年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

天気の良い月曜日は

2024年04月15日 | 宅老のグチ
東京の多くの図書館は月曜日が多く、さらに郷土資料館等も月曜日が休み。そこで映画館となるのだが、高齢者割引でも1100円から1300円となり、気になる映画以外は見ることは無い。さらに浅草等の興行の世界は最近の物価高で2500円程度まで上がってきている。残る無料の高齢者の行き先は区の施設で展望台というのもある。都庁が一番で、北トピアの北区、江戸川区の船堀タワ-、文京区役所の展望室が思い浮かぶ。今上野恩賜公園の事を調べているが、恩賜と言うことが気になって調べると、箱根に一つあってあとは東京の恩賜公園となる。上野恩賜公園・井の頭恩賜公園・猿江恩賜公園・有栖川公園・浜離宮恩賜公園・旧芝離宮恩賜公園となる。この中で行ったことのない都内の恩賜公園は猿江の公園でどうやら、都営新宿線住吉駅付近のようだ。
 新聞休刊日の15日にいつも考えるのは、どうして土曜夕刊を休刊にしないのだろうか。ある時広告会社に勤めていた人に土曜日の夕刊の広告はサービス広告で、ほぼ無料とのこと。余白の埋め合わせという。
 明治期の新聞で後に作家となった人が新聞社で働いていた時、隙間が空いて文章を書いたら評判が良く作家になる道が開けた逸話がある。べったら市の資料を探していた時、旧聞日本橋という随筆を書いた長谷川時雨は埋め合わせ随筆だったという。後に歌舞伎の台本を書き、明治44年に さくら吹雪という言葉が歌舞伎の舞台で使われた。それまでは見ていても桜吹雪と言わなかったようだ。なんと言っていたか文献にまだ出てこない。次の花に移っていて桜は葉桜と見なしていたのだろうか。今は世界で散る桜の下で雪が降るような桜を撮ることを目的に日本にやってくる。雪月花。雪はふわふわ、花(さくら)ちらちら、月は煌々・こうこう・空気のキレイナ日本で余分な光がない所。そうなると長野県中心部の桜がよさそうだが月見で日本の名所は何処なのだろうか。もう人が月に行っても感動が薄い。
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佃島・佃煮から

2024年04月14日 | 宅老のグチ
千代田区の千代田図書館で司書さんから出してもらった、貴重書扱いの関東漬物佃煮組合発展史1933年を再び読み始めた。まだ追加の資料を探さないといけないが、どうも食品業界は会社の成立時期を古くする傾向がある。例えば日本橋1-1-1の国分という会社は、戦後にGHQによって合名会社国分が解体され、さらに占領軍が国分の建物を接収し、ごく小さな国分漬物株式会社という会社が日本橋の隅に残された。GHQの接収が終わって、国分が復活するのだが、法的問題が残っていて、合名会社国分を発展させるより、国分漬物を社名変更して今の上場会社となっている。この辺の戦後の事情は詳しく知らないが、日本橋漬という福神漬にこだわる国分の歴史から知った。国分とはメンツより企業の継続と速さを取ったとおもう。ただ痕跡は残しておく。
 この様なことを思っていてブログで佃煮の事が書かれさらに築地の散歩で築地活字の碑を見て、書きたくなった。


この碑は築地コンワビルの片隅にあるが印刷懇話会からビル名が来ている。ビル自体が築地の活字の製造工場で近隣の新聞社等に提供していたようだ。碑にある平野冨二という人は、活字から川向うの石川島造船所を譲り受け発展させた。今のIHIは最初のIは石川島で元は水戸藩の造船所で、ペリ―が来航した年の暮に造船所が始まった。これには浦賀の人達の協力もあったようだ。詳しい歴史は佃島の隣に地に石川島資料館があって水曜日と土曜日だけ入ることが出来る。結構探すに苦労したが黒船来航時の日本がいかに危機感を持っていたことを知る。最初に作った洋式の船はドックから出ることが出来ず、厄介丸と江戸市民から揶揄されていた。その時の造船所から引き出す縄が一番強いと信じられた女性の黒髪でつくられたロ-プで、靖国神社遊就館で実物を見て、本当に昔の人は髪の毛でロープを作っていたことを知った。なぜ造船所から出れなかったというと、佃の地は隅田川の土砂が貯まるところで、水深が浅かった。色々な引き出す工夫を考慮中に大潮の満潮時に船が浮かび造船所から出た。しかし夜間だったため、気が付いたときには干潮となっていて、川の中で横倒しとなってしまった。隅田川から出たのは翌年の事で、横浜に回航され使えるようにしたという。築地付近の隅田川の浅さは結局横浜が発展する理由となった。築地居留地の異国人たちの、東京に来るにはどこかで小舟に乗り換えないと着かなかったので貿易商人は横浜に残り、教育関係が築地の居留地に残った。それでキリスト系の学校の発祥地が多い。
 当時の隅田川の浅さを知る逸話として、石川監獄から自由民権運動の政治犯が政府高官暗殺を広言し干潮時に歩いて墨田川を渡り脱走した。このことから石川島監獄の移転問題が出て来る。
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日本人83万人減という新聞見出し

