
「徒歩日本縦断の思い出」は、
第14回「小樽」の記事を載せた後、
久しく更新が途切れていた。
その間、
「徒歩日本縦断の記事はまだですか~」
という声を、幾度となく聞いた。
公私ともに忙しく、
なかなか「徒歩日本縦断」の記事にまで手が回らないでいた。
申し訳ない。
〈20年近くも前の昔話など誰も興味がないだろう……〉
と思っていたら、案外ファンが多いのに驚いた。
楽しみにしている人が少なからずいることを嬉しく思った。
これからは、少しずつ更新していかなければ……と決意しているところである。
で、第15回は、余市から。
余市では、民宿に泊まった。
この旅ではテント泊か野宿を主体にしているが、
一週間に一度くらいは、安い民宿かビジネスホテルに泊まった。
以前にも書いたが、理由は三つ。
�熟睡する為。
テント泊や野宿だと、なかなか疲れが取れない。
一週間に一度程度は蒲団に寝ないととても体がもたなかった。
�風呂に入る為。
やはり、一週間に一度程度は風呂に入りたい。(笑)
銭湯を見つけるとなるべく入るようにしていたが、その銭湯そのものがなかなか無い。
�洗濯をする為。
コインランドリーを見つけたらその都度洗濯していたが、
これも銭湯と同じで、僻地ではコインランドリーそのものが無い。
民宿などでは無料で洗濯機を貸してくれるので、助かった。
民宿にザックを預け、ニッカの余市蒸溜所に工場見学に行った。

以前に『ヒゲのウヰスキー誕生す』(川又一英/著)という本を読んでいたので、
私にとって、ニッカの余市蒸溜所は「憧れの地」であったのだ。
(それに、見学後のウイスキーの試飲も楽しみだったし……)

この余市は、
寒冷地で、適度に湿度のある気候風土で、
良質な水があり、豊富なピート(草炭)層がある。
さらに大麦の産地であり、樽材になる木や蒸溜に必要な石炭もある。
余市にウイスキーづくりの理想を見つけた竹鶴政孝は、
迷うことなくここに蒸溜所を建てた。
以来70数年、
この余市は、日本の“ウイスキーの聖地”であり続けている。

余市からは、国道5号線を倶知安方面に歩いた。

倶知安駅前のベンチで野宿したときは、
どこかの大学の自転車部の学生たち(6~7人)と一緒だった。
翌日の早朝、出発の準備をしているとき、
石川啄木の歌碑があるのに気づいた。

真夜中の
倶知安駅に下りゆきし
女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと
歌碑に添えられている碑文には、次のように記されていた。

石川啄木が函館から小樽へ向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治四十年(1907)九月十四日の午前一時過ぎである。
啄木はこの時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収めた。
鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は、実景であったか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったかは、定かではない。
当時の倶知安村は、開墾が始って十五年たったばかりであった。
駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。
この夜駅を降りた人たちの見上げた空に、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきたすばるが輝くまでには、まだすこしの間があった。
倶知安からも国道5号線を歩いた。

ニセコ町では、有島記念館へ寄った。
そう、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などで知られる大正期の作家・有島武郎の記念館だ。
一般的には、文学者として有名な有島武郎であるが、
ここニセコ町では、ちょっと違う。
父から引き継いだ広大なニセコの農場を、
土地共有という形で小作人に無償で解放したことで、より有名なのだ。
そのことは、当時の社会に大きな反響を呼び、
無償開放したことを記念して建てられたのがこの記念館なのである。

当時の記念館は、不幸にも焼失したが、
有島謝恩会が中心となり、昭和38年、有島記念会館として開館し、
その後、建物の老朽化、農業を巡る状況の悪化等々の事情から、
有島武郎生誕100年に当たる昭和53年、
ニセコ町により、現在の有島記念館が建設された。

館内には、
ニセコの地で画期的な農場解放を実践した有島武郎に謝恩の意味を込め、
有島武郎の生涯と数々の作品、手紙・写真・絵画など展示されていた。
みずから所有する広大な有島農場を解放した経緯が、パネルや書簡で紹介されており、
彼の思想や理念に対する理解が深まった。
今日は、ここで終わるつもりであったが、
最後に、山友からよく訊かれる質問に答えたい。
それは、
「徒歩日本縦断のとき、足にマメはできなかったですか?」
というもの。
山歩きと違って、徒歩日本縦断は舗装道路歩きがほとんどであった。

よって、歩き始めのときは、よく足にマメができた。
それも特大のやつが……(笑)

右足のマメはすでにつぶれており、
左足のマメは新にできたものである。
この写真は、都合の良いことに、ピンボケだった。
(誰にでも撮れるという○○チョン・カメラだったにもかかわらず……)
汚い足なので、ボケボケで良かった~
歩き始めの頃は、手足の皮膚も日焼けして、
皮が剥けて、また日焼けして……の繰り返し。


