トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

チェーンソーの整備

2024-03-06 | 今日は真面目に

 代表からチェーンソーの具合が悪いので整備を頼まれた。チェーンが外れたのや始動してもすぐに停止してしまうのが揃ってしまったのだ。小生の使用するチェーンソーは車載してありその都度整備しているから予備のチェーンソーについては半年ほども触れていないのだった。何に寄らず共用機材は扱いがおろそかになるし使いたい時に使用するが整備などの手入はほぼあてにはならない。鎌や鉈、鋸などの工具も早い話「使いっ放し」で紛失してしまう量も多いのだ。そんな事から共用品の整備や取りそろえから距離を置くようになったのだけれど、最終的には始末が来る。基本的な道具の取り扱いさえ学ばぬまま活動するようになると単なる「仲良しクラブ」になるのも時間の問題だろうが、これもニーズや人心の移り変わりで防ぐ妙案も無いのだった。

 拠点で整備するに必要なコンプレッサーが発電機が動かず使えなかったため二台は復調せしめたのだが一台だけはどうしても圧縮空気が必要で、結局はコンプレッサーと不調の一台をお持ち帰りして自宅で整備する羽目になった。発電機の不調は半年以上も運転していなかった事によるキャブレター内の詰まりによるのではないかと見ているけれどキャブレターを分解整備するだけの余裕も無い。まあ、月に一回ほど拠点にまで足を運びエンジンを始動させておくだけで避けられたトラブルだと思うけれど、なかなかどうしてそのために拠点まで足を運ぶ労力が惜しいのである。

 三台の整備を実施  ➡  そのうち一台はお持ち帰りで整備終了


河床安定化作業 二日目(流路破壊部の補修)

2024-03-05 | 水辺環境の保全

 初日に引き続いての二日目。用材の伐採か風倒木の牽引据え付けか迷ったのだが、降雨増水にでもなれば仮止めしておいた段差工材が流出するやも知れず、そうなると復旧は難しい。そこで出水増水しても侵食被害が及ばない様に丸太の仮堤防を先に据えるのが理に適っていると思え、まずは風倒木となってほぼ10年目の材を利用する事にした。この材が倒れたのは2014年の18号台風の猛威によるもので豪雨もあって沢の斜面が崩落し取水堰も破壊されたのだった。取水できるように河床安定化作業を続けようやく完成に至ろうと言う段階で2023年10月の増水で今度は上流部の崩壊があって今に至る。であるから本格的な河床安定化作業は10年ぶりの二回目となるのだ。

 現状を放置すればおっつけ河床浸食流出で低下して取水不可能となるので止むを得ず着手なのだが「高齢者が手を出すような作業ではない」のははなから承知だけれど取水出來無くなればフイールドの環境は先祖還りしてしまうのは必定なのである。故にこそ老骨に鞭打ちお粥を啜りつつ少ない年金で弱った身体髪膚に檄を飛ばすのである。

 さて、現場到着第一の作業は牽引器のセットだ。沢の対岸から曳きだして据えなければならないのだが全ては牽引と鳶口での作業だ。生木では無いので多少は軽くなっているものの大きなバールを忘れたので鳶口で位置の調整には注意を払う。先端部を打ち込んでも腐食が始っている事もあって荷重に耐えかねすっぽ抜けもあり、この時に持手側の端を腹部や胸部に強打させると大怪我にもなりかねないし、引く時の足場にも気を使わねばならない。

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 牽引器の支点を何カ所か移動させながら目標地点まで丸太を移動させ据え付けが終わる。引き出す前は「結構長いし十分かな…」と思わぬでも無かったものの据えてみると意外に短く侵食溝の幅をカバーするには至らなかった。そこで再度、斜面の風倒木を切断し運んで据えてようやく目途が立ったのである。杭打ちはまとめて行う事にしたので杭打ちは無かったけれど現行の水流を多少は誘導して沢の中央部で流れる様設え、ようやくこの日の作業は一件落着したのである。次回は立枯れ木を3本伐採して流路を平滑にする段差工を設える予定だ。帰宅してチェーンソーの刃研ぎを丁寧に行った。


水源地、河床安定化作業 一日目(流路の整備)

2024-03-04 | 水辺環境の保全

 春を迎えれば降雨の時間も増える。昨秋の出水で取水升上流部に土砂崩れがあって河床に押し出された土砂の量は孤爺の努力では復旧は無理だ。しかし、この結果は取水部の河床を荒らして機能を崩壊させる兆候も出てきたのである。これ以上、河床の安定が損なわれると取水できなくなって年齢的にも取水機能を復活させるだけの作業体力は無い。そこで「転ばぬ先の杖」、いいえ「崩壊する前の一手」として上流部の河床安定化作業に踏み切った。これを行わなければおっつけ取水は不可能となりフイールド環境も終焉となるのだ。

