年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

口の中に4枚目の舌が出てきたようで

2013年07月14日 | 築地市場にて

蕎麦屋の出前のような嘘つきは営業の始まりと誰かが言っていた。口先三寸の口上で販売するテクニックはないが結構営業上の嘘はついてきた。営業上の嘘は許されるがどこまで許されるかが問題で国際化の今は契約書の世界で許容の範囲も狭くなったようだ。
 今週はどうやら二枚舌を超えた世界に突入しなければならないようで、舌が3枚でも足りないので再生医療の力を借りて4枚目の舌を増やしたい心境となっている。こんなことは付き合わなければよいのだが先のない寿命では頼まれたら嫌とは言えない年齢となった。今はまだまだ忙しくお迎えはもう少し待ってもらいたい。
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子安峻 こやすたかし

2013年07月14日 | 築地市場にて

子安は天保7年(1836)生まれ。家は代々大垣藩に仕えていた。生まれつき勉強家で弘化4年(1847)早くも大垣藩校敬教堂の句読教授に抜擢されたという。(11歳)当時の大垣藩主は戸田氏正で、家老小原鉄心の建言で優秀な青年子弟を江戸に送って、西洋砲術を学ばせた。子安は其の中の一人で彼は下曽根金三郎へ入門したが蘭学を学ぶ必要性を感じ、藩の許可を得て、佐久間象山の塾に寄宿して学んでいた。
 嘉永6年ペリーが浦賀に来たとき、象山について浦賀に行き、異国の軍備を見て、軍制改革の必要性を感じ、藩に建言したと言う。(16歳)翌年安政元年伊豆下田での吉田松陰密航事件により、象山が松代に幽閉されたとき、大垣藩は子安へ疑いをかかるのを恐れ、大垣に帰した。(吉田松陰と子安峻との関係資料がないのはこの事情がある)
 少し時間がたって、再び江戸に出たがこの辺の人間関係の証拠隠滅工作は横浜で高島嘉右衛門が金銀交換比率の不適正で金儲けしたとき、高島の姉に咎めが及ばないように大垣藩主から離縁されたことに似ている。この姉が産んだ子が戸田欽堂である。つまり、明治の初めに横浜の豪商であった高島嘉右衛門と子安が関係あっても不思議ではない。三代キシャと言っていた鶯亭金升は新聞記者だが子安峻は読売新聞を作った。
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