石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

一年半ぶりに、栃木県内の石碑調査に戻りました。

2021年06月15日 | Weblog

先週日曜日から、ようやく栃木県内の石碑調査に戻ることが出来ました。その最初の訪問地は、栃木県藤岡町(今は栃木市と吸収合併して、栃木市藤岡町です)の大前(オオマエ)地区にある大前神社(こちらは読みがオオサキです)である。暫くぶりなのだが、ナビを使用せずにいつものように感覚だけが頼りで適当に車をすすめるが、どうも小山市寄りを走っているようだ。もう少し西側へ行かなければと、相変わらず適当に走って行って、何となく昔の道路に出会って一安心。それでも宇都宮から1時間強も掛かってしまった。神社西側には、昔のままに庚申塔を始めとした顔なじみの石仏がずらりと並んでいるのを目にして、まずはここで一休み。
さて今日の目的は、私の長年の宿題であった江戸末期から明治期にかけて活躍した森保定(森鴎村)という儒学者の碑文調査である。当地には、1基だけは確実に彼の撰文した石碑があることは知っていたが、目の前にあるのは「水戸部翁碑」という初めてその存在を知った石碑。コーヒーカップを片手にしながら眺めると、石碑の大きさは高さが152.0×幅113.0cmある、意外と存在感を持っている石碑。しかも根府川石を使っているので、拓本を採るには最適な石材。当地へ来て、最初に出会った以上はこれを今日の調査対象とすることに決めた。早速いつものように碑面掃除から始めたが、碑面に付いたツタの根に悩まされる。小さなツタの根を爪を使って挟んでは丁寧に取り除いていく。爪でピンセット代わりに挟んでも採れない根は、爪を立てて直接碑面に当ててゴシゴシとコスって取り除く。これをしないと、採拓した拓本はそのツタの根がまともに邪魔してだれがやってもロクな拓本にはならない。そのツタの根採りだけで一時間余を浪費してしまう。そしてやっと手拓作業に入るも、今回は暫くぶりという事もあっていつも使用している特大のタンポ類を持ってくるのを忘れる。加えて、前回までの田沼町庚申山の庚申塔手拓で使ったままの墨は、その墨が使いすぎて息切れしている。さらに今日は曇りで風もない天気予報だったが、南風が意外と強く吹いている。更に、画仙紙は半切しか持ってきていないので、篆額を横張りにして一枚。銘文は縦にして3枚の計4枚を使用しなければならない。水張りするも、風が強いので直ぐに乾いてしまう。まだ、半切用紙だから良いものの、全紙だったら途中であきらめてしまっただろう。そして3時間の苦労の上で何とか墨入れが終わった。従って昼食は午後1時に近かった。暫くぶりの立ち仕事だったので、正直疲れた。その拓本画像等は、まだPCに取り込んでいないが、多分今週中にはここへ掲載できるだろうと思っている。
そんなこんなで、結局は本来の目的であった石碑とは出会わずに昼食後は浮気して、小さな石碑調査をして帰宅する。もちろんこれも、森保定の撰文である。そしてこの石碑には、揮毫者が揮毫間違いした文字が三字あることが記されている。このような揮毫文字訂正碑は栃木県内でも意外と少なく、恐らくこの周辺では多分この石碑だけだと思われる。今回は勉強のために、その内容を拓本画像を添えて掲載してみよう。それにしても、その文字は小さい。直径5ミリのタンポで何とか墨入れしたが、小さい文字であることには変わらない。石碑写真ではまず以て読めないだろう。

ウーム、これでは拓本画像が小さすぎてその訂正文言がよく分からない。そこで、ここにその内容を書き出してみると、「醵誤鐻金下凡字」「強字衍」とあり、その意味は「鐻」の文字は誤りで正しくは「醵」。金の下に「凡」の文字が抜けている。更に(千圓の次の文字「強」の文字は余計な文字(衍字=エンジ)である。と記されている。つまり、誤字に脱字、不要な文字の挿入と、間違いが三つの種類であることが判るだろう。
このように、揮毫するときに不注意で間違うことは誰にも起こりえることで、それを正直にこうしてその石碑に訂正文を乗せることが出来るのは、如何にその人物が人間的にも優れた人物であるかが知れようというものである。

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