大豪清水次郎長 小笠原長生著
著者の小笠原長生は唐津藩小笠原長行の子であった。明治23年秋に清水で海軍広瀬武夫の紹介状で清水次郎長と面会した。
都立中央図書館の個人伝記の本が所蔵されているところでぼんやり眺めていたら、清水次郎長の本が集まっていたところに著者名の中に小笠原長生という名前があって気になった。手にとって見るとやはり生麦事件を処理した老中小笠原長行の子であった。
謎解き江戸のすすめというテレビ番組で清水次郎長の死去した年が明治17年とは驚いた。これでは自由民権運動弾圧と侠客次郎長逮捕との関係が解らなくなる。
戊辰戦争で反官軍に身を任せた小笠原長行は箱館で敗戦後逃亡生活を送り、海外から日本に帰ったと自首し、短い謹慎期間の後、自由となった。明治24年1月に小笠原長行が死去したのだがその葬儀に榎本武揚と共に林田保という人が参列している。(久敬社誌)この林田という人は村田保の誤植と推測される。大坂の唐津藩邸で生まれた村田が参列していてもおかしくはない。村田保は日暮里浄光寺境内に建っている福神漬顕彰碑を揮毫した大日本水産会の設立者である。
大豪清水次郎長を著した小笠原長生は日本海海戦で活躍した東郷平八郎の伝記の著書で知られている人物である。彼は明治17年築地にあった海軍兵学校に入っている。この兵学校は今の築地市場内の勝鬨橋付近のところに当たる。この兵学校に明治天皇が行幸した道が銀座の「みゆき通り」の名前の由来となる。
著者の小笠原長生は唐津藩小笠原長行の子であった。明治23年秋に清水で海軍広瀬武夫の紹介状で清水次郎長と面会した。
都立中央図書館の個人伝記の本が所蔵されているところでぼんやり眺めていたら、清水次郎長の本が集まっていたところに著者名の中に小笠原長生という名前があって気になった。手にとって見るとやはり生麦事件を処理した老中小笠原長行の子であった。
謎解き江戸のすすめというテレビ番組で清水次郎長の死去した年が明治17年とは驚いた。これでは自由民権運動弾圧と侠客次郎長逮捕との関係が解らなくなる。
戊辰戦争で反官軍に身を任せた小笠原長行は箱館で敗戦後逃亡生活を送り、海外から日本に帰ったと自首し、短い謹慎期間の後、自由となった。明治24年1月に小笠原長行が死去したのだがその葬儀に榎本武揚と共に林田保という人が参列している。(久敬社誌)この林田という人は村田保の誤植と推測される。大坂の唐津藩邸で生まれた村田が参列していてもおかしくはない。村田保は日暮里浄光寺境内に建っている福神漬顕彰碑を揮毫した大日本水産会の設立者である。
大豪清水次郎長を著した小笠原長生は日本海海戦で活躍した東郷平八郎の伝記の著書で知られている人物である。彼は明治17年築地にあった海軍兵学校に入っている。この兵学校は今の築地市場内の勝鬨橋付近のところに当たる。この兵学校に明治天皇が行幸した道が銀座の「みゆき通り」の名前の由来となる。