年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地料亭 新喜楽の松かざり

2008年01月16日 | 築地市場にて
新喜楽の松かざり
他のところの松飾りが消えているのに築地場外市場前の新喜楽に14日までは松飾が残っていた。その前の歩道には枯れた木があるが、隣の築地ガンセンター前の歩道にはまだ青々した柳で冬とはおもえない。第一京浜の新橋駅前にあるリクルート就職ショップ前の歩道のところにイチョウの並木があるのだがどうような理由か一本のイチョウの木がまだ黄色い葉をたっぷりと木に付けていて他の丸坊主のイチョウと際立った差がある。日本テレビの高層建物影響で周りの空気の流れがここだけよどんでいるのでしょうか。
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築地場外市場の就職事情

2008年01月15日 | 築地市場にて
築地場外市場の就職事情
最近テレビ雑誌等の築地場外市場の報道によってかって中々求人しても応募の少ないのが今ではかなりの人が応募してくると言う。しかし築地市場の働く時間や労働環境が悪いため長続きする人はまれである。そんな中で市場と言う雰囲気が合う人だけが残ってくたびれた年齢まで働いている。腐れ縁と言うものでしょうか。
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青函連絡船

2008年01月14日 | タクワン
青函連絡船
二十年ほど前に廃止された青函連絡船のTV番組を見ていた。当事北海道からコンテナで新漬沢庵がやってきていて5トンコンテナに6トン近く積んでいて扉を開けるとドライアイスで冷やされた冷気から東京の暑い空気がまじって湯気が出ていた。サッカリンで味付けされていた沢庵が売れていたときで戦後漬物業者が一番元気なときであったかもしれない。今は昔の話である。
最初は9月に新漬沢庵が入荷していたが大根の作付け技術開発によって、ついには7月に来るようになり、無理な早だし競争は品質の低下つまり皮が硬い、味のよく乗っていない沢庵と大根価格の高い沢庵、品質低下を招き、需要が低下し北海道の沢庵業者は消えてしまった。
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有栖川宮記念公園

2008年01月13日 | 福神漬
有栖川宮記念公園
名前の由来は明治20年代に有栖川熾仁親王がこの地に住んだことです。福神漬に関係する上野寛永寺の最後の管主輪王寺宮は後の北白川宮で明治維新時、皇族出身ながらやむえず幕府側になったため,謹慎処分となりその後陸軍に入り、日清戦争の参戦し台湾で死去した。福神漬の酒悦は輪王寺宮から名前をもらっていると言う。江戸城ノ無血開城のとき輪王寺宮は静岡まで赴いて徳川幕府の許しを乞うたが有栖川宮に屈辱的に扱われた経緯もある.福神漬は上野戦争が背景としてあるので複雑な感がある。
そんな因縁のある有栖川宮記念公園に都立中央図書館があって福神漬関連の由来を調べている。
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風邪とニンニク

2008年01月12日 | キムチ
風邪とニンニク
 今風邪が流行していますがちょっと前は風邪が流行るとニンニクが売れました。
今から20年ほど前は、つまり日本人がキムチと言う漬物でなく朝鮮漬と呼んでいた時はニンニクの臭みが嫌われていていかに販売量を伸ばす鍵は臭みをどのようにして消すかと思われていました。
 今ではキムチは匂いの問題は生じていませんが時代が変わった気がします。匂いと臭いは微妙な感覚です。食べ物は人にとって良い臭いの範囲が異なりますし、同じ人でも体調の具合で異なります。
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鶯亭金升日記

2008年01月11日 | 福神漬
鶯亭金升日記 より
鶯亭金升は『明治のおもかげ』で福神漬の命名したことの事情を書いてある。明治時代から活躍した新聞記者で戦後まで生きていた。
 明治22年9月27日の日記
隣他は福地源一郎氏の所有だったが借財のため公売となり、当日にいたりて郵船会社朝田(浅田正文の間違い)といえる者が購入したが火災を恐れるため左右の土地を買って火除けにしようとするためである。
 つまり鶯亭金升の借家は浅田正文のために家を取り壊され移転するようになった。このとき何か世俗的交流があったと思われる。東京市下谷区池之端茅町に福神漬の関係者が同時代に揃っていたことになる。また後に日本銀行総裁になった日本郵船の川田小一郎もこの地に関係ある妾を得ている。
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明治22年頃の池之端茅町

