
群別(上の写真の「郡別」は誤植)という町では、親切なおばあさんに出会った。
ある家の玄関先で休んでいたら、その家のおばあさんが出て来て、
「どこから来たの?」
と訊くので、
「宗谷岬から歩いて来た」
と答えると、
「それはゆるくないねぇ」
と言って、トウモロコシ3本と缶コーラをくれたのだ。
記念に写真を撮らせてほしいと頼むと、
「こんな格好じゃ恥ずかしい」
と照れながらも、トウモロコシを持ってポーズをとってくれた。
この旅で、ぼくは多くの心のあたたかい人に出会っている。
そのほとんどは、もう二度と会うことのない人々である。
「歩き」と言っても、ぼくがある地点を通過するのは、或る日の或る時間だけである。
そのわずかな一瞬、わずかな可能性の中で出会い、言葉をかわすということは、奇跡に近いことではないか。
一期一会という言葉の重みを、今のぼくは特に感じている。
(旅と同時進行で紀行文を連載していた地元紙の「ふらふらぶらぶら日本縦断の旅」の2回目より)
この日(1995年8月17日)、
浜益村(2005年に石狩市へ編入され、現在は石狩市の地域自治区「浜益区」)の群別という町を歩いていたとき、


歩き疲れた私は、
とある家の日陰になっている軒先を借りて、休憩した。
すると、その家から出て来たおばあさんが、
トウモロコシと缶コーラをくれたのだ。
普通なら、怪しい人物として敬遠されかねないのに、
事情を聞いた後に、差し入れをしてくれたのだ。
こういうことは本州ではほとんどなかった。
北海道の人々は(それに沖縄の人々も)、本当に旅人に親切。

おばあさんが言った方言「ゆるくないねぇ」は、
「ゆる(緩)くない」=「きつい」=「大変だ、つらい、しんどい」の意。
しかし、一般的な「きつい」という意味とは少し違う。
北海道の人々は、どんなにつらいときでも「きつい」とは言わず、
「ゆるくないねえ」と婉曲的な表現をする。
直接的な「きつい」という表現は避け、
「ゆるくないねぇ」と反意語をさらに否定することで、
「きつい」という厳しい状況を、少し弛緩させているのだ。
それは、北海道という厳しい環境に耐え、
我慢強く、忍耐強く頑張ってきた道産子の心意気のようなものかもしれない。
この「ゆるくないねぇ~」という懐かしい言葉とともに、
あの群別で出会ったおばあさんを、今でも時々思い出す。
ある家の玄関先で休んでいたら、その家のおばあさんが出て来て、
「どこから来たの?」
と訊くので、
「宗谷岬から歩いて来た」
と答えると、
「それはゆるくないねぇ」
と言って、トウモロコシ3本と缶コーラをくれたのだ。
記念に写真を撮らせてほしいと頼むと、
「こんな格好じゃ恥ずかしい」
と照れながらも、トウモロコシを持ってポーズをとってくれた。
この旅で、ぼくは多くの心のあたたかい人に出会っている。
そのほとんどは、もう二度と会うことのない人々である。
「歩き」と言っても、ぼくがある地点を通過するのは、或る日の或る時間だけである。
そのわずかな一瞬、わずかな可能性の中で出会い、言葉をかわすということは、奇跡に近いことではないか。
一期一会という言葉の重みを、今のぼくは特に感じている。
(旅と同時進行で紀行文を連載していた地元紙の「ふらふらぶらぶら日本縦断の旅」の2回目より)
この日(1995年8月17日)、
浜益村(2005年に石狩市へ編入され、現在は石狩市の地域自治区「浜益区」)の群別という町を歩いていたとき、


歩き疲れた私は、
とある家の日陰になっている軒先を借りて、休憩した。
すると、その家から出て来たおばあさんが、
トウモロコシと缶コーラをくれたのだ。
普通なら、怪しい人物として敬遠されかねないのに、
事情を聞いた後に、差し入れをしてくれたのだ。
こういうことは本州ではほとんどなかった。
北海道の人々は(それに沖縄の人々も)、本当に旅人に親切。

おばあさんが言った方言「ゆるくないねぇ」は、
「ゆる(緩)くない」=「きつい」=「大変だ、つらい、しんどい」の意。
しかし、一般的な「きつい」という意味とは少し違う。
北海道の人々は、どんなにつらいときでも「きつい」とは言わず、
「ゆるくないねえ」と婉曲的な表現をする。
直接的な「きつい」という表現は避け、
「ゆるくないねぇ」と反意語をさらに否定することで、
「きつい」という厳しい状況を、少し弛緩させているのだ。
それは、北海道という厳しい環境に耐え、
我慢強く、忍耐強く頑張ってきた道産子の心意気のようなものかもしれない。
この「ゆるくないねぇ~」という懐かしい言葉とともに、
あの群別で出会ったおばあさんを、今でも時々思い出す。
