石仏巡りに出かけられない分、デスクワークに夢中になっています。ただ今は、2008年に数冊だけ作成した「栃木県内江戸前期迄の庚申塔」の、最終校正版を作成中です。その栃木県内江戸前期(貞享年間まで)迄の庚申塔総数は、推定を含めて295基です。全データ一覧は勿論のこと、各市町毎にもデータを掲載し、併せて全画像をも掲載する事にしました。特にデータは、出来うる限り正確に全内容を掲載する事にしました。その為に、B5判で269頁というページ数になってしまいましたが致し方ありません。今回も、その作成冊数は全てが手作りのために最大で五冊迄にしようと思っています。この作業が、今年の夏の最大目標と致しましょう。
それと、夜は相変わらず宇都宮市内の碑(いしぶみ)の勉強中です。ついでだから、続編を纏めたくその資料探索やら個人顕彰に関わる記事を集めていますが、思うように進んでいません。特に次回の続編は個人の墓石からも輯集したいと思っているので、なかなかにその情報を得ることが出来ません。特に、一家墓地に多そうなので半分は諦め気分ですが、そんな天の邪鬼的な調査が大好きな私ですから、こちらは期限を決めずにのんびりやりましょう。
それにしても思うことは、今回調査した碑(いしぶみ)の中には、訓読したものや書き下し文などをしたものも数基見られるが、その好い加減なことこの上ありません。恐らくは、碑文を自分では実際に読みもせずに、他人が書き写したものから転用して書いたので全く文章的におかしくても平気で書いています。その中の一つに、二荒山神社で配布している蒲生君平碑の二枚の解読文。特に、岩崎良能氏による書き下し文にはその大胆な間違いに一瞬とまどい、もしかして二荒山神社で作成した時の資料の転記間違いかと、図書館へ行ってその出典の元となる「偉人蒲生君平の生涯」を借りてきて見たら、その本の中が間違っていたのだから、二荒山神社の責任ではありませんでした(笑)。
また、栃木県護国神社のホームページの中にある「戸田忠恕公」の碑文紹介に至っては、もう笑うしかありません。そうした行為って、撰文者に対して非常に失礼な話だとは思わないのでしょうかね。そもそも現代の人達が、幕末から明治にかけて活躍した人々の文章に手を入れるなど、その能力の歴然とした差から言っても烏滸がましい行為だと思わないのですかね。いい、度胸をしていると言うべきか、学問の恐れを知らぬ者の行いにただ感歎するばかりです。嗚呼、また自分のことを棚晒しにして他人様のことを非難してしまった。関係者に、半分は乞う、お許しと言ったところです。
それと、夜は相変わらず宇都宮市内の碑(いしぶみ)の勉強中です。ついでだから、続編を纏めたくその資料探索やら個人顕彰に関わる記事を集めていますが、思うように進んでいません。特に次回の続編は個人の墓石からも輯集したいと思っているので、なかなかにその情報を得ることが出来ません。特に、一家墓地に多そうなので半分は諦め気分ですが、そんな天の邪鬼的な調査が大好きな私ですから、こちらは期限を決めずにのんびりやりましょう。
それにしても思うことは、今回調査した碑(いしぶみ)の中には、訓読したものや書き下し文などをしたものも数基見られるが、その好い加減なことこの上ありません。恐らくは、碑文を自分では実際に読みもせずに、他人が書き写したものから転用して書いたので全く文章的におかしくても平気で書いています。その中の一つに、二荒山神社で配布している蒲生君平碑の二枚の解読文。特に、岩崎良能氏による書き下し文にはその大胆な間違いに一瞬とまどい、もしかして二荒山神社で作成した時の資料の転記間違いかと、図書館へ行ってその出典の元となる「偉人蒲生君平の生涯」を借りてきて見たら、その本の中が間違っていたのだから、二荒山神社の責任ではありませんでした(笑)。
また、栃木県護国神社のホームページの中にある「戸田忠恕公」の碑文紹介に至っては、もう笑うしかありません。そうした行為って、撰文者に対して非常に失礼な話だとは思わないのでしょうかね。そもそも現代の人達が、幕末から明治にかけて活躍した人々の文章に手を入れるなど、その能力の歴然とした差から言っても烏滸がましい行為だと思わないのですかね。いい、度胸をしていると言うべきか、学問の恐れを知らぬ者の行いにただ感歎するばかりです。嗚呼、また自分のことを棚晒しにして他人様のことを非難してしまった。関係者に、半分は乞う、お許しと言ったところです。
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