
『魔の山』読了計画の7回目。
いよいよ最終回です。
今回は、下巻の401頁から790頁までの第七章(最終章)を(5日をかけて)読んだ。
第一章は、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着当日、
第二章は、ハンス・カストルプの少年時代、
第三章は、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着2日目、
第四章は、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着3日目から3週目の直前まで、
第五章は、ハンス・カストルプのベルクホーフ到着後7ヶ月目まで、
第六章では、ナフタの登場と、ヨーアヒムの死が描かれていた。
いよいよ最終章となる第七章である。
いかなる結末となるのか……
第七章は、
「海辺の散歩」
「メインヘール・ペーペルコイン」
「トゥエンティー・ワン(Vingt et un)」
「メインヘール・ペーペルコイン(続き)」
「メインヘール・ペーペルコイン(おわり)」
「巨大な鈍感」
「妙音の饗宴」
「ひどくいかがわしいこと」
「立腹病」
「霹靂」
という10の節から成り立ち、


ハンス・カストルプがベルクホーフに来て7年後に、
この療養所を出て、「魔の山」を下りるまでが描かれている。

第六章では、独裁とテロによって神の国の実現を目指すナフタという男が登場したが、
第七章では、ピーター・ペーペルコルン(メインヘール・ペーペルコイン)という男が現れ、

(ハンス・カストルプの教育係を自任する)セテムブリーニやナフタを矮小化してしまうほどの圧倒的な存在感で、第七章の前半部分を支配する。
この男、なんと、あのショーシャ夫人と連れ立って客としてベルクホーフにやって来るのだ。

ショーシャ夫人のファンの私としては、かなりショックであった。(笑)
ペーペルコルンは、大変なお金持ちで、ショーシャ夫人とは旅先で知り合い、
濃密な関係になったものと思われる。(コラコラ)
ただ彼は、悪性の熱帯熱(マラリア熱)を患っており、それが唯一の心配の種となっている。
ペーペルコルンがショーシャ夫人を伴ってやって来たことは、
(私だけではなく)主人公のハンス・カストルプにも深刻な混乱をもたらす。
だが、最初は気が動転するものの、
ペーペルコルンのカリスマ性に魅せられ、
ハンス・カストルプもペーペルコルンに関心を抱くようになり、
ペーペルコルンもハンス・カストルプが気に入り、二人は次第に仲良くなっていく。
こうなると、ハンス・カストルプとショーシャ夫人との関係性にも変化が生じ、
ショーシャ夫人はエロス的な存在から、生や死の意味を考えさせる存在になり、
二人の会話も哲学的なものへと変化していく。

第七章は、
第二節「メインヘール・ペーペルコイン」
第四節「メインヘール・ペーペルコイン(続き)」
第五節「メインヘール・ペーペルコイン(おわり)」
と、三つの節に「メインヘール・ペーペルコイン」の名が使われているように、
ペーペルコルンはベルクホーフにいる人々をも魅了し、
物語はペーペルコインを中心として展開していく。
だが、第五節「メインヘール・ペーペルコイン(おわり)」に至り、

状況は一変する。
ペーペルコルンの病状は悪化し、
悲観したペーペルコインは自殺してしまう。

特製の注射器で猛毒を体内に入れての即死だった。
王者のような風格を持ったペーペルコインさえも絶対的な存在ではなく、
圧倒的な存在などありえないことを示唆して第五節は終わる。
ペーペルコルンの自殺後、療養所は「悪習の巣窟」となり、破局への足取りを早めていく。
ショーシャ夫人は再びベルクホーフを去り、(嗚呼)
ハンス・カストルプは、死んだような生活を送っている。
そんなベルクホーフに、新しい蓄音機がやってくる。

蓄音機の管理を担当することになったハンス・カストルプは、
音楽によって癒しを得るようになっていく。
ハンス・カストルプは、
ヴェルディ「アイーダ」
ドビュッシー「牧神の午後」
ビゼー「カルメン」
グノー「ファウスト」
シューベルト「冬の旅」の「菩提樹」
という5枚のレコードを特に愛聴するのだが、
語り部は、ハンス・カストルプが特に愛した「菩提樹」をめぐり、
「心に秘めた愛と未来の新しい言葉のために死ぬ英雄」というあり方を語り、
第七節「妙音の饗宴」を終える。

しかし、この歌に真に帰依する者は、この歌の世界、その魔術を克服するために自ら生命を燃焼し、いまだいい現す術のない新たな愛の言葉を唇に浮べて死んでゆくひとであろう。この魅惑的な魔法の歌のために死ぬのはまったく意義深いことなのだ。しかし、この歌のために死ぬひとは、実はこの歌のために死ぬのではなくて、愛と未来との新しい言葉を心に秘めながら、すでに新しい世界のために死ぬのであって、そのひとはそのゆえにこそ英雄ともいうべきひとなのである。̶̶
つまり、これがハンス・カストルプの愛したレコードであった。(下巻653~654頁)

第八節「ひどくいかがわしいこと」は、ちょっと面白く、奇妙な節である。
あるとき、ベルクホーフにいるエレン・ブラントという少女に、
霊を呼び出す力があることが判り、ベルクホーフの人々は恐れと好奇心で騒然となる。
精神分析医であるドクトル・クロコフスキーの指導のもとで、
交霊会(いわゆる「こっくりさん」)がおこなわれることになり、
皆が怖気づくなか、ハンス・カストルプは、ヨーアヒムの霊を呼び出してほしいと申し出る。

