庚申塔の大先輩であり、何かとお世話になりました春日部市の中山正義氏が、6月5日に永眠致しました。奥様から7日の早朝にご逝去のお電話があり、声も出ないほど驚きました。(6日はいつものように石仏巡りへ出かける予定だったのですが、天候が悪く出発時間を延ばして様子見をしていた時で、これも中山さんが「今日は連絡があるから、家を出るのはもう少し待ってて」と、私を引き留めたのでしょう)。
それにしても、先月5月中旬に中山さんと電話で話をしていたときは元気な声で冗談を言い合っていたのに…。
体調が悪いと31日に入院されてから、まさに日を置かずに中山さんらしい逝き方ですが、それを突然聞かされた私としては驚き以外の何ものでもありませんでした。中山さんは、生前から「死ぬときはそよ風が通り抜けるように逝き、葬式もせずに今世から静に去りたい」といっておられましたが、その通りの逝き方でした。
そして7日の日曜日、本当のお身内だけの心のこもった告別式が執り行われました。奥様の代わりに、「多摩石仏の会」会長である犬飼康祐氏に連絡をし、7日12時半からの告別式に参列させていただきました。奥様のご配慮で最後まで中山さんをお見送りをし、生前の中山さんとの尽くせぬエピソードや石仏巡りご一緒での中山様の思い出など、お子さま達を交えて語り合うことが出来ました。
それにしましても、もう中山さんのあのベランメェ~口調は聞くことが叶わなくなりましたし、共に庚申塔や念仏塔等について議論し、語り合うことも出来なくなりました。ほんとうに、心寂しいことです。中山さんとの石仏巡りは昨年の4月27日に、栃木県鹿沼市・栃木市・上三川町の庚申塔調査に行ったのが最後となりました。その時は、陽気も良くて庚申塔の側で2時間以上も草原に座って楽しい石仏談義をしたのをほんの昨日のように思い出します。その後、10月に大平町で新たな延宝塔を見つけたので案内するとの約束で日時まで決めていながら、体調不良で実行されませんでした。そして先月5月には、佐野市の高橋氏と一緒に佐野市内で新たに見つけた延宝庚申塔の写真を中山氏に送り、「嗚呼、また一緒に見に行きたいな~」が、中山さんとの最後の会話となってしまいました。
そして何と言っても中山さんとの石仏巡りは、日光市の庚申塔精査作業で、何度も何度も一緒に、東武日光線の「新鹿沼駅」で落ち合い、あちこち寄り道しながら見に行ったことです。まともな人なら、降参して銘文解読努力に諦めるところを執拗に取り組み、1基で2時間以上も碑面と向かい合い、ついに読めたときは二人でバンバイザイ!と喜んだことです。まさに私の石文解読は、中山さんによりその方法のみならず謙虚に解読する本物の解読術を教えていただいたことです。そして何よりも石仏に対する思想で、その考えは中山さんと私は全く同じであって、その点でも意気投合したのでした。歳の離れた兄貴として、中山さんと出会えたことは私にとって最高の巡り逢いでした。そんな中山さん、私にとっては早過ぎる別れでしたがこれも定めと受け入れましょう。あれほど、「もう80歳になったのだから、中山さんの存在は石仏巡りに行かれなくても元気でいてくれれば十分ですよ」という、毎回の話の分かれ言葉でしたが、それも出来なくなりました。本当に、中山さん、ありがとうございました。あの世とやらで、私の中山さん譲りの石仏調査姿勢を見守っていてください。中山精神は、弟子として私が引き継ぐ覚悟でいますので…。
そんな中山さんとの告別式当日、朝早く家を出てその春日部市まで向かう間で気になっていた碑塔の再調査をしながら向かう。これも、私流の中山さん供養の一つの儀式のつもりである。それでも早く着いてしまい、仕方なく時間潰しに近くの無住寺へ行く、そこにも沢山の庚申塔が並んでいるのを見て、これらの庚申塔も中山さんはナデナデしながら熱心に見たのだろうと、それらの庚申塔が中山さんの姿とダブって見えてしまった。そんな庚申塔は調査せず、今回は眺めるだけにして告別会場へ戻った。帰りは犬飼さんと一緒に春日部駅まで行き、4時にそこで別れる。犬飼さんは電車で片道2時間半ほどかかるという。一方、私の方は中山さんのことを偲びながら、高速道路は使わずのんびり旧四号線を下って帰ることにして、私も自宅へ着いたのは7時近くと犬飼さんと何ら変わらぬ時間を要して帰宅した。
