石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

栃木県旧今市市に所在する関東大地震に関する石造物銘文の一つをご紹介。

2018年10月07日 | Weblog

昨日10月6日は、深い霧(雨)の中を旧今市市へ出かけました。前も見えないような深い霧でしたが、田舎道を経由して何とか日光街道へ出たらそれも晴れて一安心。今日こそ、今夏の自分に課した今市地震に関する石碑類調査を完了しようと出かけたわけである。最初の目的地である日光・和泉地区のの磐裂神社へ着いたは良いが、その記念碑はびしょ濡れ。加えていつものように、碑面を水洗いしたので、とてもではないが画仙紙を貼る気力もなくして駐車場へ戻って一休み。コーヒーを飲みながら時間つぶしをするも、全く石碑面からは水分が抜けずに手拓出来る状態ではない。そこで思案し、今日のもう一つの目的である今市市の災害碑調査に加えるために、10年以上も前に調査済みの徳性院へ行くことにする。何よりも、写真撮影を忘れていたからであるが…(笑)。
その、銘文にあるのがここへ掲載した宝珠錫杖持の立像地蔵尊の台座にあるもの。その台座にある銘文は、念仏講による「大正十二年九月一日大地震 惨死者供養記念塔建設」とあり、その他に交名あり。
これはご承知のように、1923年(大正12年)9月1日11時58分頃
に発生した関東大地震のことで、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。もう一基は、ここから近くのお寺さんにあるが、今回は時間がなくその調査は次回への持越しである。ここでの調査を終えてから、まだ初回の石碑はどうせまだ水気が取れないだろうからと、次の今日の今市地震災害碑の一つである、同震災による横死者の石碑調査を先に済ませるべく行くことにしたが、現地へ行ってみると夏草と笹と雑木の林となっていて、道路からは全くその石碑の姿が見えない。仕方がないので持参した剪定鋏で丁寧に周囲を切り払い、全景を丸出しにする。いや~あ、これには疲れましたし、何よりも時間の浪費である。そしてまたしても綺麗に碑面を水洗いすれば、その石碑は見違えるようになって道路沿いからもはっきり見えるようになった。地元の人が通りがかりに何をしているのかと立ち寄り、地震で亡くなった人々の石碑なのを知って深く興味を持ってくれたのは、何よりも嬉しい事であった。そして地元の人々と雑談しながら拓本を採り、それが終えたときには既に12時を過ぎていた。
それから急いで、最初の場所へ行ってみると、相変わらず碑面は汗をかいたように水分が噴出している。仕方なく乾いたタオルでその碑面を拭いて水分を少しでも取ってから、また駐車場へ戻って、のんびりとした昼食時間とした。
時計は既に午後1時を
過ぎている。森林に覆われた神社の夕暮れは早い。グズグズしていると、手拓途中でタイムアウトになりかねない。画仙紙を貼り、その上からもう一枚画仙紙を貼って、その水分を少しでも吸い取ってもらって減らそうと、その上からタオルで抑えながら水分除去。そして何とか、こんな場合に使用する特別に水に強い墨を使って墨入れする。しかし、予定では碑陰にある交名なども手拓するつもりだったが、碑表だけの手拓を終えれば早くも暗くなりだした現場と、やぶ蚊がますます増えてきたのでそれは断念し、三脚を設置して写真撮影による銘文清書として駐車場へ戻る。出発間際になって、その拓本を採った画仙紙を少し離れた本殿軒下に干していたのを忘れ、慌ててまた滑りやすい参道を登って取りに行く。嗚呼、もう少しで大変な目に遭うところだったと胸をなでおろしてから、もう一度身の回りに忘れ物がないかを再確認して帰路に就く。
そして何とか、自分自身に課した今年の夏休み宿題を終了した満足感一杯の気持ちで、車中では次への意欲が生まれてどうせなら今年中に旧今市市災害碑を纏めてみようかと安易に考えている。

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