 まずは沢に倒れて朽ちるに任せていた倒木を分断して侵食流路に段差工の横木として運ぶ。10数年以上は経過した倒木ではあるが心材はしっかりしており流砂防止のダム使えるし堆積すれば河床の高さを上げられる。ここの侵食路を防止しておかないと増水時に取水升左岸を水流が走り河床を下げて取水不可能になるのだ。倒木の幹3本で段差工の設えをしたのだが杭が無いので据えて様子を見ただけである。河原の上を侵食溝まで運ぶのにトビ1本だったから意外と時間を要してしまった。牽引器を使用すれば体力的にも安全に作業が可能なのだが土木用資材と伐採用資材を運び上げるには行きに二往復、帰りに二往復しなければならず御腰御快癒直後でもあるから無理は禁物なのだった。

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 出かける前にストレッチを施し腰に湿布を貼り、更に腰痛ベルトで保護してからの出陣であった。次回からは伐採と移動据え付けを行わねばならず、気合を入れるより褌を締めなおして「安全作業」指差呼称を心掛けねば・・・。沢奥での単独作業なので安全に留意するに「これで良い」は無いのだ。

     


雨雨降れ降れ爺さんは編み目を数えてお目目ショボ…

2024-03-03 | 勢子、雨毒に侵されて呻く

 二月の長雨、春霖と言うべきか菜種梅雨と言うにはちと早いか、まあ、どちらにしても数日の不順な予報だったので蟄居生活の備えを考えたのだったがテレビはつまらんし図書館は二週間ほどの閉館中で貸し出しは無し、キッチン作業も財源枯渇だし数日間も行う趣味も食べたい物も無かったのである。そんな中、ビビビッと禿頭軟化脳に降臨したのが「あみぐるみ」という文字である。世間様、特に永田ではその道、心魂清く正しい賊ぐるみもどきの党ぐるみ、派閥ぐるみの身ぐるみ隠しが蔓延中なのは民草も合点承知の助だろうが稲穂は実らずネコジャラシやペンペン草だらけの永田に成り下がった現状はため息も出ない、がそれはさておき、わが身ぐるみ数日の手当てを算段しなければならない。そうでもしないと低年金で殺される前に退屈で寝たきりになりそうだ。まあ、昔より「お爺殺すに刃物は要らぬ。年金引き下げすれば良い」と言われているけれど隠し金や脱税紛いに精力と勢力をつぎ込むのは程遠いのが姥捨て山の孤爺なのである。

 日本男子かつ大和魂の小生、恥ずかしながら孤爺も手芸店に行かねば予定が成り立たない。そこで恥を忍んで会員カードを提示し材料を調達したのだった。作れるかどうかの根拠も無しなので「飲む・打つ・買う」の中では「打つ」に相当するいわば賭け事に近い。姥捨て山での「飲む」は沢水、「買う」はスーパーで食材、てなもんや三度笠であるからして世間様とは乖離がある。それでも意を決したからには「欲しがりますよ出来るまで」の精神を捨ててはならない。

 編み始めて直ぐに恐怖のるつぼに落ちてしまった。丁寧に目数を数えて編んでいたのだが一回りすると目数が倍になっているではないか。我知らず踏み潰して来たであろうミミズの祟りかも知れないけれどアソコが腫れる事態にはなっていないので大丈夫だろう。腫れたのは既に過去であるが両鼠径部であった。この時の手術台の横にうら若き看護学生4人が4人看女として見学で立ち会ったのだがきっとおいらの裸体に触れて剃毛したに違いない。実習であるから絶対に行っていたと信じているが悔しい、表情くらいは見たかった・・・。

 さて、またまた脱線だが股つながりでご勘弁。さてさてメモ紙に段と目数、増目や減目を記入しつつなので間違いは無いはずと思っていたのは大誤算だった。くしゃみや通りに人影が有ったりすると数えていた目数が消える。メモしておくべき数字をメモしなかったりと右往左往しどろもどろで最初の3体は完成前にほぐしてしまわねばならなかった。これを失敗と見るか練習と位置付けるかで「死にたい.生きたい」の分岐点になりかねない。

 そうならなかったのは「誰も知らない、見ていない」のであるから恥は無いのであって、そもそも短期記憶が劣化しているのは自覚もしており原因はそれなので小生には無い。それでも永田で落ち穂をあえて作って懐に入れる鼠とは格段の人格高潔差がある。まあ、昨今は往生際が悪い上に恥を知る人物も皆無となってしまった以上、民草はそれしか無い倣いや習いの模範なのだ。それに引き換え我がお手本は手引きだけなので手間暇時間を要したけれど出来栄え点はともかく何とか形になったのだった。これで漸く落ち着いてフイールド作業に邁進できるだろう。

 編み上がった作品を見れば裏目と表目の区別もつかなかったのが一目瞭然だけれど所詮は二度童騙しの作品である。しかし、しげしげとゲジゲジ眉を寄せて見ていたら再度ビビビッと来た。「これはリハビリの現場でニギニギに使えるではないか⁉」と。タオルを丸めたものでも十分だけれどこういう物があっても楽しいと寝たきり予備軍の小生としては思ってしまうのであった。

 

 