2024年04月13日 | 宅老のグチ
毎度のことながら新聞見出しは良く読まないといけないと感じる。
 日本人83万人減 
この新聞見出しは日本人ということを入れないといけない。外国人労働者が20万人ほど増えて、実際の人口は59万人ほど減ったことになる。いわゆる団塊世代の人たちの男性の平均寿命の83歳までそこを過ぎると人口減が緩くなる。あまり同世代の男性の死亡数は自分も含まれるので気持ちの良い問題ではないが夜寝るときにふとこのまま死もあるのだろうと寝落ちする。100対105の男女比率で日本の子どもが生まれる。今は出生時の超音波診断で性別が解かるがよほどのことがない限る、女子と言うことで中絶されることは無いので105の比率で男子が生まれる。それが100歳になると男女比が15対85になる。つまり男子は急速に75歳を過ぎると死亡する。これも個人差があって、例えばタバコを吸わないという人も生きていて。多くの健康法の根拠が薄い。最近問題となっている紅麹のサプリメントも新聞記事によると、宣伝に騙されていても惰性でと言う人の服用が減っているという。
 自分自身も3か月の一度の定期点検で医者に行っているが時間の無駄使いと思っている。実際後期高齢者保険を使っているが医者通いは一種の気休めか健康情報の受取場と思う。いつの間にコロナが終わっても大きな病院はマスク着用となり驚く。多分これは消えない。さらにエア―タオルがトイレから撤去されている。(老いの失敗学)という本を読んで転倒防止には杖の使用を薦めている。その行動が他人に注意を与えるという。杖を持っている老人の脇を自転車が注意して通り抜けるという。歩道の敷石でつまずいていても杖で骨折のひどさが減るという。転倒は起きても軽減は出来ると著者はいう。
 老人の失敗は老化を自覚しないことと外部に見栄で老化を見せないことが事故を酷くすると指摘する。この様に本に書かれているが実際問題として、明らかな老人の振る舞いを見栄でしたくないと思うのが普通だろう。そこで男性は引きこもり、同世代の友人たちの死去から気落ちする。今都内をシルバパス利用で動いているが、時に昼間の通勤・通学時以外のバス利用は医者通いの老人が多く、病院前のバス停を過ぎると健康老女のバス客が目立つ。
 夫婦でどちらかが先立つと多くの場合日本では男性がすぐに後追いし、女性は長生きする。遺族年金の制度で男性が奥さんが先に亡くなり遺族年金が支給されないと訴訟の報道があった。国も女性は男性より長生きと法の不備があるようだ。これから男女平等の掛け声で、年金制度の不備をごまかし、女性も働くように政府の頭の中は考えている。この時は欧米の例を挙げる。でも欧米は日本より平均寿命が短い。不景気中国は年金制度が不十分であるのに退職年齢が早い。どう計算しているのだろうか。今の中国は再び子が親の面倒を見よという。これでは逃げたくなる。
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街歩きで知る銀座の地価上昇

2024年04月12日 | 宅老のグチ
江戸時代の文政年間に地方から来た人向けの江戸市中の買い物案内が出版されていた。この本の件で中央区京橋図書館/本のもり/に行った。この図書館郷土資料は江戸市中の本を読むには適している所で今までは中央区役所の地下で暗かった。
 11日の天気が良いので早めに切り上げ、図書館から新橋駅まで歩いてみた。本のもりはJR八丁堀駅付近にあって、その地名から江戸町奉行の与力・同心たちの住んでいる所で、また敷地の又貸しで儒者の多い所でもあった。堀の地名から水路が多く、今は埋め立てて公園になっている所も多い。本のもりの水路の跡地である。そこからJR新橋駅まで歩くことにした。都営浅草線宝町駅から新橋まで駅数で行くと2駅歩く。
 平成通りと名付けられた、明治期の新富座の位置まで歩く。この新富町から築地のコンワビルまでは明治期の印刷業界の集積地で印刷業界団体も今はここにある。中央区の新富座跡の案内板が中央都税事務所と京橋税務署の耐震工事で完成後に位置が変わりあたしい物になった。新富座は明治22年の歌舞伎座が開業するまで興行の中心劇場だった。その京橋税務署と首都高速をまたぐ橋の間に今はマンションとなってしまったが松竹の本社があったところで、一度そこに得意先があって建物に入ったことがある。普通のビルと違って装飾性があるなと思い調べたら松竹の本社跡だった。平成通りにはレコ-ド会社の事務所があった記憶がある。
 築地にあった三大銀行はみずほ銀行築地支店をのぞいて、三菱が銀座8丁目に三井住友が近所のビルにコンワビルに移転し更に銀座6丁目に移ったようだ。築地市場が移転すると築地に支店を設ける必要性が消える。
 三井住友銀行の跡地は銀座で買い物をする観光客用の店に代わった。平成通りは銀座と名称が付くホテル街で都営浅草線は成田と羽田を結ぶし、渋谷も便利でさらに早朝の築地場外市場に歩いて行ける。欧米から深夜早朝に日本について食事をするには夜間でも明るい築地はとても便利な町でもある。
 三菱UFJ銀行築地支店の跡地は更地となり、さらに旧電通本社のビルも解体中で、この付近は巨大な再開発となるだろう。激変するので記憶にとどめる。
 さらに京橋築地小学校の桜を見て、エトの絵があるビルの先のビルが解体中。ここ2~3年で解体が進む。晴海通りに出て古く見える東劇と映画館。この東劇ビルと築地の郵便局はいずれホテルになるしかない。さらに東に向かって、新橋演舞場を眺めつつ、元日産自動車本社から築地の料亭街に向かうが、東京ニュ-ス出版と看板があるビルも解体中。近所の料亭数件は営業継続中だが道路の駐車禁止の標識から人力車を除くという標識が消えていた。この人力車は浅草等の人力車と違って芸者さんの置屋と料亭間を結ぶ車だった。カツラが高く、帯のためにタクシ―が使えなかったと思われる。一度築地警察の隣から歩いて出て来る二人連れの新橋芸者さんが入っていくことに出あった。あれ人力車に乗らないのかとおもって。すでにその頃には人力車が築地付近から消えていたのだろう。浅草の人力車は今からと思うと安普請と感じる。築地のは品があったのでどこかの観光人力車で使われているかもしれない。そんな思いをしながら、汐留の歩道橋で付近を眺める。中銀カプセルタワ-が老朽化で消え、角にあった日本一ガソリン価格の高いガソリンスタンドが閉鎖していた。普通のガソリン価格より20円は高かった。社用車しか使えないスタンド。
 鉄道発祥の旧新橋停車場に入るが付近を見渡すと解体中のビルが複数見える。何か競って解体。どうやら物価高と人手不足で低金利の今のうちに解体先行をしている様に感じる。バブルの時もそうだったが会議の長い日本は合意を得やすいことに結論が成りやすい。今は空き室が多く、借りている企業・人が移転しやすいし、トイレが汚いビルだと新卒が応募も来ないという。
 レトロ感のあるニュ-新橋ビルに入り、都営浅草線に乘る。このビルも解体計画があるようだ。あと十年でサラリ-マンの聖地風景が消える方向に向かっている。残るのは解体しにくい線路下の店かもしれないがJRは民業なのでどうなるか判らない。そうなると築地場外市場が聖地となりそう。ここの地主は築地本願寺の系統の寺院でさらにお墓もある。相続税で土地売却が無い。観光客の足の下に江戸時代の遺骨が眠っていることは気にしていないようだ。。
 築地場外市場の風景は残る。あの移転騒動の時に反対していた人たちは見事に小池知事に騙された。うぶな人しか築地では働けない。なぜなら食にこだわり他の事は知らない。
 何か平家物語の出だしを思い出す。ゴーンと鐘が成り、発車のベルが鳴る新橋。空き室が目立つ汐留。
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落語の長屋の花見・花見酒の経済

