年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

知覧の特攻平和記念館へは覚悟が無いと

2024年08月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館へ行くには、ある程度覚悟が必要で、広島長崎の原爆資料館の様についでというわけにはいきません。知覧町は茶の産地で何もない農村風景と武家屋敷の町です。JR鹿児島中央駅からバス便で1時間20分。便の本数も少なく、近所の南さつま市立万世特攻平和祈念館は、鹿児島県南さつま市にある戦争資料館があります。ここへ行くにはバス便では難しく、結局車で行くしかないかタクシ―利用となります。そんなところから戦争末期に沖縄に向けて特攻に行ったのです。史実を知れば知るほど、若い人の命を戦意高揚に費消したと思うようになります。特に万世飛行場は即席の飛行場で滑走路が砂利で出来ていたため、飛行機の脚を収納する速度の速い飛行機が万世では使えませんでした。旧式でさらに戦争末期には米軍が三段構えで上空に待機していて、日本軍が飛び立ちレ-ダ-に把握されると、圧倒的な戦力差で沖縄までたどり着けなかった。多くの特攻本の記述は戦果率を見て、無駄死と言われた歴史があります。自分自身は特攻遺族となって、まだ20年程しか経ってなく、比較的に無関心でした。
 20年ほど前から、叔父のいたずらで、叔父の航跡を調べ始めていたのですが、築地市場移転問題で仕事を取られていたので、家族に叔父の航跡を調べてもらいました。主に主に調べたのが生きている親族の証言と靖国神社偕行文庫図書室の学芸員の人達でした。93歳の現役ユ-チュ-バ-で、ネット検索で逆さ歌、中田芳子と検索すると出てきます。この人の夫となる中田軍曹は叔父たちの同僚でした。
 1036名の特攻隊員が知覧で慰霊されています。この数字について、きむらけんさんは定義がおかしいと言ってます。下北沢の代沢小学校の児童たちが学童疎開に信州浅間温泉での交流の本がきむらけんさんの本が数冊出ています。
 定義の例を挙げると叔父の特攻では隊長として栗原義雄少尉となっていて、特捜一期生同期の小林脩少尉の他3名、そして誘導機1機で飛び立ち、すべて未帰還となりました。きむらけんさんに聞いたところ、誰かが特攻の様子を見ていている記録があるという。この記録が無いと軍人恩給に繋がるという。未帰還の飛行機の搭乗員は知覧で慰霊されていない。
 記録が無いと評価されない戦争。京都の耳塚の由来を思い出した。

 参考 きむらけん著
 台湾出撃沖縄特攻 陸軍八塊飛行場をめぐる物語
この陸軍八塊飛行場は今は台湾国防大学の敷地にあって、一部の遺跡が残っています。叔父の最後の宿泊地は復元され、台北紀州庵として保存されいます。台湾のドラマで畳の上を靴を履いて歩いていて驚きました。
コメント
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