赤間神宮の隣にふぐ料理の老舗「春帆楼」が建つ。
その敷地内に「日清講和記念館」が建っていて、年中無休、無料で観れる。
明治27年開戦の日清戦争、その講和会議がここ下関で開催され、締結された講和条約は下関条約ともいう。
さしずめ今なら東京だろうが、下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を
誇示できる最適な場所であったからで、日本の軍船が大陸に向かい狭い海峡を通過
する光景は、清国使節団に脅威を与え、その後の交渉は日本のペースで展開した。
緑字はパネルからの引用
会議は春帆楼の2階会議室で行われたが、当時の建物は昭和20年の戦災で焼失。
ガラスケースの中に講和会議場が再現されている。
椅子、ランプ、ストーブ等の調度品は、会議終了後、有志に下賜され、貴重な歴史的遺産として保管されてきた。
毎年調印記念日の4月17日には春帆楼で公開されていたが、その後下関市に寄贈され、講和記念館建設のきっかけになった。
浜離宮より下賜されたという椅子を見て驚いた。
背もたれ、足、蒔絵が施されている。
左は全権大使「伊藤博文」が、その右は外務大臣「陸奥宗光」の席。
伊藤博文の対面には清国の全権大使「李鴻章」が座った。
歴史の一こまが垣間見られて、ちょっとわくわくした。
「李鴻章道」と名づけられた小道が続く。
清国使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合いに停泊したのは、明治28年3月19日。
翌日から会議が始まったが、途中、李鴻章が暴漢に襲われケガをする。
この事件で清国は海外からの同情をかい、日本側は交渉しにくくなり、会議は繰り返されて、ようやく4月17日に講和条約が調印された。
襲撃事件以来、宿舎になっていた「引接寺」から会議場へ向かうには、この小道を歩いたらしい。
さすがにフグの街、いたる所でフグのモニュメントにお目にかかった。
唐戸市場はお休み。
大きなフグがお留守番。