2024年04月11日 | 宅老のグチ
散り行く桜を見に千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ行った。都営新宿線九段下駅から桜の散り具合を見つつ行ったのだが9日の大雨で桜の花と新芽の割合が半々くらいでチョットがっかり。期待していた花吹雪は風が弱くひらひら程度。途中で戦没者墓苑に向かうのだが行く人が少なく、ひっそりしていて一組の慰霊行事が行われていて読経が微かにきこえる。その脇で手を合わせ、親族の戦没者へ祈る。帰りに昭和天皇の和歌を見るともっと早く聖断が出れば良いと思うが8月15日の録音盤騒動を知っているのでやはり原爆が天皇陛下の決断を後押ししたとしか思えない。北の丸の国立公文書館で見学の最後に玉音放送を聞くことにしている。皇居前の泣いている女性の写真は当日で無いという報道もある。検証が欲しい。
 中国の検索サイト・百度で見ると、どうやら景気良さそうな報道で多くの中国の人が清明節の3連休で国内の花見に出ていて、経済効果を報道している。花見は日本も外国も普通は入場料を取らないので安上がりのレジャ-となる。そこに経済効果を出すことはあまり良いニュ-スがない中国の苦境を暗に示している。江戸時代の話として長屋の花見という落語がある。貧乏長屋の大家さんが大家さんの声掛けで花見をすることになった。店子と言われる賃借人は多くは家賃を滞納していて、不安で参加していた。
 そこで出された徳利酒は中身は出がらしのお茶、卵焼きはタクワンの厚切り、白いかまぼこののようなものは大根だった。このお弁当でみんなで酔って、目が回りお茶酒の中に柱が見えたという下げになる。
 江戸時代から漬物のタクワンは安物の代表であった。最近どこかのライターさんがしきりに6月からの食品衛生法の漬物業への完全実施で道の駅等で販売している地域のおばあちゃんの手作り漬物の絶滅危惧をわめいている。この食品衛生法の漬物業への実施の経過を知っている身ではやむを得ないとおもう。その程度の負担が出来なければ、もし食事故が起きた時の日本の全国の農産物と漬物の被害が甚大だったことを知っている。
 高齢者施設へ浅漬け漬物が納入され、O-157の大腸菌で過去最大の死者数を出し、さらに季節が夏のため、白菜農家が全国的に大被害となり、さらに漬物業へ売り上げ低迷と野菜の殺菌の設備投資を要求された。その設備投資でその後に浅漬業者が負担で破綻した。今はネットの世界で当時の記録が簡単に出て来るので、いったん事故が起きればまた大打撃となる。これは高齢運転手の事故報道と似ていて、今まで事故が無いのでという言い訳が通用しないし、行政の姿勢も変わらないと思う。この法律の完全実施で消える漬物はいずれ消える。次世代の人に動画とかレシピを残し適正な価格で復活すればよいとおもう。惰性の継続は若い人たちの工夫とやる気を失わせる。
 今の日本は花見酒の経済から出つつある。日本の中でお金が回るのでなく、異国人がわざわざ日本に来て高いホテルと高い料理を食べて、遊んでいる。花見もお金を出させるイベントと言うこと知った今年の2週間遅れの花見だった。待たされた開花は実に記憶に残る花見だった。
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オッペンハイマーという映画を観る

2024年04月10日 | 宅老のグチ
アカデミー賞を取る前に、何故この映画がアメリカでヒットしたか不思議に思っていた。第二次大戦で予期せぬ、非力な日本に戦争を終わらせようとしたが、今では世界中に核兵器が拡散され、非力な国の体制保持兵器となっている。ただウクライナの戦術から、大艦.大ロケットに時代が変わったと感じる。維持管理に今大国が兵備を増強しているが方向は間違っている。大量の無人飛行爆弾の時代だろう。
 日々心の中で見た映画の感想が変わる。日付を入れて、変遷と変化を見たみたい。
初日の映画を観た後。
 昨年に見た映画で、ユダヤ人のスピルバーグの自伝的映画を観ていて、ハリウッドという所のコネはユダヤ人が有利と感じていた。オッペンハイマーはアメリカ生まれのユダヤ人である。そこにスペイン戦争の義勇軍とナチに対するアメリカ共産党の問題が生じていて、このあたりの知識が自分にはなく、映画の後半の共産主義者とソ連に原爆機密情報漏れの問題でオッペンハイマーが窮地に陥る。
 この辺りから、自分の叔父の戦後の問題で知ったことが、自分の問題になってくる。朝鮮戦争が一つの分かれ目となる。アメリカでの赤狩りが日本にも及んできて、戦後の民主主義がの自由が消えていった。無茶な労働運動がゼネスト禁止で崩れた。ここが戦後日本の分かれ目の一つだろう。叔父の村も村なのに隣接する千葉県野田市の戦前の労働運動の影響があったがそこも弱体化したようだ。都市と違って、ストを行うと蓄積がないので企業はすぐ破綻する。そうすると労働者は職場を失うことは明らかで、ストを実際に出来るのは大きな企業と公務員しかないことになる。そこに上から目線の労使の戦いの戦後史となる気がする。庶民は貧しいし、日々の生活に追われていて、労働拒否をすれば失業を招くし、次の仕事も少ない。これが消えたのが朝鮮戦争だった。

何日か経っての感想

 30数年のデフレが消えたのも日本の努力ではなく、ウクライナの戦争から始まった物価高で、その上の前例踏襲の日本企業が、世界を見回し、賃金格差が巨大となっていることに気が付く。豊洲のインバウン丼の数千円の値段が当初は外国人観光客だったが今では日本人もいるという。
 数字ではデフレがまだ続いていているがこれは統計の取り上げ方が記者の偏向だろう。日本のジャナリストは自己の意見を変えることが難しい気がする。年金の数万円で心豊かに生活する高齢者がいるし、新宿ではホストに貢ぐ女性もいる。それを取り締まった警察を追求しないジャ-ナリズムがおかしい。まだ売春女性だけ取締り、買った・金銭を支払う約束をした男性が処罰されない。この辺は児童の連れまわしで法の平等となっている。18歳以上で男性が逃れることが続いているのだろうか。

時間が経って、また冥想が出る

 ウクライナの戦争の駆け引きは日本が戦場になる方向に向かっていると思う。念仏を唱えた日蓮が蒙古を撤退させたと信じた戦前の日本と今の与野党政治家の議論は同じ気がする。叔父たちの特攻は今でもカミカゼと欧米の辞書に残る。欧米の辞書の意味の解説にはどのように記述されているのだろうか。
 次のアジアの戦争は日本と中国の戦いで、戦死者は両国で資金は欧米となる方向に向かっている。維新とか敗戦ということでしか旧習から抜け出せない日本の未来が見える。

時間が経って、また冥想が出る

 今の農業は敗戦時の農業と違って、機械操作とエネルギ-が必要で、このあたりの備蓄が少ない気がする。ということは次の日本の戦争が始まり半年経てばあっという間に餓死寸前となる。今の戦争は前線もなけれは後方もない。家族が運というものに分断される。中国の歴史は逃げるということもあるという歴史だ。ところが日本人のパスポ-ト所有率が下がっているという。海外旅行に行かないから持たないという島国日本の貧困民。日々緊張する異国と違って、日本の家の窓には鐵格子が無い。監視カメラの中国ではまだ鉄格子が残っていて、リチウム電池を室内で充電中に火事となり、格子のために家から出られず死去するニュ-スを聞く。
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大腸の定期点検・80まで死ねないので

2024年04月09日 | 宅老のグチ
3年前にイレウス(腸閉塞)でコロナの中で緊急入院となった。後から聞くと当時の治療方針ではまずコロナの治療が先で、それと並行でイレウス治療の様で、初日は隔離室へ入れられ、コロナの感染が陰性と判明後に治療が始まった。この間の個室費用は無料で、後で聞くと部屋代が一泊数万円だった。翌日に陰性と判明し、大部屋へ移動する。そこから点滴治療が始まり、癒着した腸の腫れが落ち着かせる治療が始まった。高圧酸素室というほぼ酸素だけの空気治療があった。そこは火葬場の入り口の様で5回も天国に行く気分だった。酸素が殆どなので金属を身に着けていると爆発する恐れがあっるという。それから3年経ち、10年前の下血から大腸内視鏡検査の時期が来て、申し込んだ。肉の好きな日本人の大腸がんの発生は増えているという。80歳までは最低の健康保持する予定で検査をした。
 結果は10日後だが、ポリ―プが2個あって、すぐ切除。病理検査をしないと判らないが、見た目では悪性ガンと見えないという。これでまた結果の如何にも関わらず、3年後の大腸内視鏡検査を受けることになってしまった。気分は高齢者運転免許更新の時に似ている。ただ違うのは免許の更新は返納すれば終わる。大腸の検査は高齢になるほど進みは遅いというが、それでも大腸の切除手術後の様子から、大変ということが解かっていて、早めの発見を家族から要求されている。

