無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんに)
平成25年2月27日
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肉体の自分が私だ~と当たり前に 考えていた自分が、
肉体を見下ろしているわけだから、“わたしは
この横たわっている私の顔を持った、死体(肉体)
ではない”
と このとき、自分の意識を持つもう一人の自分が
自分であるということに、気がつくのだ。
ムーア博士はこの、脳神経と ”私という意識”、”肉体”
との関係を次のように説明する。
“私たちは 精神があることを承知している。
大半の人間は、自分たちの 物理的 肉体 と
自己 を同一視している。
だから、精神 という概念は、肉体 という概念より、
つかみどころがない。
肉体=自分と考えている人たちは、精神 といったところで
終局的には、脳の中で生じる、電気的、および、化学的な
活動作用 であると考える。
そして、脳 は物理的肉体の一部であると 当然、認識
している。
だから、多くの人間にとって、自分という ”物理的肉体”を
離れ、他の場所で”存在する”ということが、一体、どういう
ことなのか、想像することも不可能である。“
ここまでは昨日の内容の重複となる。
これを 挙げた理由は 以下のとおり。
つまり、この、ムーア博士の言葉は、あの、般若心経の
言葉につながる。
”無眼耳鼻舌身意”
目も、耳も、鼻も、舌も、この身も、しかも心
(”意”から生じる”想い”)も無いという意味だ。
どういうことか?
(物質肉体)あるように見えているが、実際、自分の
意識の源なのか?
そうでないとしたら、、肉体は、意識(自分)とは
別物なのだ。意識(自分)には死はない。
しかし、肉体は、そこに、塊のように無力に無げだされ、
生命が無くなれば、死体 と呼ばれる。
だとしたら、肉体 は、(永遠に)存在するのかどうか?
と ムーア博士は暗黙に、私たちに問いかける。
般若心経の 無い に 反する 存在する とは、
永遠無窮の永遠の存在を意味している。
火に焼かれず、水に溺れず、切っても切れず、叩いても
変化ない、存在の存在 という意味だ。
私達が 自分の精神を、肉体と混同させている。
肉体=精神(神経の化学作用)だと日頃、認識している。
神経の作用は脳で起こるから、脳は肉体である以上、私
も肉体に属するというわけだ。
だが、いざ、肉体が死に瀕(ひん)しているとき、
疑似死体験をした患者は、自分の肉体の中にいない、自分
と 今まで知らない自分意識、しかも、放逐されている、
昔、自分と思っていた肉体を、冷静に、観察している
ことに、混乱する。
”肉体の眼も耳も、五感機能は停止に近い状態の中で、
どうやって、こうして物理的肉体をみていられるのか?”
という 戸惑い だ。
般若心経は、そこで、われわれを諭す。
”だからこそ、肉体に属している、五感機能は、あるように
見えて、肉体の死と一緒に死滅する、一時的な仮の自分の姿”
にすぎないと。
般若心経では、物質(色)の本質を、空(くう)と定義
している。色即是空 だ。ある有名な歌舞伎役者が
最近 他界された。
今日のニュースで、その弔いの式で 喪主の長男が、
故人の辞世の句を発表していた。
”色は空なり、空は色との 時なき世へ”。
空(くう)を”そら”と読まれていた。
空(そら)を観たら故人を偲んでいただきたい~と
言葉が辞世の句の後に続いた。
私は、この句の、空は、そら でなく、空(くう)と
言う意味ではないかと、いぶかしく感じた。
まさに、この偉大な歌舞伎役者は、自らの魂、意識が、
時限と次元を超えて、空(くう)の世界、命の本質へ
肉体を脱ぎ捨てて、旅立つことを、実感せられていた
のだろう。
話しはそれたが、空 (くう)の世界は、本質の世界だ。
その本質が、この世( ”’くう’の中”=現象世界)では、
物(色)になって、表現される。
私たちの肉体も然りだ。五感の感覚器官(肉体に属す)
は、あるように見えているが、”空の影”にすぎない。
だから、般若心経で、お釈迦様は、この世(空中=
現象世界)に見える、もろもろの、物質は、”無い”
と喝破されているのだろう。
それでは”空”と呼ばれる物質の実態、本物は何だろう?
死 と宣告された人が、肉体から意識が飛び出して、
自分の肉体を見下ろしている、その感知する器官は
決して、”肉体の眼” ではない。
肉体の眼はすでに、”肉体の死”とともに、その機能を
停止している。
それでは、”死んだ身体の眼”が本物か?
否、般若心経では、”無眼界乃至無意識界”、
と言っている。肉体の眼に見える世界だけでもなく、
意識(有る無いという)の世界すら無いという意味だ。
空 とは何ぞや? 般若心経のマントラに興味の
ある方達は多い。
空(くう) と 空中(くうちゅう)の二つの真理が、
般若心経の精髄だと思う。
インドのヴェーダ思想(仏教のおおもと)の中枢が、
この二極理解につきる。それこそ、一元思想 に
他ならない。
興味のあるかたはブログの”般若心経の扉”
(特に、”般若心経の空”、”空中”について)を開いて
ご意見いただければ、幸いだ。
話がそれてしまうので、ここで、ピリオド。
一つ、いえることは、肉体の眼 というのは、私の眼
であって、私の眼でないということだ。
なぜなら、死んでも、自分の肉体を見ることができる
のなら、ほかにも、見る器官がある ということに
なるのだ。
死を宣告された患者が、その実例が述べられている。
“心臓が悪くて入院していた時の事。仰向けに寝ている
のがつらくなり、うつ伏せになった途端、呼吸ができなく
なって、心臓が止まってしまいました。
その瞬間、看護婦たちは、‘コード・ピンク!’と
叫んでいるのが聞こえました。・・略・・
まさかと思うかもしれませんが、私は手すりの
棒の間を通り抜けたようでした。
そして、床に降りたのです。
それから、ゆっくりと上の方に上り始めました。
私は昇りながら、看護婦たちが大勢、病室に駆け
込んでくるのを見ていました。
看護婦たちは全部で12人くらいいたと思います。
私は担当医が病室に入ってくるのを見ました。
‘先生はここで何をしているのかしら?’と思いました。
私は電灯の上まで昇っていました。 電灯が横に、
はっきり見えたのです。
やがて、昇るのをやめて、天井すれすれのところを漂い
ながら、病室を見渡していました。
先生たちが私を蘇生させようとしているのを、私は上
から見ていたのです。
手足を伸ばした私の身体がベッドの上に横たわっている
のが、見えました。
ある看護婦が、私を蘇生させるために、口移しの人工
呼吸をしていました。私はその看護婦の後頭部を見つめて
いました。
看護婦たちは台車に乗せた機械を病室に運んできたのを
見ました。そして、私の胸にショックを与えました。
とたんに、私の身体全体が、ベッドの上で飛び上がる
のが見えました。私は、‘どうして、あんなに苦労している
のかしら? 私はもう、すっかり元気になったのに‘ と
思いました。“(例1)
続く・・・
参考:
”かいま見た死後の世界” レイモンド・A・ムーディ・Jr.
中山 善之訳 評論社 昭和58年
レイモンド博士について:
バージニア大学、大学院で哲学専攻
1969年 哲学博士号取得、
3年間 ノースキャロライナ東部の大学で教鞭をとる。
1972年 バージニア医学大学に入学。医学博士号を取得。
1965年 死後の世界の体験談を聞き、その後、
死後の世界体験者に面接。
特異な分野研究を行い今日に至る。
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