一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『あゝ、荒野』(後篇)…肉体と肉体をぶつけ合い心を通じ合わせてゆく傑作…

2017年10月25日 | 映画


映画『あゝ、荒野』の原作は、
かつての激動の時代に、演劇、映画、文学とマルチに活躍した寺山修司(1935~1983)。
彼が遺した唯一の長編小説『あゝ、荒野』は、
1960年代の新宿を舞台に、
少年院に入り、早すぎた人生の挫折を味わった新次と、
吃音と赤面対人恐怖症に悩む“バリカン”こと建二が、
それぞれの思いを胸に、
裏通りのさびれたボクシング・ジムで運命の出会いを果たし、
もがきながらもボクサーとしての道を歩んで行く物語。
かれらを取り巻く訳ありな人々も同時に描きながら、
それぞれの“心の荒野”を見つめた群像劇ともなっている。

映画は、
その原作を大胆に再構築し、
2020年の東京オリンピック後を舞台にした、
新たな物語として生まれ変わらせている。
主人公の新次に、若手実力派俳優の筆頭格・菅田将暉。
もう一人の主人公“バリカン”には、韓国映画『息もできない』で各映画賞を総なめにしたヤン・イクチュン。
その他、ユースケ・サンタマリア、でんでん、木村多江、高橋和也、モロ師岡など、
魅力あふれる役者陣も顔を揃えている。
監督は『二重生活』の岸善幸。

前篇(10月7日公開)に引き続き、(前篇のレビューはコチラから)
後篇(10月21日公開)も見てきた。
九州では、

福岡 中洲大洋(前篇10月7日、後篇10月21日公開)
熊本 Denkikan(前篇10月7日、後篇10月21日公開)
大分 大分シネマ5(前篇10月21日、後篇10月28日公開)
鹿児島 天文館シネマパラダイス(前篇10月21日、後篇11月11日公開)

の4館でしか上映しておらず、
佐賀での上映予定はなかったので、
前・後篇ともに、福岡の中洲大洋まで行って鑑賞した。


【前篇】
2021年、
ネオンの荒野・新宿。
ふとしたきっかけで出会った、
新次(菅田将暉)と、
“バリカン”(ヤン・イクチュン)は、
見た目も性格も対照的。


だが、共に孤独な二人は、
ジムのトレーナー“片目”こと堀口(ユースケ・サンタマリア)とプロボクサーを目指す。


お互いを想う深い絆と友情を育み、
それぞれが愛を見つけ、自分を変えようと成長していく彼らは、
やがて逃れることのできないある宿命に直面する。


幼い新次を捨てた母(木村多江)、


“バリカン”に捨てられた父(モロ師岡)、


過去を捨て、新次を愛する芳子(木下あかり)、


自殺願望者たちを集めて、
自殺防止イベントを開催する川崎敬三(前原滉)をリーダーとする大学生たち……


孤独という暗闇の中で生きる彼らは、
もがきながら、闘いながら、都会の荒野で彷徨うのだった……

(前篇のレビューはコチラから)


【後篇】
“片目”(ユースケ・サンタマリア)に誘われ、


兄貴分の立花劉輝(小林且弥)を半身不随にした裕二(山田裕貴)への復讐を誓って、


ボクシングを始めた新次(菅田将暉)。


その因縁のある裕二との試合が決まって、
一層トレーニングに励む新次は、


健二の父親(モロ師岡)が自分の父親の死に関わっていたことを、
幼いときに自分を捨てた母親(木村多江)から聞かされる。


複雑な思いを抱くが、
それを振り払うかのように、裕二との戦いに挑んでゆく。


一方の健二(ヤン・イクチュン)は、


自殺した川崎敬三(前原滉)の子供を身ごもっていた西口恵子(今野杏南)が倒れていた現場に遭遇し、救急車を呼ぶ。
流産した恵子は、助けてくれた健二にお礼を言いに現れる。


そんな恵子に健二は心惹かれ、
ラブホテルに行って初体験をしようとするが、できない。
「あなたとは繋がれない」
と言って別れる。
様々なことがあり、孤独を消せずにいた健二は、
新次に対して特別な感情を抱いていることに気づく。
〈新次と繋がりたい……〉


