豊洲移転の混乱も終わり、再び史料調査へ。近場の割りに時間がかかる沼津市戸田へ行った。東京から3時間ほど色々な交通を使ってもかかることがわかり、車と言うことになる。昼の戸田はバス便の少なさで行動制限がかかる。
丁度ロシアと日本の交渉が始まっていてNHKが戸田の造船資料館で撮影していた。安政の大地震でロシアの外交団が下田にいたとき、船が津波で破壊された。この船の再建計画で戸田が選ばれたが、下田から戸田への回航途中で沈没し、新規に建造をすることとなった。この西洋の形式の造船が近代日本の造船業の始まりとなる。外洋航海の気候に耐える構造を持つ船の建造は江戸幕府が禁止していたため、日本船の遭難が多かった。
浦賀の与力たちは西洋の文献で西洋の構造を持つ船を浦賀で作っていたが、細かい部分が不明で、浦賀与力の中島三郎助が戸田に見学にいったようだ。ロシア船を再建した戸田の船大工は石川島の水戸藩造船所にいき、君沢型という戸田で作ったロシア船と同じ構造を持った船を作った。この石川島への人の斡旋は中島が関係しているという。
戸田でのロシアの乗り組み員と戸田の大工との通訳は堀辰之助と本木昌造が日本の担当者であった。本木は日本活版印刷の始祖でその弟(平野富二)が石川島造船所を発展させた。平野富二はいま忘れられつつある人物だが築地と戸田の縁で休眠の危機のあった石川島造船所を復活させた。