だが、一週間、二週間と経つうちに、
マメはできなくなり、
皮膚も剥けなくなった。
旅に慣れて、厚顔になるとともに(笑)
足裏の皮膚も厚くなり、
手足の肌も紫外線に負けないものに変化していったように思う。
第14回「小樽」の記事を載せた後、
久しく更新が途切れていた。
その間、
「徒歩日本縦断の記事はまだですか~」
という声を、幾度となく聞いた。
公私ともに忙しく、
なかなか「徒歩日本縦断」の記事にまで手が回らないでいた。
申し訳ない。
〈20年近くも前の昔話など誰も興味がないだろう……〉
と思っていたら、案外ファンが多いのに驚いた。
楽しみにしている人が少なからずいることを嬉しく思った。
これからは、少しずつ更新していかなければ……と決意しているところである。
で、第15回は、余市から。
余市では、民宿に泊まった。
この旅ではテント泊か野宿を主体にしているが、
一週間に一度くらいは、安い民宿かビジネスホテルに泊まった。
以前にも書いたが、理由は三つ。
�熟睡する為。
テント泊や野宿だと、なかなか疲れが取れない。
一週間に一度程度は蒲団に寝ないととても体がもたなかった。
�風呂に入る為。
やはり、一週間に一度程度は風呂に入りたい。(笑)
銭湯を見つけるとなるべく入るようにしていたが、その銭湯そのものがなかなか無い。
�洗濯をする為。
コインランドリーを見つけたらその都度洗濯していたが、
これも銭湯と同じで、僻地ではコインランドリーそのものが無い。
民宿などでは無料で洗濯機を貸してくれるので、助かった。
民宿にザックを預け、ニッカの余市蒸溜所に工場見学に行った。

以前に『ヒゲのウヰスキー誕生す』(川又一英/著)という本を読んでいたので、
私にとって、ニッカの余市蒸溜所は「憧れの地」であったのだ。
(それに、見学後のウイスキーの試飲も楽しみだったし……)

この余市は、
寒冷地で、適度に湿度のある気候風土で、
良質な水があり、豊富なピート(草炭)層がある。
さらに大麦の産地であり、樽材になる木や蒸溜に必要な石炭もある。
余市にウイスキーづくりの理想を見つけた竹鶴政孝は、
迷うことなくここに蒸溜所を建てた。
以来70数年、
この余市は、日本の“ウイスキーの聖地”であり続けている。

余市からは、国道5号線を倶知安方面に歩いた。

倶知安駅前のベンチで野宿したときは、
どこかの大学の自転車部の学生たち(6~7人)と一緒だった。
翌日の早朝、出発の準備をしているとき、
石川啄木の歌碑があるのに気づいた。

真夜中の
倶知安駅に下りゆきし
女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと
歌碑に添えられている碑文には、次のように記されていた。

石川啄木が函館から小樽へ向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治四十年(1907)九月十四日の午前一時過ぎである。
啄木はこの時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収めた。
鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は、実景であったか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったかは、定かではない。
当時の倶知安村は、開墾が始って十五年たったばかりであった。
駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。
この夜駅を降りた人たちの見上げた空に、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきたすばるが輝くまでには、まだすこしの間があった。
倶知安からも国道5号線を歩いた。

ニセコ町では、有島記念館へ寄った。
そう、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などで知られる大正期の作家・有島武郎の記念館だ。
一般的には、文学者として有名な有島武郎であるが、
ここニセコ町では、ちょっと違う。
父から引き継いだ広大なニセコの農場を、
土地共有という形で小作人に無償で解放したことで、より有名なのだ。
そのことは、当時の社会に大きな反響を呼び、
無償開放したことを記念して建てられたのがこの記念館なのである。

当時の記念館は、不幸にも焼失したが、
有島謝恩会が中心となり、昭和38年、有島記念会館として開館し、
その後、建物の老朽化、農業を巡る状況の悪化等々の事情から、
有島武郎生誕100年に当たる昭和53年、
ニセコ町により、現在の有島記念館が建設された。

館内には、
ニセコの地で画期的な農場解放を実践した有島武郎に謝恩の意味を込め、
有島武郎の生涯と数々の作品、手紙・写真・絵画など展示されていた。
みずから所有する広大な有島農場を解放した経緯が、パネルや書簡で紹介されており、
彼の思想や理念に対する理解が深まった。
今日は、ここで終わるつもりであったが、
最後に、山友からよく訊かれる質問に答えたい。
それは、
「徒歩日本縦断のとき、足にマメはできなかったですか?」
というもの。
山歩きと違って、徒歩日本縦断は舗装道路歩きがほとんどであった。

よって、歩き始めのときは、よく足にマメができた。
それも特大のやつが……(笑)

右足のマメはすでにつぶれており、
左足のマメは新にできたものである。
この写真は、都合の良いことに、ピンボケだった。
(誰にでも撮れるという○○チョン・カメラだったにもかかわらず……)
汚い足なので、ボケボケで良かった~
歩き始めの頃は、手足の皮膚も日焼けして、
皮が剥けて、また日焼けして……の繰り返し。


だが、一週間、二週間と経つうちに、
マメはできなくなり、
皮膚も剥けなくなった。
旅に慣れて、厚顔になるとともに(笑)
足裏の皮膚も厚くなり、
手足の肌も紫外線に負けないものに変化していったように思う。