新次と繋がるためには、新次と戦うしかない。
新次の肉体に、自分の肉体をぶつけるしかない。
健二は、新次と対戦するために、ジムを辞め、
新たなジムに所属し、新次との決戦に備えるのだった。
……そして、ついに、健二と新次の対戦の日がやってくる。




前篇2時間37分、後篇2時間27分で、
前・後篇では5時間を超える大作である。
上映館の少なさから言っても、
一般受けは難しいだろうが、
なんだか、カルト映画として、いつまでも残っていく作品のように感じた。
それほどの“熱”を感じた。




原作本(寺山修司『あゝ、荒野』)を読んだとき、
次のような文章があった。

あの、殴りながら相手を理解してゆくという悲しい暴力行為は、何者も介在できない二人だけの社会がある。あれは正しく、政治ではゆきとどかぬ部分(人生のもっとも片隅のすきま風だらけの部分)を埋めるにたる充足感だ。相手を傷つけずに相手を愛することなどできる訳がない。勿論、愛さずに傷つけることだってできる訳がないのである。(角川文庫247頁)

この小説では、
それぞれが、肉体と肉体をぶつけ合いながら、
心を通じ合わせてゆく。
男と男の場合は殴り合いであり、
男と女の場合はセックスだ。


新次(菅田将暉)と裕二(山田裕貴)、


新次(菅田将暉)と健二(ヤン・イクチュン)、


新次(菅田将暉)と芳子(木下あかり)、


健二(ヤン・イクチュン)と西口恵子(今野杏南)、


“片目”(ユースケ・サンタマリア)と芳子の母親・セツ(河井青葉)


といった具合に、
殴り合いとセックスが、
後篇は前篇よりも多くなっている。
この肉弾戦こそが、この映画『あゝ、荒野』の肝だ。
ストーリーとか、構成とかは、正直どうでもイイのだ。
だから、(特に後篇は)映画としては、まとまりに欠ける。
混沌としている。
そこを映画評論家たちは指摘し、批判していたが、
私に言わせれば、そこが好いのだ。

寺山修司は、小説『あゝ、荒野』の“あとがき”に、こう記している。

この小説を私はモダン・ジャズの手法によって書いてみようと思っていた。幾人かの登場人物をコンボ編成の楽器と同じように扱い、大雑把なストーリーをコード・ネームとして決めておいて、あとは全くの即興描写で埋めてゆくというやり方である。したがって、実に行き当りばったりであって、構成とかコンストラクションとはまるでほど遠いものとなった。しかし、書きながら登場人物がどう動いてゆくかを(登場人物と一緒に)アドリブで決めてゆくという操作は私にとって新鮮な経験であった。

映画の方は、さすがに原作小説ほどではないが、
各シーンが即興的に繋がれていく。
それが面白い。
特に肉体と肉体がぶつかり合うシーンでは、
それぞれの俳優たちが即興演奏のように自在に動いている。


そんな、一見、自由に、即興的に創られているかにみえる映画『あゝ、荒野』であるが、
ラストは、実に原作に忠実に再現されている。
原作である小説を読んだとき、
〈映画ではさすがにこのラストは変えているだろう……〉
と思っていたのだが、
それを岸善幸監督は好い意味で裏切ってくれた。
これほど原作に忠実に再現していたとは……
本当に驚かされた。


そういう意味で、
映画鑑賞前、あるいは映画鑑賞後に、原作の小説を読んでみると、
一味違った感想を得ることができるだろう。

寺山修司は、先ほど紹介した“あとがき”の続きには、こうも記している。

私はこれを書きながら、「ふだん私たちの使っている、手垢にまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか」ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重ねたことのデペイズマンから、垣間見ることのできた「もう一つの世界」そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになるような共通地帯への回路がかくされているように思えたからである。

映画では、
原作の1960年代とは違って、
2020年の東京オリンピック後の新宿という設定に変えてあるが、
映像自体は昭和感にあふれており、懐かしささえ感じるほどだ。
どこかで見た風景、
どこかで聴いた音楽、
どこかで聞いた言葉、
どこかで嗅いだ肉体の匂い、
どこかで味わった感触……、
それら、既視感あふれるシーンが積み重ねられ、


肉体と肉体がぶつかり合う先に、
「もう一つの世界」が、確かに、垣間見えた。
前・後篇では5時間を超える映画であるが、
見る価値のある作品である。
機会がありましたら、ぜひぜひ。


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