一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『月』 ……石井裕也監督、宮沢りえ、磯村勇斗の覚悟が感じられる問題作……

2023年10月20日 | 映画


本作を見たいと思った理由は三つ。

➀石井裕也監督作品であるから。


➁故・河村光庸が「企画」「エグゼクティブプロデューサー」として名を連ねていたから。


③宮沢りえ、磯村勇斗、二階堂ふみ、オダギリジョーがキャスティングされていたから。



石井裕也監督作品と初めて出合ったのは、
『川の底からこんにちは』(2009年)であった。
この作品は、私の好きな満島ひかりの主演作という理由で見たのだが、
その面白さに、石井裕也監督の名もしっかり記憶された。
以降、
『あぜ道のダンディ』(2011年)
『ハラがコレなんで』(2011年)
『舟を編む』(2013年)
『ぼくたちの家族』(2014年)
『バンクーバーの朝日』(2014年)
『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年)
『町田くんの世界』(2019年)
『茜色に焼かれる』(2021年)

と見続けてきて、
優れた監督として、しっかり認知されている。
特に、『舟を編む』以降は傑作揃いで、
「鑑賞する映画は出演している女優で決める」主義の私ではあるが、
〈石井裕也監督の作品ならば見てみたい……〉
と、監督の名で鑑賞を決める数少ない監督の一人なのである。
そんな石井裕也監督の新作『月』も当然のことながら、
〈見たい!〉
と思った。


原作は、実際の障害者殺傷事件を題材に、2017年に発表された辺見庸の小説「月」。


『新聞記者』、『空白』を手掛けてきたスターサンズの故・河村光庸プロデューサーが、
最も挑戦したかった原作だったとのことで、
オファーを受けた石井監督は、
「撮らなければならない映画だと覚悟を決めた」
という。
なぜなら、この「月」を映画化するということは、この社会において、
禁忌タブーとされる領域の奥深くへと大胆に踏み込むことであったからだ。

キャスティングされたのは、
宮沢りえ、磯村勇斗、二階堂ふみ、オダギリジョーなど、
私の好きな俳優たち。


もう期待しかなく、上映館のシアターシエマに駆けつけたのだった。



深い森の奥にある重度障害者施設。
ここで新しく働くことになった堂島洋子(宮沢りえ)は、
“書けなくなった”元・有名作家だ。


彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と、
ふたりで慎ましい暮らしを営んでいる。


重度障害者施設では、
作家志望の陽子(二階堂ふみ)や、


絵の好きな青年・さとくん(磯村勇斗)といった同僚たち、


そして、光の届かない部屋でベッドに横たわったまま動かない“きーちゃん”と呼ばれる入所者と出会う。
洋子は自分と生年月日が一緒のきーちゃんのことを、どこか他人だと思えず、
親身に接するようになるが、
その一方で他の職員による入所者へのひどい扱いや暴力を目の当たりにする。
それを訴えても聞き入れてはもらえない。
そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだった。
彼の中で増幅する正義感や使命感が、
やがて怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく……




本作のモチーフとなっているのは、
2016年7月26日、神奈川県相模原市にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、
元職員であった植松聖(うえまつさとし、当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し、
入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件。
殺人などの罪で逮捕・起訴された加害者・植松は、
2020年3月に横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を言い渡され、
自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定している。
原作の辺見庸の小説「月」は、
いかにも辺見庸らしい尖った小説で、
重度障害者が語り手となり、
人権、反差別といった近代以降の理念が揺らいでいないか疑問を投げかけた問題作だった。
物語を先導するのは、重度障害者のきーちゃん。
性別、年齢不明。目が見えず、歩けず、発語能力もない。
そうした人物の内面や肉体の痛みを、ひらがなを多用して繊細に描いていく。
ダルトン・トランボが1939年に発表した小説「ジョニーは銃をとった」を、
ジェイムズ・エルロイの「ホワイト・ジャズ」の文体で書き直したような小説だった。
なので、映画を見る前は、きーちゃんが主役(主役とまでは言わなくとも、核となる人物として)の『ジョニーは戦場へ行った』(1973年)のような映画を想像していた。
だが、違った。
主役は、
きーちゃん(映画では誰が演じているのか判らない)でもなく、
さとくん(磯村勇斗)でもなく、
原作には登場しない堂島洋子(宮沢りえ)で、
この洋子だけではなく、洋子の夫・昌平(オダギリジョー)も、陽子(二階堂ふみ)も、
これら人物にまつわる様々な設定も、すべて映画オリジナルであったのだ。
これには少々戸惑った。
あまりにも原作と乖離していたからだ。
堂島洋子と昌平という夫婦の物語を並行して描いた理由、2人を生み出したきっかけを、
石井裕也監督は次のように語っている。