老いの失敗学  -80歳からの人生をそれなりに楽しむ- 著者名 畑村 洋太郎著 2024.1
大腸の内視鏡検査で大変なのが大腸の中に残っている未消化物と便を出してしまうことでもう4回近く検査を行っているが毎回憂鬱である。およそ2リットルの味付き検査飲料を2時間で飲む。すると便が出るのだがキレイになるまで飲み続ける。かなりきれいに腸の中から出た黄色い水が検査の画像を見るとてべ物のカスが残っていることに驚く。この間に老いの失敗学という本を読んでいた。80歳のというタイトルから気になり、図書館から借り出し、検査水の間に読んだ。
 80歳で無いとこの本の心境は出ない。90では無理で遅いと感じる。著者の見解では普遍化できないのでまだ学問化できないが必要性はあるという。ということで、この本を購入して付箋をつけで読み返したい。
 75歳で世間から排除されつつある現状がこの本で理論的に説明できる。しかし回答の共通が無い様で今の所は愚痴になる。統計的に男性は早く亡くなるので気が楽でもある。
 80歳は死に時の年齢でバタバタしても間に合わないのだが、著者によると何か生きる目標があったほうが良いと書いてあるがそれにこだわるとつらい末期となる。免許の返納話が出て来るがそれによって引きこもりと好奇心が消えるという。しかし他人に危害を与え幼児の未来を奪うことも想定しないと、返納しなかった加害者のその後の生活が激変する。終わりよければすべて良し。
 
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花見で歩く土手の春

2024年04月08日 | 宅老のグチ
不動産屋の距離で駅からxx分というのがあって公正規約で1分の歩行速度が80Mとなっている。身に着けているアップルウオッチで時速が出ていて、分速計算すると70M程度まで落ちている。実感として朝の通勤時にヒ-ルのある靴を履いている女性に追い抜かれる。時たま闊歩している女性に追いつこうとすると分速80Mは行く。それでもピッチが速く。汗が出るので散歩で汗をかく必要性が無いと自己規制という怠け心が優位となる。花見の散歩はダラダラ歩きの極致で急いで通過する必要はない。それでも今日は今年の満開花見の最終日で、明日は花散らしの雨となりそう。近所の小学校ではもう散り桜で歩道が覆われてきている。8日の天気予報では雨で散った桜の花絨毯だろう。
 土手歩きの画像を入れいたのだがうまくゆかない。
 753で着たドレスの様で、土手道を数人の少女が着ていた。これなら着る機会も増える。さらに桜を背景として、ランドセルを背負って記念写真を撮っている家族が数組いた。その上に結婚式の演出の人達がカメラマン付きで桜の花を背景として撮影していた。
 あと不足しているのが上空を舞うひばりの声が聞こえない。昔はスズメやヒバリが静かな河原で鳴いていた記憶がある。花見の良い所は屋台の好きな人と宴会をしたい人、ピクニック気分の人などなど選択肢が多いし、さらに近所にも誰もいないとっておきの花見の場所もある。自分の好みは桜の木を目線で眺め、さらに周囲の芝生が花で覆われていて、その上花が桜だけでなく、違う色の花。黄色い菜の花で覆われていて、目線の所に桜。寝転ぶと上空に青空。人気が無くなるとヒバリのさえずり。思わず昼寝をしてみたい。土手の下のグランドで高校生が球技をしている声が聞こえ、遠くのゴルフの打球音が聞こえる。
 4月の花見は工夫のある花見と感じる。3月だと決算月で仕事が忙しい。4月の花見は始まり感が見える。ランドセルを背負って、下から家族写真を撮っている家族がいた。これなら日付を入れないでも成長記録となる。
 花見は無料の行楽ということも出来る。
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平均寿命 犬

2024年04月07日 | 宅老のグチ
家の老柴犬が間も無く16歳になる。柴犬の平均寿命をすでに過ぎていて、体力の衰えを実感する。あれほど散歩が好きだったが今では立つことがやっとという状態。虹の橋を渡るという言葉の意味を調べるとアメリカのペット愛好家の詩から来ているという。生き物は死はつきものでいつかは別れが来る。人は100歳と言われるがペットは早い。前の犬は死の予兆もなく突然死して家から去った。
 ペットの犬はかわいいし、家族の会話の中心となる。前の犬が亡くなったのは17年前の12月だった。それから家の中の会話が減り、家族会議で犬を飼うのはペットロスを考え最後ということで、柴犬を迎い入れたのが半年くらいたっていた。名前を付ける際し、家族の癒しと言うことで、アロマテラピーということから(あろ)と名付けた。ツンデレは柴犬の特徴で、エサ以外は自分(金銭援助者)にはなじまない。旅行等の不在時にもエサ時以外は寄り付かないし、仕事から帰っても、しっぽを振らない。そんな元気な(あろ)が今は鼻に管を入れられ、注射器で食料と水と薬を注入して生きている。転居で近くなった医者にバギ―に乗せられ、ほぼ毎日通う。医者から余命宣告もあったようだ。人の医療行為で胃ろうという延命治療がある。喉に穴をあけ、食が直接に胃に行くようする。そうすれば高齢者の死亡で多い肺炎予防となる。気管支に食が入る可能性を減らすからで、食の楽しみはない。それでも点滴よりはましなのだろう。
 一日でも長生きさせようと交代で見守っている。時々抱っこして外の空気を吸わせている。もう3年ほど前から緑内障で両目が失明しているので、今年の桜も感じないだろう。花見に出ると犬連れの花見は楽しそうだ。連れている人が気分が高揚しているので愛犬にもに日本全国が満開となる。今年の1年生の記念写真は散った桜の前でなく、満開の笑みと桜で写っていると感じる。でも家に戻ると寂しい。遅かれ早かれ生き物は死ぬ。
 それでもウクライナや中東での生きる希望を奪う行為は許せない。もし根絶を狙うと、死に物狂いの敵の核開発の誘発と使用の正当性を付与する気がする。
 アメリカ・ユダヤ系の人達が原爆使用の正当性の映画を観た。当然その理屈でパレスチナの人達の核の使用の正当性を容認するようになる。そこがイマイチのアメリカ感となる。ウクライナ一辺倒とならないのは中国だけでなく他の国も思っていないのだろう。命は継続したいのが遺伝子の宿命。
 
