石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

今回は暫くぶりに手写した銘文を最初の段階でのワープロ入力状態を掲載しました。

2017年11月01日 | Weblog


10月は毎週末になると決まって天候が悪く、拓本採択には泣きました。それでも、10月は意外と成果が多くて8基の石碑を調査出来ました。拓本が採れない石碑3基は、暫くぶりに本気になって手写して来ました。参考のために写真も撮ったのですが、やはり拓本には負けます。特に今回御紹介する碑文は、寛政八年に建立されたもので、しかも約760文字有り、ご覧のようにワープロにある明朝文字で最初の銘文清書をしたのですが、上記掲載した画像にある赤文字は異体字を含めて全て作字文字の対象であることを表し、最終的には全てを作字で仕上げなければならない文字です。これからその作業に入るのですが、初回校正までには早くても3昼夜は必要となるでしょう。そしていつも恐れるのは、その中の漢字に不安なものがあれば、清書したのを持って再びこの石碑の前に立たなければならないことです。それだけに、その前に少なくも素読だけはして、単語の意味だけはおさえておくことにしましょう。それでも、こうして寛政時代の文字が自分の手でよみがえらせる嬉しさに、心ワクワクといった所です。それにしても、ここまでの作業で感じたことは、流石に太田錦城の撰文だけに何と素晴らしい内容の漢文か(全文の読み下しは無理だろうと思いつつ)と。それというのもこの作業に入る前にしていた、明治30年代の石碑銘文のお粗末さにウンザリしていただけに、本当に眼福ものです。
そんな、文字変換が終わりましたら、気分次第で今回の赤字銘文文字がどのように変わったのかを、ここへ掲載したいと思っています。

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