目の前にある命を「人ではない」と否定して、排除しようとした犯人、この作品で言えばさとくんですが、彼のドラマとは別にもう一つ、ドラマを走らせたかったのです。そこには命の問題に直面して、葛藤している人たちというイメージがありました。この2つが結びつくというか、関係し合うというドラマを考えたときに、自分たちの子どものことで悩み続ける夫婦というキャラクターが生まれました。(「スクリーン」インタビューより)

「解りやすく」はなるが、下手すれば「俗っぽく」「大衆的」になってしまうかもしれない(原作の)再構築は、オファー時の故・河村光庸の、

この映画を低予算のマニアックなものにはせず、できるだけ大きく構えて多くの人に見せ、問題提起をしたい。

という要望に起因したものであったようだ。
そうして、石井裕也監督は、
きーちゃんとさとくんが主役の“インディーズ作品”ではなく、
堂島洋子・昌平という夫婦をメインとした“メジャー作品”を誕生させた。
それは、凄惨な事件には目を背けがちな人々の興味を引くという意味では成功しているかもしれない。
だが、(私個人の意見としては)この夫婦に重きを置き過ぎて、
きーちゃんとさとくんの存在が希薄になってしまっていたように感じた。
さとくんが犯行に至る過程にいまひとつ説得力がなく、
きーちゃんに至っては顔もはっきりとは映し出されず、精神状態も判然としない。
堂島洋子(宮沢りえ)の葛藤ばかりが描かれて、
今でも宮沢りえの苦悶の表情が目に焼き付いて離れない。


なので、本作での宮沢りえは美しくない。(美しさを求めてはいけなのだろうが……)
若い頃の美輪明宏(丸山明宏)に似ていたし、ある瞬間には男のようにも見えた。



洋子の夫・昌平(オダギリジョー)については、
(個人的には)不要とさえ感じたのだが、(コラコラ)
「オダギリジョーさん演じる昌平には何を託したのでしょうか?」
との某インタビューでの問いに、
石井裕也監督は「希望です」と答えている。
“希望”を託されたこの昌平の存在がゆるくて、(コラコラ)
〈この映画に“希望”はいらないのではないか……〉
とさえ思ってしまった。
〈むしろ“絶望”を描き切ってしまった方が良かったのでは……〉
と思ったほど。



レビューを書き始めたら、(それほど強く思っていたわけではなのに)マイナス面ばかりを述べているような気がするが、それは本意ではない。
良い面もたくさんあったし、
これからはそれら(良かった点)を記していきたい。


これほどの題材なので、演出する側にとっても、演ずる側にとっても、相当の覚悟をしなければならないと思うのだが、それは石井裕也監督のみならず、
宮沢りえ、磯村勇斗、二階堂ふみ、オダギリジョーにも感じられたし、
誰もが覚悟ある演技をしていたと思う。
特に宮沢りえと磯村勇斗の演技は秀逸であった。


磯村勇斗に関しては、今年(2023年)は、
『最後まで行く』(2023年5月19日公開)
『波紋』(2023年5月26日公開)
『渇水』(2023年6月2日公開)
『月』(2023年10月13日公開)
『正欲』(2023年11月10日公開予定)

と、5作もの出演作があり、本年度の最優秀助演男優賞の有力候補であろう。



(出演シーンはそれほど多くはなかったものの)二階堂ふみの演技にも感心させられた。


殊に、ラスト近くの陽子とさとくん(磯村勇斗)とのやりとりには心が震えた。



宮沢りえ、磯村勇斗、二階堂ふみ、オダギリジョーの4人以外では、
さとくん(磯村勇斗)の恋人を演じていた長井恵里が良かった。


ろう者の女優で、『ケイコ 目を澄ませて』(2022年)にも出演していたが、


本作『月』でも存在感があったし、好い演技をしていた。


ここ数年、聴覚障害者を主人公にしたTVドラマや映画は増えているが、
(手話通訳や手話監修を雇うのにコストがかかるので敬遠されがちということもあり)
ろう者の俳優が出演しているドラマはそれほど多くはない。
そういうこともあり、長井恵里の今後の活躍には大いに期待したい。