2008年01月10日 | 福神漬
明治22年頃の池之端茅町2-18の様子
鶯亭金升日記より
根岸入谷はまだ町の中の村里なり。然るに不忍は下谷の町中にて、一見しても根岸入谷より都なるを知れども、茅町辺りはこれに相違して、大晦日というのに人力車さえも余り通らず、折々通るのは働く人や肥えを運搬する車である。根岸より田舎にてことに前には池あり山ありと書いてある。
 池之端茅町はいまの台東区池之端一丁目にあたる。明治22年頃の閑静な様子がわかる。
この地に色々な人物が集合してくるようになる。そして福神漬も其の中に一つとなる。
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明治の水産博覧会

2008年01月09日 | 福神漬
明治の水産博覧会
福神漬の歴史を調べているといつの間にか色々なあまり知られていない歴史を調べることとなる。其の中の一つとして明治16年の上野公園で開催された水産博覧会がある。国内の水産業の振興をはかったものだが福神漬の歴史に影響があったと思われる。
 一部の資料には水産博覧会に水産物でなかった福神漬が出品され評判になったというが新聞記事の様子ではそのような感じではないようである。ただ酒悦は香煎茶屋で水産博覧会場内にでた食事を出す店が5店舗あったようである。そこで福神漬が出されていた気がする。また明治の初めに日本に入った缶詰という技術が徐々に定着して行き水産物に応用していった時期に当たったともいえる。そこで上野にあった酒悦主人は福神漬に缶詰の技術を導入することを考えたのだろう。
 水産博覧会の観客が23万人ということはどんな影響があったのだろうか。日本橋魚河岸の歴史のも出ていない。水産博覧会は明治16年だが一般に伝えられている福神漬の創製は明治19年とされている。この差が水産博覧会と考えられる。
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水産博覧会

2008年01月08日 | 福神漬
福神漬の創製に関係する博覧会
第一回水産博覧会
明治16年3月1日より明治16年6月8日まで上野公園にて開催。
時事新報 明治16年3月2日
水産博覧会が開場舌との記事。
 3月1日には福神漬を命名したといわれる梅亭金鵞の『七偏人』本の発売広告。
明治16年3月26日 時事新報
水産博覧会に出品した展示品のうち売買契約済のものは6月10日閉場後引き渡すものだが、気温の変動によって腐敗するものは規定外として買い入れ人に引き渡してもよい言う処置がなされた。
明治16年3月27日
明治天皇が水産博覧会に行幸。 3月28日東京日日新聞記事より

明治16年4月10日 時事新報
水産博覧会の縦覧人は4月1日より7日までの人数は2万829人。水産博覧会の陳列品案内が売り出され至極便利だと言う。
明治16年6月10日・11日 時事新報
水産博覧会の来観の人数は22万9236人と報道されている。

この博覧会で水産缶詰が出品されいたと思われる。福神漬は缶詰で製品となったから酒悦が創製したと思われる。
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年頭の考え

2008年01月07日 | 築地市場にて
年頭の考え
5日は平成20年の築地市場の始まり。すでに仲卸の人達は連日のように出勤して営業中。しかし銀行を中心として、12月28日以降1月4日まで休みは長すぎる。実際は海外取引しているところは活動している。休んでいる間に4円近く為替変動があるなどおかしい。バブルの時代に働きすぎであったのが今度は休みすぎのような気がする。残業の取締りをすればよいのだろうか。人しか資源のない国は知恵が働かねば生きては行けない。食品の表示も製造者や販売者や消費者のみのことだけでなく全体のことを考えて表示する時代となってきた気がする。
 フードマイレージや二酸化炭素の取引など新しい考えでは遠距離から食品を輸入することは無駄と言う考えや、途上国から水資源を奪うと言う考えもある。しかし、今は買い負けという考えも出てきて安くよい品物が日本に入ってこなくなりつつある。国力がなくなり気が付いたら働かない年寄りだらけの日本になる気がする。そんな国がよいのだろうか。

 塩分の少ない食品を食べると無気力となる。
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とにかく一年始まり

