勿論無く、その殆どは各地周辺の庚申塚にある。しかも栃木県全部でも庚申塔は10,000基もあるわけが無い。加えて、それらを7年で巡ったとは、庚申塔巡りがどれほど時間が掛かるかを知らない人のホラ吹き寝言である。江戸最末期のこととは言え、ここまで嘘を書いた石碑を建てて良い時代だったのだろうかと、苦笑である。しかし、それでも石碑銘文には変わりは無いので、後世に残すためせっせと手拓している自分が可笑しくなる。
それでも帰宅するにはまだ時間が余ったので、帰路途中で石碑のあるある神社に立ち寄る。見れば、銘文が泥などで汚れていて読めないどころか、見えない。仕方が無いので、神主さんのお宅を訪ねて水洗いの許可を得ようとしたら、奥様が言うには「神社総代の方々の許可がないと、私はいいです、と云えないという。碑面の銘文が読めないので、読ませてくださいと云って断られたのは、佐野市田沼町のあるお寺を含めて今までに2例目。自分の管理する神社の石碑を綺麗にせず、それは神社総代の仕事なのだろうかと思うだけで、口には出さずに「お忙しいところをお邪魔しました:と、呆れたまま帰路に着く。嗚呼、イヤダいやだ!。次回は、もっと気分良く調査出来る所へ行きたいものである。