本作『月』で、印象に残っているのは、
誰も入ってはいけないと言われている、高城さんの部屋のシーン。
糞尿にまみれた高城さんは、
昔に見た映画『恍惚の人』(1973年)を思わせた。
高齢者になれば、耳が遠くなり、目も悪くなり、足腰は弱り、やがて認知症になる。
それは、誰しも年を取れば障害者になっていくということでもある。
昨年(2022年)見た映画『PLAN 75』も、冒頭、
津久井ゆりやま園障害者殺傷事件を彷彿させる衝撃的なシーンから始まる。
ライフルを手にした若者が、老人のいる施設を襲撃し、
「社会の役に立たない老人は生きている価値がない」
と呟く。
障害者を老人に置き換えただけで、『月』と『PLAN 75』の構造は同じだと感じた。
『月』のラストが『PLAN 75』の冒頭に続いているかのようであった。
『PLAN 75』の早川千絵監督は、

私は10年ほどニューヨークに住んで2008年に帰国したのですが、久し振りに帰ってきた日本では自己責任論という考え方がとても大きくなっていました。
社会的に弱い立場にいる人たちへの圧力が厳しく、みんなが生きづらい社会になっていた。それが年々ひどくなると感じていた2016年夏、相模原の障害者施設で起きた事件にものすごい衝撃を受けました。こういう社会になってしまったから起こった事件なのではないかと考えるうちに「プラン75」という設定を思いつきました。このまま行くと、本当に日本でこういうことが起きてしまうかもしれないと思ったのがきっかけです。
(パンフレットのインタビューより)

と語っていたが、
『月』の石井裕也監督も、
世の中の理不尽に憤っていたはずのさとくんがやがて凶行に及ぶことになることについて、

資本主義批判を安易にするつもりはないですが、無駄なもの、生産性のないものを排除するという考え方が今の社会の基本的な考えとしてあります。それが「普通」になってしまっている。でも、当たり前ですが世の中にはいろいろな立場の人がいます。たとえば、弱い立場にいる人たちを助けようと考えるのは人間的な倫理観や正義感です。大半の人はそういうものを持っているので、本当に「生産性のない人」を排除しようという実際的な行為には結びつかない。

では、なぜさとくんは結びついてしまったのか。それをずっと考えたんです。それで気が付いたのですが、さとくんはあまりにも「普通」だったんじゃないかと。社会で正しいとされている考えに何の疑いも持たず、真剣に悩むこともせず、世の中の浅はかで軽薄な風潮に乗っかって、信じ込んでしまった。そこには、「本当にそれでいいのか、自分は間違っているのではないか」という自問自答のようなものはなかった。あくまでも普通の感覚で犯行に向かってしまったんです。
(「スクリーン」インタビューより)

と語り、両監督共に、
「無駄なもの、生産性のないものを排除する」という考え方が今の社会の基本的な考えとしてあることを危惧している。
経済学者で米イェール大学助教授の成田悠輔が、
「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」
と語って物議を醸したが、
世代交代を促すためにこういう発言をしたのだとは思うが、
「集団自決、集団切腹」というような言葉のチョイスが安易であるし、
思想の根底には、インテリ特有の「無能力者は早く消えて欲しい」という優生思想があるような気がする。
インテリでさえこの程度なのだから、
普通の人たちの住む世の中、我々の住む社会のかなり近いところに、
「さとくん的なるもの」はあるような気がする。
もちろん、自分の中にもあるし、
そのことは自分自身で注意深く監視していく必要があると思った。



これほどの大きな題材をひとつの物語として映像に収めることは大変な仕事だったと思う。
撮影を担当したのは鎌苅洋一。


これまで、

『俳優 亀岡拓次』(2015年)
『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年)
『アンダー・ユア・ベッド』(2019年)
『花束みたいな恋をした』(2020年)
『茜色に焼かれる』(2021年)
『1秒先の彼』(2023年)


などの傑作群を手掛けてきた手腕を、
本作『月』でも遺憾なく発揮している。



石井裕也監督、宮沢りえ、磯村勇斗らが覚悟を決めて撮った映画は、
見る者にもある種の覚悟を強いる。
144分と、2時間半近い上映時間は高齢者には酷だが、
ある種の緊張感をもって物語は進行するので、それほど長くは感じなかった。
この作品も、多くの映画賞のいろんな部門でノミネートされることであろう。

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