それにしても、先月5月中旬に中山さんと電話で話をしていたときは元気な声で冗談を言い合っていたのに…。
体調が悪いと31日に入院されてから、まさに日を置かずに中山さんらしい逝き方ですが、それを突然聞かされた私としては驚き以外の何ものでもありませんでした。中山さんは、生前から「死ぬときはそよ風が通り抜けるように逝き、葬式もせずに今世から静に去りたい」といっておられましたが、その通りの逝き方でした。
そして7日の日曜日、本当のお身内だけの心のこもった告別式が執り行われました。奥様の代わりに、「多摩石仏の会」会長である犬飼康祐氏に連絡をし、7日12時半からの告別式に参列させていただきました。奥様のご配慮で最後まで中山さんをお見送りをし、生前の中山さんとの尽くせぬエピソードや石仏巡りご一緒での中山様の思い出など、お子さま達を交えて語り合うことが出来ました。
それにしましても、もう中山さんのあのベランメェ~口調は聞くことが叶わなくなりましたし、共に庚申塔や念仏塔等について議論し、語り合うことも出来なくなりました。ほんとうに、心寂しいことです。中山さんとの石仏巡りは昨年の4月27日に、栃木県鹿沼市・栃木市・上三川町の庚申塔調査に行ったのが最後となりました。その時は、陽気も良くて庚申塔の側で2時間以上も草原に座って楽しい石仏談義をしたのをほんの昨日のように思い出します。その後、10月に大平町で新たな延宝塔を見つけたので案内するとの約束で日時まで決めていながら、体調不良で実行されませんでした。そして先月5月には、佐野市の高橋氏と一緒に佐野市内で新たに見つけた延宝庚申塔の写真を中山氏に送り、「嗚呼、また一緒に見に行きたいな~」が、中山さんとの最後の会話となってしまいました。
そして何と言っても中山さんとの石仏巡りは、日光市の庚申塔精査作業で、何度も何度も一緒に、東武日光線の「新鹿沼駅」で落ち合い、あちこち寄り道しながら見に行ったことです。まともな人なら、降参して銘文解読努力に諦めるところを執拗に取り組み、1基で2時間以上も碑面と向かい合い、ついに読めたときは二人でバンバイザイ!と喜んだことです。まさに私の石文解読は、中山さんによりその方法のみならず謙虚に解読する本物の解読術を教えていただいたことです。そして何よりも石仏に対する思想で、その考えは中山さんと私は全く同じであって、その点でも意気投合したのでした。歳の離れた兄貴として、中山さんと出会えたことは私にとって最高の巡り逢いでした。そんな中山さん、私にとっては早過ぎる別れでしたがこれも定めと受け入れましょう。あれほど、「もう80歳になったのだから、中山さんの存在は石仏巡りに行かれなくても元気でいてくれれば十分ですよ」という、毎回の話の分かれ言葉でしたが、それも出来なくなりました。本当に、中山さん、ありがとうございました。あの世とやらで、私の中山さん譲りの石仏調査姿勢を見守っていてください。中山精神は、弟子として私が引き継ぐ覚悟でいますので…。
そんな中山さんとの告別式当日、朝早く家を出てその春日部市まで向かう間で気になっていた碑塔の再調査をしながら向かう。これも、私流の中山さん供養の一つの儀式のつもりである。それでも早く着いてしまい、仕方なく時間潰しに近くの無住寺へ行く、そこにも沢山の庚申塔が並んでいるのを見て、これらの庚申塔も中山さんはナデナデしながら熱心に見たのだろうと、それらの庚申塔が中山さんの姿とダブって見えてしまった。そんな庚申塔は調査せず、今回は眺めるだけにして告別会場へ戻った。帰りは犬飼さんと一緒に春日部駅まで行き、4時にそこで別れる。犬飼さんは電車で片道2時間半ほどかかるという。一方、私の方は中山さんのことを偲びながら、高速道路は使わずのんびり旧四号線を下って帰ることにして、私も自宅へ着いたのは7時近くと犬飼さんと何ら変わらぬ時間を要して帰宅した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます