茨城県での単身赴任生活を始めて6年近くになります。しかし鹿島神宮を訪れたことは一度もありませんでした。銚子からの帰り道、初めて鹿島神宮を参拝しました。鹿島神宮は日本最古とされる神宮の一つであります。
無料の第2駐車場に車を停めて参道を鹿島神宮へ向かいます。途中で見かけた、布袋尊と虎?の石像。
鹿島神宮の大鳥居に到着。昔の大鳥居は笠間市稲田産の御影石製で、国産花崗岩の鳥居としては日本一を誇っていました。しかし東日本大震災の余震で倒壊してしまい、その後、境内に自生する杉の巨木を用いた同一サイズの鳥居が平成26年6月1日に再建されました。
鹿島神宮の御由緒です。鹿島神宮は、日本建国・武道の神様である「武甕槌大神」を御祭神とする紀元前660年(皇紀元年)創建の由緒ある神社です。
境内の案内図です。
参道の先に楼門が見えてきました。
まずは手水舎で心身を清めます。新型コロナウイルス対策のため、柄杓は使えませんでした。
日本三大楼門の一つに数えられる楼門は高さ約13m。国重要文化財に指定されています。
寛永11年(1634)、水戸徳川初代藩主の徳川頼房公により奉納されました。頼房公は水戸黄門光圀公の父君にあたるそうです。
左右の随身像です。向かって左側。
向かって右側。いずれも弓を携えています。
門の両脇には、献酒の樽がずらっと並んでいます。
楼門を渡り、振り返ります。左右に木の切り株が掲げられています。
向かって右側をズーム。切り株に描かれているのは稲妻。雷神の象徴でしょうか?切り株の左側にある丸い印は何でしょうか。写真ではわかりにくいですが、拡大すると赤いマーク?が表面についています。
向かって左側です。同じく切り株に稲妻が描かれ、その右側には金色の丸いマークが付けられています。
楼門から先に進みます。
正面には輪くぐりの準備が整っていました。6月30日に、水無月(六月) 大祓茅の輪くぐりが行われます。手順が記載されていたので、説明に従い身を清めました。
水無月(六月)大祓茅の輪くぐりの説明です。罪けがれを祓清める古儀です。
こちらは大助人形です。地元では約50年前まであったという風習。新型コロナウイルス感染症の早期終息を願い、神宮が公の祭事として初めて採用したそうです。
「大助」は、わらを編んだ高さ1メートルほどの武者人形で、腰には篠竹(ささたけ)の刀を帯びます。地域で差異はあるものの、鹿島神宮の「大神」が東北の地を平定した際に加勢した兵の化身と伝えられています。
大助人形(お鹿島さま)の説明です。大助人形を集落の境に立てることにより、疫病や災厄禍の侵入を防ぎ退散させると伝承されています。
鹿嶋市内では昭和40年代まで、「鹿島さま」の悪魔払いとしてこの風習が続いたが、廃れて今は常陸太田市など県北の一部に残るだけのようです。
茅の輪の右前方には拝殿が控えています。
拝殿の奥に本殿。本殿の裏手にはご神木の杉の木。鹿島神宮の森で最も古く、最も大きい木がこのご神木のようです。高さ43メートル、樹齢は約1300年を数えるとか。
拝殿にお参りします。
右側へまわってみます。拝殿と本殿。
拝殿を横から見上げます。
斜め後方の本殿。
霊杉木です。雷による火災と承応3年(1654年)の大風で倒れましたが、株根は今尚生存しているので不思議とされています。
拝殿の前には大豊御竹が奉納されていました。大豊竹は3月9日に行われる祭頭祭の中で五穀豊穣を願うシンボルとなっています。当番になった大字が注連をかけ一年間大切に育ててきた竹です。
拝殿の左側にまわってみます。
本殿をズーム。ここには御祭神の武甕槌大神がお祀りされています。極彩色と朱漆塗りが鮮やかです。
横から見ると豪華絢爛な装飾。まるで日光東照宮のようです。
巴紋が目立ちます。
こちらは拝殿の反対側にある入母屋造の仮殿。同じく国重要文化財に指定されています。元和4年(1618)、社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公が奉納しました。まずこの仮殿に神様をお遷ししてから、旧本殿を奥宮まで曳いていき、その跡地に新しい社殿を造営したそうです。江戸時代は楼門を入った真正面にあり、その後2回の移動で現在の場所となっていました。
仮殿の説明。
質素なつくりですが、カラフルな彫刻が目を引きます。
仮殿の横にある摂社高房社。鹿島神宮のHPによると、武甕槌大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男を抑えるのに大きく貢献した建葉槌神が御祭神です。古くから、まずここをを参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。
拝殿・本殿、仮殿、そして高房社を見学したので、奥宮へ向けて奥参道を歩いてみることにしました(続く)