年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

4の日の巣鴨・そして池袋の立教学院展示館・豊島区郷土資料館

2025年02月15日 | 宅老のグチ
4の日は巣鴨のとげぬき地蔵の縁日で、池袋の立教大学の入試のすき間狙いで、周遊コ-スを回って見た。
親族の歴史を調べている内に、キリスト教系の人の名が出てきて、無関係であると思い放置しいた。1月の寒い日に今まで調べていたことに飽きてきて、無関係なことを暇つぶしで調べることにした。すると立教大学が検索に出てきて、図書館で立教大学の歴史というか立教学院史を読んだ。立教学院は築地居留地から始まり、何度も築地で火災・震災等の被害を受け、まだ未開の地だった池袋付近の田園に移転した。
 自分が知りたいことは戦後のGHQと親族の関係である。たかが一介の農民にGHQが干渉するとはとても思えなかった。確かに叔父たちの特攻隊員は数十名の米兵死者を出し、負傷者も多数記録にある。そこで親族が慌てて叔父の遺品・遺書等の処分するとは思えなかった。もう少し理由があると思って
 昭和20年8月15日に敗戦となり、米兵が日本に上陸した。その中でGHQの中に立教学院の教師がいて、開戦後にアメリカに戻った人がいた。その人が戦後の荒廃と言う状況でも立教学院を放置していた学院幹部を追放した。11名。その中で唯一身の潔白を主張した人物がいた。キリスト教精神に反する行為を行っていなく、さらに治安維持機構に狙われていたことを証拠を出して、比較的早く公職追放が解除された。この人物の親族が叔父たちの村で戦後の食料の不足時に疎開していた。
 立教学院展示館にはこのことは数行の文章で敗戦直後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ・SCAP)から大学総長以下、幹部11名の追放令が出た。この措置は戦前教育を担った教職者の公職追放の先駆けとなった。なおGHQによる直接の公職追放は立教学院だけだった。
 実にあっさりとした展示だった。展示館を出た後、学院の敷地を一周し、ふと豊島区の郷土資料館があることを思い出し行くことにした。この豊島区の郷土資料館はビルの上層にあって、昔のイベントで滝野川の種子問屋があって、ナタマメの販売状況と用途を調べたことがあった。何か大刀豆と言うのがあったと記憶する。
 池袋の敗戦直後は闇市の全盛で都内最大級の規模があった。それは東武東上線と西武線池袋線(当時は武蔵野線)で郊外の食料がヤミで運ばれていた。当時の配給のカロリ-は600カロリー位で、今入院時の最低カロリ-を大幅に下回るのでヤミ食料を手に入れないと餓死することも普通だった。この展示も郷土資料館にあった。
二つの歴史資料館は池袋の未来に終戦直後をどう伝えようとしているのか。



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