ヨーアヒムの霊は、兵隊の飯盒か鍋のようなものをかぶって現れる。
(第一次世界大戦時にドイツ兵がかぶっていた「鉄かぶと」なのかもしれない)
ヨーアヒムのまなざしは、ハンス・カストルプにだけ注がれていた。
このまなざしを前にして、ハンス・カストルプは、
「すまない」とつぶやく。
この「すまない」が、何を意味するのか、説明はない。
「ひどくいかがわしいこと」をして、ヨーアヒムの霊を呼び出したことへの謝罪なのか、
「生への奉仕」を実践しなかった主人公の、「生への奉仕」を実践して亡くなったヨーアヒムへの謝罪なのか、
かつて自分が賛美した第一次世界大戦の結果、多くの若者が命を落としたことへの、トーマス・マン自身の謝罪なのか、
いろいろ考えさせられる第八節「ひどくいかがわしいこと」であった。
第九節「立腹病」では、

ペーペルコルンの自殺後、破局への足取りを早めていくベルクホーフの様子が描かれる。
ベルクホーフの人々は「巨大ないらつき」に支配され、
怒鳴り合いやつかみ合いが頻繁に起こるようになり、
セテムブリーニとナフタの論争も、感情的な口論へと変質し、
ついにナフタがセテムブリーニに決闘を申し込む事態に行き着いてしまう。
決闘の場で、
セテムブリーニは、空に向かって銃を撃ち、
怒ったナフタは「卑怯者!」と叫び、自らの頭を撃ち抜く。
こうしてナフタは自ら命を絶ってしまう。
ナフタは、独裁とテロによって神の国の実現を目指していたが、
ナフタとセテムブリーニの決闘は、戦争(第一次世界大戦)を彷彿させ、
ナフタの死は、第二次世界大戦の結果をも予言したものであったのかもしれない。

第十節「霹靂」には、冒頭、次のような文章が置かれている。
七年間、ハンス・カストルプはここの上にいた。̶̶七という数字は、十進法の信奉者には半端な数字であるが、しかしこれはこれなりに、立派な、手ごろな数字で、いわば神話的、絵画的な意味を持つ時間単位なのである。(下巻769頁)
『魔の山』は、この「7」という数字がキーワードになっている。
➀『魔の山』は7つの章で構成されている。
➁ハンス・カストルプのベルクホーフでの滞在は7年間。
③ハンス・カストルプの部屋は、34号室(3+4=7)。
④ショーシャ夫人の部屋は、7号室。
⑤ベルクホーフの食堂の数は7つ。
⑥体温計は1回につき7分測る。
⑦最初の検温は午前7時。
⑧ヨーアヒムが亡くなったのは午後7時。
また、上巻の「まえおき」には、次のような文章もある。
一週七日では足りないだろうし、七カ月でも十分ではあるまい。いちばんいいのは、話し手がこの物語に係わり合っている間に、どれほど地上の時間が経過するか、その予定を立てないことである。いくらなんでも、まさか七年とはかかるまい。(上巻11頁)
最初にこのように語って、『魔の山』は7年間の物語を終えようとしている。
ハンス・カストルプは、もう、
ここを離れてどこへいけばいいのか、もうとっくに見当がつかなくなり、低地へ帰ろうなどということはすでに考えられないことになってしまっていたのである。(下巻770頁)
だが、
このとき轟然と世界がどよめいた。̶̶
(中略)
地球の屋台骨を震撼させた歴史的な霹靂であり、私たちにとっては魔の山を木端微塵に打砕き、七年間の惰眠をむさぼっていた青年を荒々しくこの魔境に外にほうりだすような轟音であった。(下巻775頁)
この「霹靂」は、物語内では明示されていないが、「第一次世界大戦の勃発」である。
戦争が始まったことを知ると、
ハンス・カストルプは7年間の眠りから目覚めるように戦場へ向かう。

ラストはあえて書くまい。
『魔の山』を読み終え、私は今、とてつもない充実感の中にいる。
第一章(33頁)、第二章(36頁)は短編小説の分量、
第三章(115頁)、第四章(184頁)は中編小説の分量、
第五章(324頁)は、長編小説の分量であったし、(上巻はこの章で終わり)
第六章(393頁)は、第五章よりも更に頁数が増え、こちらも長編小説の分量があった。
第七章(389頁)は、第六章とほぼ同じ分量で、この章も長編小説の分量であった。
上下巻計1474頁は、長編小説4冊分の分量があり、
しかも難解な部分も多かったので、読むのに時間がかかったし、かなり苦労した。
だが、読了した今は、心地好い疲れの中にいる。
こんなにも面白く、感動する物語だとは思わなかった。
読んで良かった……と思った。
登頂が困難な山に登頂できた喜びと爽快感があった。
読み終えた今、また再読したいと思っている自分がいる。
「人は小説を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ」(『ヨーロッパ文学講義』)
というナボコフの名言を持ち出すまでもなく、
再読から本当の読書が始まるのかもしれない。
今回、私が登ったルートはノーマルルートだったような気がする。
次回は、バリエーションルートで『魔の山』に挑みたいと思っている。
再読が楽しみでならない。
