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それとは無関係に・・・。
 





GITANES休止者は喫煙者・非喫煙者・禁煙者の、
どの層にも属さないような感じを持っており、
非常にケツの座りが悪い。
それとは無関係に・・・。


言葉を考えたり、モノや仕組みにネーミングする仕事に
就いているせいか(自分のセンスは棚に上げて)、
名前のつけ方などには非常に敏感になる。

超ド級の下らないニュースを発見してしまった。


以下引用
」」」」」」」」」」」」」」」」」」
(よみうりオンラインより)

「子の命保護」か「捨て子助長」か、赤ちゃんポストに戸惑い

 熊本市の慈恵病院(蓮田晶一院長)が、親が養育できない新生児を預かる
「赤ちゃんポスト」を年内にも開設する。市保健所はポスト設置に必要な
施設変更届が出されれば受理する。

 子どもの命の緊急保護か、捨て子の助長か――。全国初の試みは専門家の間
でも賛否が分かれ、病院から「予想外」の相談を持ちかけられた市や熊本県、
国、警察などは「前例がなくて……」と戸惑うばかりだ。

 ポストは病院の外壁に設け、新生児を寝かせるマットを敷き、室温は約36度
に保つ。新生児が置かれるとセンサーが感知し、医師らがすぐに保護できる。

 設置するには、市保健所に施設変更届を出し、許可が必要だ。10月中旬、
病院側から説明を受けた保健所の担当者は「前例がなく、即答できない」と、
厚生労働省医政局総務課に電話をかけ、判断を仰いだ。

 ところが同課も「所管する医療法で判断する事案ではない」と言うだけで、
設置の是非について判断を先送りした。同課の担当者は9日、「省内のどの
部署で判断すべきか見当がつかない」と打ち明けた。

 10月26日には、同病院の蓮田太二副院長らが県庁を訪問した。しかし
ここでも、どの部署が応対すべきか即断できず、児童相談所を所轄する
少子化対策課子ども家庭福祉室と、乳幼児健診などを担当する健康づくり
推進課母子保健班の2部署が話を聞いた。

 吉田勝也室長は「行政が設置の是非を一般論で判断することは難しい」
としたうえで、「県民、国民が議論を尽くすことが望ましい」と、世論にゲタを
預けた格好だ。

 結局、市保健所は明確な指針は得られないままで、「ポストの安全性が確認
されれば受理するしかない」と語った。

 また、ポストに赤ちゃんを預けた親が保護責任者遺棄罪に問われないかどうかに
ついても、はっきりした見解はない。

 親が新生児をむやみに置き去りにすると罪に問われる可能性があるが、
県警捜査1課は9日夕、「犯罪が成り立つかどうかは、それぞれの事案ごとに
法と証拠に基づき判断される」との見解を発表。ポストに「合法」のお墨付きは
与えず、違法性は個別に判断するとしている。

 慈恵病院でポストに預けられる赤ちゃんは、その後どうなるのか。

 熊本県に対する病院側の説明では、病院は赤ちゃんを預かったら、警察、
熊本市、県中央児童相談所へ連絡する。警察は保護責任者遺棄事件にあたらないか
捜査する。市は2週間以内に戸籍を作り、市長が赤ちゃんに命名する。

 児童相談所は赤ちゃんの健康状態をみて乳児院(県内3か所)に入所させる。
その後、児童相談所に登録した里親に委託するか、乳児院で2歳まで育てた後、
児童養護施設に移す。

」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

ネーミングとは、着色であったり、オブラートであったり
すりガラスであったり、ラッピングであったりする。
強調もすり替えもごまかしも、何でもできる。


法律とは、ある種 道徳の中心から派生した、許容範囲のボーダー
ラインであり、線を踏み越えていなければ、そこが正しい
立ち位置だということにはならない場合も多い。

本来なら境界線のずっと手前に立っているべきだ・
というケースがいくつも容易に思い浮かべられる。
(例えば、体内のアルコール検出量が基準以下で、
酒気帯び運転にはならないから「問題ない」というのは、
「運転する前は酒を飲まない」という位置から
明らかに距離がある。)


道徳的な正しい立ち位置というものは、境界線があいまいだったり
足場が非常に悪く、居心地が良くないので
どんな人もついつい中心(理想)から外れてしまう。

これでは社会が成り立たないから、せめてここまでにせよ
と明確な境界線(法)と、高い壁(罰)を設けた。
「ああ、あの壁は越えちゃいけないんだな」
という線の中でやっと我々は、義務を課せられそして果たす
代わりに、許される全ての権利を主張することができる。



「子捨て器」に「ポスト」なんて名前をつけて
境界線をあいまいにして、壁を低くしてどうするのだ?


院長先生が独断で名前をつけたのか
院内の会議で決定したのか、外部の業者に委託したのか
このニュースだけではそこまでは分からないが、
「よし、『赤ちゃんポスト』で行こう!」という
決定の瞬間があったはずである。
他の候補はダメで、このネーミングはOKと判断した、
決定の瞬間を想像すると、堪らなく不快なのだ。


このセンスが境界線をあいまいにして垣根を低くして、
「越えられないほど高い壁があったから、越えずに済んで」
いたものを、「意外と簡単に越えることができる」社会を
呼び寄せてしまうのだ。


「個人経営の売春」が「援助交際」になり
「子捨て器」は「赤ちゃんポスト」になる。

そして将来「人殺し」は「強制完了」と呼ばれるように
なったりする。

そうなると、強力な巨大な宗教の力でも借りないと
「立つべき位置の範囲の ど真ん中」が誰にも
分からなくなる。
そしてその「真ん中」は恣意的な位置だということに
気付くことができる人は誰もいないか、
いたとしても「異端」として扱われるだけである。

どっちにしてもくだらぬ世の中に傾く。
境界線を決めてもらうためだけに信仰など持てぬ。


「子捨て器」は「子捨て器」と呼び
せめて、なんとか「現在」に踏み留まらなければ。




社会として助けてあげたいケースと
絶対に助けてやりたくないケース、助けるわけには
いかないケースの判断は、警察や自治体、政府がやるらしいから
それはそれで正しく機能することを期待するとして、
それら一切合財が「赤ちゃんポスト」という名の
入り口を一旦通過するというのも どうなんだろうか?


産むしかなかった、そしてそれは隠すしかなかった
悲しいケースもあるだろう。
「ポスト」創設の是非は判断がつかない。

しかし、そのネーミングのセンスは
「是非を考えなくても済む」ようにできていないだろうか。



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