ゆめマート津山を後にして西隣の河原町に入った。私は石組の残る半鐘屋従業員駐車場を見て「江戸期に牢番人がいたのはそこかな」と言った。森栗茂一さんの著作『河原町の歴史と都市民俗学(明石書店 2003年2月1日 初版第1刷発行)』の394頁で河原町の歴史を紹介しているので引用させてもらう。なお397頁の津山の河原町・城東町の復元図が資料的価値が高い。本書は全国の河原町と御仕置場とのつながり(一例として広島市)についても触れているためその道の研究者は要チェックだ。


河原町とその周辺
津山の町名としての河原町は船頭町の東で、船頭町との境界に今津屋橋(寄付した米屋の名)があり、西には高燈籠と船着場があった。橋の東、河原町にはガンギの設置された船着場、飛船屋(船蔵)、船宿、米問屋があった(津山市史編纂委員会 一九七四年:一八六‐一八七頁)。「津山城下絵図」(キリスト教民俗館所蔵)によると、米倉、木倉、川戸蔵(貢米の収納庫)・船蔵・船タデ場・船頭屋敷が棟を並べ、牢番所があり、東隣に鍛冶場があった。その南には渡しがあった。冬と春は渡し船を用い、夏と秋は徒渡りの定めであった。宝永年間(一七〇四‐一七一一)より、冬、春に板橋が架けられるようになった。最初、鍛冶屋橋といわれたが、西に移動して、先述の今津屋橋になった。河原町の小桜神社は一七一二年(正徳二)、修験大福院小桜某が居住しており、その所有地が神社になったという(『日本歴史地名大系 第三四巻 岡山県の地名』平凡社、一九九九年:一八四頁)。


小桜神社参道入口付近に「河原町」の説明板と防犯カメラあり。小さな神社は旧出雲街道に面するクリーニング店・五條屋(京町)の裏辺り(小桜会館の中)に鎮座している。



河原町とその周辺
津山の町名としての河原町は船頭町の東で、船頭町との境界に今津屋橋(寄付した米屋の名)があり、西には高燈籠と船着場があった。橋の東、河原町にはガンギの設置された船着場、飛船屋(船蔵)、船宿、米問屋があった(津山市史編纂委員会 一九七四年:一八六‐一八七頁)。「津山城下絵図」(キリスト教民俗館所蔵)によると、米倉、木倉、川戸蔵(貢米の収納庫)・船蔵・船タデ場・船頭屋敷が棟を並べ、牢番所があり、東隣に鍛冶場があった。その南には渡しがあった。冬と春は渡し船を用い、夏と秋は徒渡りの定めであった。宝永年間(一七〇四‐一七一一)より、冬、春に板橋が架けられるようになった。最初、鍛冶屋橋といわれたが、西に移動して、先述の今津屋橋になった。河原町の小桜神社は一七一二年(正徳二)、修験大福院小桜某が居住しており、その所有地が神社になったという(『日本歴史地名大系 第三四巻 岡山県の地名』平凡社、一九九九年:一八四頁)。


小桜神社参道入口付近に「河原町」の説明板と防犯カメラあり。小さな神社は旧出雲街道に面するクリーニング店・五條屋(京町)の裏辺り(小桜会館の中)に鎮座している。