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食料自給率30%台の日本で一次産業の重要性を理解していない知事もいた

2024年04月06日 | 宅老のグチ
江戸時代から日本はコメの国で、経済もコメの相場で動いていた。明治に入ってもコメの重要性が消えることは無かった。だが多くの人が一次産業についていたため、さらに家制度で優秀な人が止む得ず一次産業に従事していた時期もあった。多くの優秀な人が人力で動く一次産業につき、競争が激しく、一番わかりやすい低価格競争となってしまった。これは優秀な人でも日本は小規模農家、漁業者の保護から来ていて、その源流は二宮尊徳と思う。
小学校の先生を目指して、戦前の師範学校に入った叔父は4男と言うことで、農家を継続することが出来ず、小学校の教頭の教えで、農業を小学校で教える道を選んだ。戦前の小学校では、農家の子弟は小学校どまりで、中学・高校に行くには財力が無いと無理だった。自然災害の多い日本は一次産業はギャンブルのような仕事だった。それに明治以降に貿易が拡大することで、生糸の輸出などから次第に国際相場の影響が出るようになった。しかし農家等の子弟は無料の士官学校と師範学校しか学問の選択肢はなかった。
 だが時代が悪く、昭和の不景気の時代では戦争という消費で経済は維持された。当然日本の戦争による経済振興は相手にとって対抗せざるを得なくなる。15年戦争ということで、ほぼ気力が消える寸前まで戦争が継続した。これは日本の政治指導者の精神論で何とかなることから来ている。自然災害は敵は自然で団結しやすい。ここが日本の災害時の対応で、盗難等の事が比較的に少ない。でも今は気風が消えつつある。グロ-バルになってしまった日本は外国人観光客等が日本に1年で3000万に来るようになった。ということは平均滞在日数が10日とすれば3億人となる。話半分として5日でも、日本の人口を超える。人口という言葉は人と口で日本にいれば食事は日本で行う。70%の食が輸入であっても30%は日本の農業。そこを軽視する知事の頭は上から目線の教育しか受けていない。多分単一の仕事しかしていなかったと思われ、教養と地域の基礎が欠けている。日本の30数年の低迷はこの様な指導者がのさばっていることと、自分の安定した職を告発で失いたくない人たちの集合体となってしまった。これは地域の報道機関のやる気喪失もある。県の情報を得るには県の姿勢についてゆくしかない。多くの地方紙が今リストラ中である。
 これから異国人の発想が日本で増える。この辺がぬるま湯の日本人にはつらい気がする。今浅草の所から福神漬の知らべごとをしているが、平日の10時代以後の電車は半分以上外国人観光客で、荷物が巨大で複数持っているので混雑している。中国系の人も居るには居るが皆静か。多くの人が情報を持っているのかス二-カ―で歩いている。日本は歩かないといけない国で都営の駅でも昇りのエスカレ-タ-があっても下り迄整備されてない駅の方が多い。まだまだ車いすで自由に電車に乗れない。
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目黒川の花見

2024年04月05日 | 宅老のグチ
先月目黒川の花見の下見に行った。中目黒2丁目付近を徘徊し、近藤重蔵・富蔵の所有していた土地争いで富蔵による惨殺事件があった。槍が先事件と言われ、東急中目黒駅とJR恵比寿駅の中間の所に槍が先交差点がある。この付近の高台が近藤親子の土地だった。この地を目黒郷土資料館で調べたが私立目黒学園の付近で、結局見つからなかった。

そこで目黒川の花見の下調べで、大江戸線国立競技場駅で降り、神宮前の渋谷区立中央図書館へ向かう。何か地図では東郷神社の付近のようだ。適当に方向を定め、時々スマホで位置確認をして、図書館へ行く。郷土資料室を聞いてみるが、江戸時代の渋谷には大名屋敷の印象がない。
 リファレンスの人に近藤富蔵の槍が先事件のあった場所をきく。中々調べても浮世絵風の絵が出てきて、位置的には渋谷区と目黒区の境目近くで、東急代官山駅付近と思われる。出てきた別所坂児童遊園と言う公園があるようで何か碑があるようだ。
 図書館を出て、東郷神社へ行く。満開の桜。神社の由来を読んでいて、この神社で海軍関係の結婚式があるようだ。出てから原宿の街歩き。子豚のカフェの所で行列。浅草では色々な動物カフェを見ているが子豚は初めて。いつも中高女子生のタムロ場を避けて、大田浮世絵美術館へ行っていたので、初見参だった。神宮前バス停から渋谷駅行きの都バスに乘る。車内はシルバ-女子だ、歩道はヤング女子。
 渋谷駅で大崎駅行きの東急バスに乗り、恵比寿駅で降りて、槍が先交差点へ向かう。そこで方向を定め、富士山が見えるような方向へ向かうが200年も前の風景と異なり、高層マンションで無理と知る。なにか子供公園があるが目的の児童遊園は無いように感じる。そこから中目黒駅に向かうが桜の開花と人混みが見える。
 ここから目黒川沿いに歩くのだがどうも人の流れを見ていると、川を下る方向へは少ないように見える。TVで放送していたが一部の桜がまだ芽の状態で対岸が満開の所があった。なぜか不思議。ビルの日陰かと思って周囲を見回すとビルの日陰でも満開の所がある。飲食店の出店が制限されていて地元のレストランが賑わっている様子が見える。ここは大人の花見だと感じる。ここなら駅も近いし夜遅くまでライトアップした桜が見える。気になるのは一応川となっているが水量が少なく、散った落ちた花が動かない。
もう一度散った桜の目黒川を見てみたい。桜は花吹雪。終わりよければすべて良し。途中の混乱は人生の味付け。すべて体と頭の栄養。終わりが悪ければ前の功績が消える。
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レコ-ド針

