遅ればせながら、平野啓一郎の小説『マチネの終わりに』を読んだ。
なぜ「遅ればせながら」なのか?
そう、本書は、昨年(2016年)、かなり評判になった小説だからだ。
本好きの人で、『マチネの終わりに』を知らない人はいないのではないだろうか?
本の帯に書いてあるキャッチコピーは、
「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」
「ただ愛する人と一緒にいたかった」
「なぜ別れなければならなかったのか」
「恋の仕方を忘れた大人に贈る恋愛小説」
この小説は、毎日新聞に連載されたものだが、
連載終了後、「マチネロス」が続出したという。
「過去の傷をそっと癒してもらえたような優しさを感じた」(30代・女性)
「最後は深く、大きな愛に包まれるような感動」(40代・男性)
「歳を忘れ、血を騒がせた。しばらくはマチネロスが続きそう」(80代・女性)
「人生の終わりに、いい作品に巡り逢えて幸せです」(90代・女性)
私は、平野啓一郎の良い読者ではなかった。
初期作品の、
『日蝕』(新潮社、1998年)
『一月物語』(新潮社、1999年)
を読み、私には合わない作家と断定し、
以降の作品はほとんど読んでいなかった。
「三島由紀夫の再来」という宣伝文句も、
三島由紀夫にそれほど興味のない私には、まったく響かなかった。
だから、
平野啓一郎の『マチネの終わりに』が評判になっていると知った時にも、
さほど読みたいとは思わなかった。
「マチネロス」が続出していると聞いても、
「ほんまかいな?」
と疑っていたほどだった。
では、なぜ読んでみようと思ったかといえば、
図書館の書棚で、偶然見かけたから……だ。
都会の図書館ならば、かなり順番待ちしなければ読めない本だが、
私の住む田舎の図書館では、そうではなかった。
私を待っていたかのように、そこにあった。
背表紙を見て、
〈評判になっている小説だったな〉
と思い、手に取った。
そして、その時初めて、
〈読んでみようか……〉
と思った。
後から考えてみるに、
その判断は間違っていなかった。
読み始めると同時に、
私は、この『マチネの終わりに』という小説世界に耽溺し、
小説を読む楽しみを存分に味わったからだ。
物語は、
クラシックギタリストの蒔野聡史(38歳)と、
海外の通信社に勤務する小峰洋子(40歳)の出逢いから始まる。
初めて出逢った時から、強く惹かれ合っていた二人。
しかし、洋子には婚約者がいた。
やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、
ついに二人の関係は途絶えてしまう。
互いへの愛を断ち切れぬまま、
別々の道を歩む蒔野と洋子。
はたして、二人の運命が再び交わる日はくるのか……
ストーリー紹介は、この程度で止めておこう。
なぜなら、皆さんにも、物語を存分に楽しんでもらいたいからだ。
それほどの満足を私に与えてくれたし、
皆さんにもその満足感を味わってほしいからだ。
以下は、
これから読む皆さんの邪魔にならない程度の私の読後感だ。
この『マチネの終わりに』は、
クラシックギタリストの蒔野聡史(38歳)と、
海外の通信社に勤務する小峰洋子(40歳)の、
5年半にわたる恋愛模様を描いた小説であるが、
中心的なテーマは恋愛ではあるものの、
音楽、映画、戦争、原爆、親子、人生、哲学など、
様々なテーマが複雑に絡み合い、
蒔野と洋子を取り巻く出来事と、
答えの出ない問いに、読者は翻弄される。
それでいて、頁をめくる手は止まらず、
常に「次を読みたい」という思いに苛まれる。
そんな小説なのだ。
ちなみに「マチネ」とは、
フランス語で、朝・午前のことで、
昼公演という意味で使われている。
(逆に「ソワレ」は、夜の公演という意味)
マチネの終わりの頃といえば、ちょうど昼下がり。
人生で言えば、40歳前後の頃と言えるだろう。
何かをするには早すぎて、
何かをするには遅すぎる、
人生の“惑い”の頃だ。
若い時であれば、突っ走ることもできたであろうが、
中年ともなれば、そうはいかない。
若い人間の心には、肉体との境界のあたりに、頗る可燃性の高い部分がある。ある時、何かの拍子にその一端に火がつくと、それが燎原の如く広がって、手が着けられなくなってしまう。その火に、相手の心のやはり燃えやすい部分が焼かれてしまうと、二人はただ、苦しさから逃れるためだけでも互いを求め合わなければならない。
恋がもし、そうしたものであるならば、土台、長続きするはずはなかった。その火は、どこかでもっと、穏やかに続く熱へと転じなければならない。(91頁)
