1853年7月8日(嘉永6年6月3日)は梅雨が明けていたのか。以前鶴見の大黒ふ頭の物流施設の3階(高さは10M以上ある)から対岸である木更津の町が見えていた。江戸時代の東京湾内海運は盛んで木更津行きの船は頻繁に出ていた気がする。羽田沖から三浦半島を眺めれば黒船が航行しているのは見えたのは当時の天候と空気が澄んでいたからかも知れない。当時でも夏の梅干は必需品であった。
梅生産者の過労が気になる。製品を売らなければならないが漬け込んだ梅を天地換えしし、干しあげなければ梅干とならない。梅雨明けの安定した天候は貴重な時間となる。