2008年01月06日 | 築地市場にて
 とにかく一年始まり
築地市場賀詞交換会には不参加
毎年1月5日は曜日に関係なく築地市場は新年の初市となります。一年の方針が東京都の築地市場の市場長の挨拶から出されます。今年は月次処理の業務が忙しく不参加。築地市場の厚生会館の寿司が食べられなかった。
 全般的に賞味消費期限の問題で年末の仕入れを控えたようで昨年はついに大混雑はなかった。さらに漬物製造業者も控えたみたいで年始の欠品が予想外に長期化しそう。その原因はスーパー等の棚が年末商材を控えたが予想以上に売れたため売り場がガラガラで至急補充する必要があるのだが年末に製造を取りやめたため業者は中々人が集まらず製造が遅れそう。ずいぶん昔の風景で不景気とはいえ徐々に金を必要とする人手は足りなくなっている。生きがいのために働く年取った労働者と少ない若手労働者。綺麗な仕事は減ってきて大変な仕事だけが残っている。

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一年の中で大混雑

2008年01月05日 | 築地市場にて
一年の中で大混雑
一般に食品スーパーは一年の一番売り上げの多い日は12月31日で次に多い日は12月30日と言われる。今年は天候不順と食品偽装後遺症と値上がりとでどうなるんでしょうか。年々正月明けの売れ行きの予想が難しく経験の長さだけでは対応不能。法令順守と売り上げ確保と経費節減を複雑計算して回答を速やかにする。
 築地市場では5日が始まり。どんな挨拶を交わすのだろうかあいさつ回りの人と会話が楽しみ。でも悲観論が多そう。株安原油高円安だが。しかし中国の株は上がっている。何処を見るのかみんなは。
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原油100ドルは節目か

2008年01月04日 | 宅老のグチ
原油100ドルは節目か
単なる桁が変わったくらいであるが値上げをしないと言う気分の限界が消える。さらに100ドルを超えるとドル円の為替が円高ドル安になったら日本経済がさらに不振となる予想から株が下がって不景気風になる。その中で食品の価格改定が始まる。値上げか容量の変更に向かう。立ち向かったとしても海外事情の変化で値上げなので収益を上げねばいずれ海外企業によって買収の恐れも出てくるとなるだろう。
 漬物なんかはマイナーな食品なので徐々に人手不足がやってきて商品の種類を減らすための値上げに踏み込むところもあるだろう。今の流れは縮小均衡に向かっているか。
 100ドルの原油がさらに120ドルといくと我慢しきれなく雪崩れのように値上げとなるだろう。その節目が迫ってきた気がする。そして蚊帳の外の米の価格が見直されて米食に向かうだろうが大豆等が上っているので以前の純日本食の風景とはならないだろう。そのことは大正年間の日本が不景気になっても江戸時代の食事にならずカレーライス等の洋風和食は発展したいった。つまり小麦を利用した物から米粉を利用したものに切り替わるだろう。そこにはある種の技術革新があるだろう。
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日はまた昇る

2008年01月03日 | 宅老のグチ
日はまた昇る
築地市場へ出動。2日はまだ休市なので人はまばら。場違いな外国人観光客がうろうろ。それでも2日となれば仲卸の人々が築地から配達に出かけてくる。正月に届いた新聞を読む。少し論調が変わってきた気がする。円高を推奨する方向に向かっている。全般に世界の中で日本の地位が下がってきているという。
 世界中から食物を輸入していて自給率の低い日本にとってどのような形に誘導するか政治は問われている。そんな中で漬物の役割が出てくるだろう。新年の初夢と言うこと。新年のテレビ番組で男のアナウンサーが漬物屋の娘さんと見合いするのがありました。いい仕事ですというコメントが時代が変化して気がします。漬物が見た目がよい時代になったのでしょうか。
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人力車

2008年01月02日 | 趣味としての漬物
人力車
明治の中頃まで東京の市民の乗り物は人力車であってその数は何万台もあって交通事故が絶えなかった。次第に東京市の交通網が整備されると人力車は消えて行き新橋や赤坂の花街だけに残っていた気がする。今では浅草には多数の人力車がたむろして駐車難となって来たくらいである。
 漬物も江戸から明治の頃は粗末な食事に必ずついていて女性は漬物を漬けることは当たり前の素養でもあった。今ではだんだん自家製造することも少なくなりスーパー等で購入する時代となってしまった。時間ができて野菜栽培する人も今後増えるだろうが素人の野菜栽培が順調なときは八百屋の野菜価格も安くもらってもありがたみが少ない。そこで漬物にしてあげるとよい時代が来るだろう。
 生活交通手段としての明治時代の人力車から平成の遊びの人力車になったように将来は趣味の漬物になるのではないのだろうか。
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