若くはない二人ではあったが、
心に点火された炎は燃え盛り、
互いを求め合うようになる。
だが、様々な理由で、会うことができない。
それが中年の恋のもどかしさであり、奥深さである。
驚くべきことに、5年半の間に二人が会うのは、ほんの2~3回なのである。
にもかかわらず、二人の間には、濃密な時間が流れるのだ。
その描き方が、この小説の妙味といえるだろう。
平野啓一郎という作家の初期の作品は、
濃厚すぎるカルピスのような文章であったが、
新聞連載小説ということで、
それが絶妙な濃さに薄められ、
カルピスウォーターのような、程良い濃さの文章、文体になっている。
読みやすくはあるが、軽くはなく、格調があり、品がある。
神童と言われた平野啓一郎(1975年生まれ)も40歳を過ぎ、
このような小説をものするようになったのか……と(良い意味で)感慨深い。
音楽に造詣の深い平野啓一郎だし、
『マチネの終わりに』の主人公がギタリストということもあって、
この小説には、多くのクラシックやポップスの名曲が登場する。
だからか、物語の中にずっと音楽が流れているような心地よさがあった。
小説を読んでいる時にクラシック音楽を流していると、
時には読書の妨げになったりもするが、
この『マチネの終わりに』を読んでいる時にはそれがなかった。
むしろ読書の歓びが倍加され、すこぶる良かった。
この小説を読む時には、ぜひクラシックを聴きながら楽しんでもらいたい。
小説の中に登場する曲を聴きたいという要望が多かったようで、
小説『マチネの終わりに』と完全タイアップCDも発売されている。
【収録曲目】
第1章:出会いの長い夜~
1. ロドリーゴ:アランフェス協奏曲より II. アダージョ
2. レノン&マッカートニー(武満徹編):イエスタデイ
第3章:《ヴェニスに死す》症候群~
3. J.S.バッハ(福田進一編):無伴奏チェロ組曲第3番BWV1009より I. プレリュード第4章:再会~
4. F.ソル:幻想曲 Op54bis より II. アレグロ
第5章:洋子の決断~
5. バリオス:大聖堂
6. ヴィラ=ロボス:ガヴォット・ショーロ
7. アームストロング(鈴木大介編 ):この素晴らしき世界
8. 林そよか:幸福の硬貨
第8章:真相~
ピアソラ:タンゴ組曲より
9. II. アンダンテ
10. III. アレグロ
第9章:マチネの終わりに~
ブローウェル:黒いデカメロンより
11. I.戦士のハープ、
12. III.恋する乙女のバラード
13. ブローウェル:ギター・ソナタより“パスキーニによるトッカータ”
[ボーナストラック]
14. 林そよか:幸福の硬貨 ~洋子に捧ぐ
【演奏】
福田進一(ギター)
飯森範親(指揮)ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団 (1)
オスカー・ギリア(ギター)(4)
エドゥアルド・フェルナンデス(ギター)(9,10)
【新録音】
2016年7月14日、Studio A-tone YOTSUYA(3,6,7,8,12,14)
コンサートも開催されたようで、
近くなら、ぜひ聴きに行きたかったところ。
この小説は、読後、何かを語りたくなる。
だが、多くを語ると、次の読者の妨げになるやもしれぬ。
だから、『マチネの終わりに』の中に散りばめられた多くのアフォリズムの中から、
最も重要なひとつを紹介して、このレビューを終えたいと思う。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?(29頁)
この「過去は変えられる」という言葉は、
物語の中に何度も登場し、重要なキーワードとなっている。
小説を読む際の“道標”として覚えておいてほしい。
図書館で順番待ちをすれば、読めるのはいつになるか分らない。
本の価格は、1700円(税別)。
映画1本分の価格だが、
間違いなく映画1本分以上の価値があるし、
再読、再々読にも堪えうる小説だ。
80代、90代の女性に、
「歳を忘れ、血を騒がせた。しばらくはマチネロスが続きそう」(80代・女性)
「人生の終わりに、いい作品に巡り逢えて幸せです」(90代・女性)
と言わしめる物語など、そんなにはない筈。
小説を読む楽しみを存分に味わえる『マチネの終わりに』。
たぶん貴女のために書かれた物語だと思う。
ぜひぜひ。
村冶佳織・アランフェス協奏曲 第2楽章(ア・コルーニャ)
※映画『マチネの終わりに』のレビューはコチラから。