2024年04月04日 | 宅老のグチ
 日本流行歌史を読んでいると、唄というものの流行り廃り変化が激しい。読んでいて戦時中の物不足の時代に戦意高揚と言うことでレコードが発売が出来ていた。それでもレコ-ドの針が金属の割り当てがないので竹を削ってレコ-ド針にした記述がある。これでは音質と針の寿命、レコ-ド板の音質も保てない気がする。確か記憶ではレコ-ド機器がハンドルを回していた記憶がある。従って電気が無くても音楽が聞こえる。各地にある郷土資料館では戦前の物が少ないと感じる。
 この様な話は戦後間もなくのことを知っている人だけで、さらにその後のレコ-ドの進歩が激しく、今の骨董品化しているものが再生できるのだろうか。物持ちの良い日本は骨董品の流通の場にもなるが、今は不用品買取で途上国に輸出される。ゴミも分別すれば資源になるが、知識が無いと環境汚染の元にもなる。
 引っ越しで、何枚かのレコ-ドを処分したが、ほぼ手間代にもならず、骨董の期待も外れた。何か古書のような密かな期待も失せる。それでも近所に不用品買取業者が増える。どこで売れるのだか判らない。30年落ち目の日本の蓄積があるのだろうか。

 天気予報で何とか桜の花見ができそうだが目黒川は混んでいても、今日しか行けない気がする。明日から週末で混みそう。雨と込み具合。今年は業者も見物人も迷う陽気。さらに気温の急上昇と言うことで、満開迄の時間が短い。もう花の下の青葉が大きくなっていて、散る前に葉桜となる。屋台の出店も流行があって変化も激しい。昼の屋台巡りは寂しいが昔の屋台風景を思い出す。今はおもちゃ屋が少ないと感じるのは少子のせいなのだろうか。唯一思い出すのが金魚すくいと風船釣り。綿あめ・焼きそば。
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靖国神社で同期の桜を歌う会を眺めていて

2024年04月03日 | 宅老のグチ
チラシをみて、ネット検索を参加前にしなかったので、内容知らずで見学した。先の戦争で評価はそれぞれあると思う。それも時期の経過で変化するのは仕方がない。叔父の事から調べてみても、なぜ特攻死したか判らないし、遺書等の処分があったので未解明。おおよそ未解明の内容が判りつつあるが親族に確認して見ないと空想に終わる。
 兵食の展示が靖国神社遊就館であって、どのような展示があったか知りたかった。先の戦争で亡くなった兵士は展示では245万人という。日本政府の公式数字の様で色々な慰霊館でこの数字が使われている。しかし内容が酷く、普通の日本人なら合計数字の内容より、詳細数字の内容に驚くだろう。戦死と言えば銃弾等で亡くなるか、撃沈された船で死ぬ、戦闘機に撃たれて死ぬとか考えるが数字は病死、餓死等の方が遥に多い。考え方によるが広島・長崎の原爆死の方が戦闘死した兵士より多いように思える。
 知覧の特攻平和会館に祀られている陸軍特攻隊員は1036名であって、もっと多くの飛行機乗りが亡くなっている。戦没兵士に定義があって、その定義に外れた戦死はその他に分類。その理由は恩給問題に繋がる。
 
 戦後に特攻崩れと言う言葉があった。元特攻隊員という膨大な人数が復員した。戦傷病者資料館で数字を見ていたら、食料不足で体力もなく病気で亡くなった人が目立つ。それに薬もなく、医者がいなくて戦地で亡くなる。
 戦後に生き残った元特攻要員は終戦が間際でも、装備・燃料もなく特攻訓練をしていて、本土決戦という無謀な戦闘が行われず、多くの特攻要員が生き残った。この点では硫黄島・沖縄の決戦は無駄な防衛戦で沖縄の人と陸海軍特攻要員の無駄死と感じる。
 
 同期の桜を歌う会で、主催者が挨拶していた人が80歳を超えた人で、感銘は薄い。コスプレ禁止の会だが、大村益次郎銅像の台座の壇上に立つ人はコスプレ感が漂う。今年だけかと思っていてユ-チュ-ブで検索すると同じ人が同じ姿で歌っている。
 同期の桜を歌う会は学徒出陣し、生き残った学徒が亡くなった戦友学徒に靖国で会おうという歌から戦後40年ほど経ってから始まったようだ。今年で40回となる。でも途中の10曲ほどの軍歌は戦争礼賛で同期の人の魂に会いに来た気持ちが出ていない。この曲の成り立ちを知っているのだろうか。
 終わった後に感じたのは戦争では生き残ったほうが勝と思う。何とかして逃げる。多くの庶民は戦争に参加させられて、命と財産を減らす。美辞麗句で英霊となっても、戦後には悲惨な差別が待っている。未亡人・戦災孤児等。英霊の感謝状では腹の足しにはならない。
 軍令部の中で現地調達で食を確保するという命令で多くの人が栄養不足で亡くなった。軍令部の幹部は芸者連れで逃げたという記録もある。
 
 
「二輪の桜」
西条八十詞  雑誌『少女倶楽部』【昭和13年(1938年)2月号】

君と僕とは二輪のさくら 
積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ 
見事散りましょ 皇國(くに)のため