           正  役人の子にぎにぎを良く覚え

           畜  秘書の主ニギニギ多用欲忘れ

           蠅  姥捨ての孤爺ニギニギ自前なり


ヤマルリソウ開花していた

2024-03-02 | 小父のお隣さん

 沢の深部、立ち枯れ木を資材として調達するため伐採を行ったのだが、その作業位置にロゼットが見えた。株も花径も小振りだったけれど紛れもなくヤマルリソウだった。下流域の斜面に群落を形成しており、気が付いた折々には花見に出かけるのだが今期はそんな事は思いもしていなかった。帰路、車両で通過する折りに斜面の群落を眺めたのだが花は見えなかった。北向きの斜面だから木漏れ日のある沢の洲よりは生育が遅いのは判る気がした。

     


今日の素労風努「発酵惣菜バージョンアップ」

2024-03-02 | 何よりの楽しみ

 発酵惣菜1号がそろそろなくなる。温かいご飯にてんこ盛りすればそれだけで食が進む「薄幸食」でもあるのだが1号の経験値を踏まえてバージョンアップを図った。最初の目標は「乳製ヨーグルト」を「豆乳ヨーグルト」に変更して植物性乳酸菌種を増やす事だった。ザワークラウトそのものも植物性乳酸発酵品だし同系統で揃えるのが自然に思えたのである。

 とは言えベースになるキムチを今回は「アミエビ多用」の製品を用意したしバルメザンチーズも加えたから植物性オンリーとならなかったものの初回とはまた異なった食味に仕上がったのである。しかしながらザワークラウトを4日ほど漬け込んだにかかわらず酸味が乏しい出来上がりでこれはこれで不満なのであるが原因はまだ不明だ。次回ではザワークラウトはお漬物として単品にし、その代わりに高菜漬けやイブリガッコの微塵を投入してみたい。これはこれで美味しくなるはずだ。

 発酵惣菜を作るのに加熱は不要で混ぜ合すだけで旨い・美味しい・美味・病みつき・マイブームとなったのだがいかにせん、見た目がよろしくないから他人様には勧められない。それはともかくキムチと糀を混ぜ合わせた一品は「お通じを促す」作用があるようで弟も問わず語りで話していたからそうなのだろう。逆にこのような食品を食べないと固めになる傾向がはっきりしてきたので、これはこれで悩みの種になる。乳製ヨーグルトからヨーグルトチーズを作った前回から豆乳ヨーグルトチーズに変更してみたのだが、庫内にあったバルメザンチーズを加えたから最初の目的は消失してしまった。しかしながらバルメザンチーズを加えた事で濃厚さが倍増したのだがチーズ臭が嫌いな人には好まれないだろうなあ。


ショウジョウバカマ開花

2024-03-01 | 小父のお隣さん

 フイールド、沢のどん詰まりにあるショウジョウバカマの群落で開花が始っていた。まだ数輪だけだったが開いた状態から数日前に開花が始ったとみてよいだろう。拠点の一画にも10株ほどが細々と生きながらえているのだがシイタケのホダ場にされ拡幅の影響と踏圧被害で減少傾向にある。野草を保護育成するよりは「花より椎茸」の感覚が勝ってきては保全も何もあったものではない。

 群落については以前より半割丸太で木道を備えそこを歩かせるようにしないと潰される一方になるからと話はしているけれど、小生らの勢力範囲でも無し、それ以上の手出しは出来ないまま経過している。花を見物に来る人たちは開化株など目立つ株は踏みつけない様に注意しているだろうが発芽仕立ての小さな幼株に気が付く人は居るはずもなく、次世代の株は育ちにくくなり老化株だけが目立つようになった。まあ、それは里山保全活動を行う団体にも等しく言える事態であってどっちも風前の灯火に近いか・・・。

     


カラスザンショウ移植

2024-03-01 | 蝶の食草園

 裸木の新芽も萌えてきたのだろう裸木だった里山の斜面が霞んだように見えるようになってきた。冬芽一つ一つを観察しても大きくなった感覚は覚えないのだが風景はまさしく点描の絵に見えて来る。そうなると移植の時期でもある。水源地の保全作業を行いたかったのだが何日要するか計れないのでカラスザンショウの実生苗を一カ所に集めた。幼虫のリスクを軽減する視点からは分散させておいた方が望ましいと思いつつも囲いの中や日照条件の悪い場所での実生樹なので、ここは幼虫観察樹としてまとめた。

 昨季の幼樹にはアゲハの3種類が産卵して、その好みぶりが理解できたので今回定植した段々斜面には採種した種も直播してある。どの程度が発芽するかは不明だけれど産卵食草用に高さ2m程度のまま随時、萌芽更新を続けるつもりなのである。カラスザンショウが移植にどのような反応なのか経験値が無いので未知数だけれどその分、植穴をしっかり掘り根鉢を保った掘り上げ苗を据えた。

 後は泥土をスコップ1杯施し水決めし支柱を添えて終了した。根回りに土が密着できるように手間は掛けたし根が動かないよう支柱も添えたので発芽してくれれば活着できるだろうと期待している。