君と僕とは二輪のさくら 
同じ部隊の枝に咲く
もとは兄でも弟(おとと)でもないが 
なぜか氣が合うて忘られぬ

君と僕とは二輪のさくら 
共に皇國(みくに)のために咲く
昼は並んで 夜は抱き合うて 
弾丸(たま)の衾(ふすま)で結ぶ夢

君と僕とは二輪のさくら 
別れ別れに散らうとも
花の都の靖國神社 
春の梢で咲いて会ふ


「戦友の唄(二輪の桜)」 
 作詞:西条八十 作曲:大村能章 歌:樋口静雄 【昭和14年(1939年)7月】
(一)
君と僕とは 二輪の桜
同じ部隊の 枝に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 離れられぬ
(二)
君と僕とは 二輪の桜
積んだ土嚢の 影に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょう 国のため
(三)
君と僕とは 二輪の桜
別れ別れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春のこずえで 咲いて会う

少女倶楽部という、雑誌に最初に掲載され、その歌を聞いた海軍の人が男の唄に変え唄にしたという。
出典 日本流行歌史 中 古茂田信男編 1995
帖佐裕という人がレコ-ドでは作詞者となっているのもある。このことから、今の時代に合わせた替え歌としても、検閲はないので可能性はある。令和の同期の桜の6番の作詞が待たれる。
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旧築地市場の桜の回想

2024年04月02日 | 宅老のグチ
記憶のある限り、旧築地市場には桜の木は無かったように思える。しかし浜離宮の桜は市場内から眺めることが出来る。それも築地川という汐の干満で流れる、半分海水の川。どこからか水が来ている様子がある。多分雨水だろう。
 この前を歩いていたら、旧築地市場の工事用仮設の車道が撤去工事中で、2024年夏には昔の築地川が戻るかもしれない。昔の築地川の記憶は45年しかないが、それでも浜離宮公園に架かる橋から築地川を見ると違法の船舶が停泊していて、銀座の顧客を海に連れ出していた。それでも動かないので船舶の間に魚河岸の発砲トロ箱等のゴミが浮かんでいて、ゴミの中に高価なヨットが泊まっている風景を記憶する。東京都の違法船舶撤去担当の職員との雑談で、停泊認可の経緯が不明で撤去命令に関して、移転もないのに命令とはと事なかれの職員が愚痴をこぼしていた。これも石原知事の暴走で移転が本決まりとなる、再選も視野に入れて都の職員が動いた。減点主義の公務員は築地のようなところでは、何もやりたくない人しか市場行政を希望する人が少ないと感じる。女性の方が市場行政の方が変化があって、書類だけの公務員とは違うと張り切っていて、顔色が違う。しかたなく築地市場に来た人と希望して築地に来た人の差がある。
 間も無く浜離宮の桜が咲くが、花散らしの雨風が築地川を通り越して築地市場に花絨毯の道を作る。これはよほど運が良くないと見えない風景で、風雨の強い花散らしが築地市場に花絨毯を作るのだが営業時間はトラック等で踏みチラシとなって、休市日の朝しか見ることが出来ない。本当にアフファルトの道が散った桜で覆われる。自分でも2から3回ほどの記憶しかない。仮設道路が消えれば築地川が江戸の姿に戻る。今の築地人は誰も記憶が無いと思う。汽水なのでボラ等が目に見える。釣り人も出るだろう。
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30分で源氏物語 国立文文書館で

2024年04月01日 | 宅老のグチ
普通なら漬物の歴史とその関連の事を調べていて、源氏物語は高校の古文の時から無視していて、さらに平安時代と言うことで、時代背景が漬物の普及の時代と違うなと思っていた。
 最初にベッタラ漬で人工甘味料の変遷を知り、次に東京名産のタクワン漬を調べ始めると、一応タクワン和尚の発明となっているが品川東海寺では貯え漬と言っていて、根拠は薄い。また品川区の郷土歴史資料館(2024年4月21日再オ-プン)での学芸員はタクワン和尚命名説ではない。このことからタクワンの命名の出所を探ったが元禄の頃から文献に比喩として出て来る。時代背景からコメが余り気味となった。それは徳川の平和で軍事から土木工事の時代となり、人口が増えない間にコメの収穫が増えたように思える。そしてコメの酒作りの進歩と技術の向上が、精米率を上げた―米ぬかが多く出るようになり、肥料用の米ぬかがタクワン漬用に回ってきたと思われる。北九州のぬかだ焚きという料理の始まりが江戸時代からとなる。同様に北陸石川県でフグの卵巣の糠漬けは、テトロドトキシンという猛毒が含まれているフグの卵巣を3年間塩漬けと糠漬けにして解毒する、石川県の郷土料理。この歴史も200年前位だが文献がない。 最初は肝試しだったのだろうか。
 糠の文献を探っていくと、やはり食するには美味しいという文献が少ないというより全然ない。江戸時代の精米が発達すると、脚気というビタミンB1欠病症で多くの上流の人が悩まされ、治療のために田舎で過ごすと治ると言われていた。玄米で保存し食する時に精米を田舎ではしていて、脚気にはなりにくかったと思われる。明治に入って軍隊で白米を食するようになると、脚気が多発した。その理由は兵士が農家出身が多く、供出したコメを食べていなかったので、白米にあこがれていて、糠を出来るだけ取り除いて食していたと想像する。脚気が日本で消えたのが太平洋戦争の敗戦間際で糠を取り除く労力が消えたため、脚気が消えたという。脚気の原因がビタミンB1欠乏とわかっていても軍隊では脚気があった。
 糠味噌という言葉も江戸時代の食の文献では幕末からという。

 さて源氏物語と糠との関係と言うと、室町時代から始まった香道で臭いをかぐ、鼻の嗅覚がマヒしてしまうため、糠味噌の臭いで嗅覚をリセットするという。本当かどうか確認したいが香道の研究書を読むと源氏物語の基礎知識が必要と感じる。
まだまだ雑知識が必要と感じる。

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