随分、間が空いてしまいました。
佐渡を続けます。
佐渡金銀山へは入坑(見学)せず、関連する産業遺産のみ
ガイドさんの案内で見て回りました。
ガイドさん曰く、佐渡金銀山関係を全部見て回るには、丸2日必要だとか。
と、いう事は、佐渡を全部見るには、最低5日間ぐらいは必要なんだ。
前回は、八幡温泉で一風呂浴びたところで終わっていました。
八幡温泉前からバスに乗り、佐和田でバスを乗り換え、相川に向かいました。
相川は佐渡金銀山で栄えた町。
ここでは、佐渡観光協会が主催する「佐渡エンジョイプラン」の、数あるコースの中で
「佐渡金山と相川の街ふれあい歴史散策」を予約していました。
この日の申込者は、私一人。
ボランティアガイドさんは、岩立さんという男性の方。
実に何でもよくご存知でした。
この方の案内がなければ、へぇ~こんなものか・・・と、ただ見ただけの
佐渡旅になってしまったと思います。
いちおう、予定コースはあるのですが、私の産業遺産を見たいという希望を
優先していただき、その上オマケまでつけていただきました。
まずは、採鉱された鉱石を、選鉱、精錬した遺構がある北沢地区へ。
説明していただいた中で、興味深い(自分にとって)話を・・・。
佐渡金銀山に興味を持たれた方はこちらへ。
1601年、石見や甲斐などから山師(鉱山経営者)を集め、
相川金銀山(佐渡金山)の本格的な開発が始まる。
石見銀山は先輩だったのです。
石見銀山はすでに世界遺産になっていますが、ユネスコから
佐渡金銀山とセットで申請しては・・・?という提案もあったとか。
しかし、石見銀山の方が「うちは先輩、佐渡はうちの真似をしただけ。」とかで
単独申請し、それが認められた・・・ようです。
佐渡金山も世界遺産入りを目指して運動しておられますが、いつ実現するのか?
甲斐から・・・と、いうのは武田家が鉱山開発の先駆者だったから。
山師は、どのようにして鉱石のありかが分かるのか?
回りの植生と違う植物が生えているとかで見当をつけ、
表土をはがし、3~4m掘ってみる。
金山草(かねやまそう)というシダなどは、その一例。
そしてそういう所にはムカデが多いとか。
ムカデの話には驚きました。
ムカデの足は、張り巡らした坑道のようで、鉱山の象徴でもあったらしい。
レンガ造りの建物は変電所跡で、この中には金山関係の懐かしい写真が展示されている。
一人で見たなら、多分、す~っと流し見してしまいそうだが、
ガイドさんの説明で、随分、興味深く眺めた。
斜めにかかるのはインクライン。
京都の蹴上にもある、アレです。
鉱石を船に乗せ、砕石場へと運んだそうです。
この発電所の横に、それは素晴らしい北沢浮遊選鉱場があるのですが、
説明を聞き、メモする事に一生懸命で、写真を撮るのを忘れてしまいました。
ここを参照して下さい。
鋳型工場の跡地。
鉱山で必要な道具類の鋳型をここで作った。
鋳型だけでなく、機械部品類の製作・修理をする工場、火力発電所など、
佐渡金山の生産システムを支えていた施設が残る北沢地区。
実に見ごたえがありました。
が、写真がない。
撮りに行きたいです。
現在、相川郷土博物館になっているが、元は明治22年に建てられた
旧宮内省御料局佐渡支庁。
明治の時代になり、金山は明治政府の管理となったが、
明治22年~29年までは皇室が管理していた。
生野銀山も一時期、皇室の財産だった時がある。
菊の紋章の瓦。
日本各地から働きにきた人達が、出身地を町名にした。
佐渡金山から奉行所までを結んだメインストリートの京町通り。
金山に近い地域には労働者が住まい、中間は商店街、下はお役人が住んだ。
元三菱社長の住まいだったが、今は相川ふれあい集会所になっている。
バッタン床机と呼ばれる折りたたみベンチがある。
毎年6月初めに相川音頭の流し「宵の舞」が、この通りで開催される。
この宵の舞の参考になったのが、越中おわら風の盆だったとか。
はぁ、大好きな相川音頭、ここでバッタン床机に座って見てみたい。
明治29年、皇室管理だった佐渡金銀山は、三菱に払い下げられた。
屋根の軒瓦には三菱のマーク。
少し下って鐘楼。
佐渡奉行所の時報鐘で1713年に近くの浜で焼いて作られたもの。
戦争中の鉄製品供出も免れ、今も京町の住人6人によって
7:00と18:00(冬季17:00)の1日2回鳴らされている。
レンガ塀に囲まれた建物は、佐渡版画村美術館。
元は、明治21年に建てられた旧相川裁判所。
ここでは版画甲子園という高校生が版画を競う催しが、毎年開催されている。
1日目は佐渡を見学して、版画のテーマを決め
後の2日間で版画を仕上げる・・・と、いうもの。
資金不足で開催が危ぶまれているとか。
佐渡といえば遠島の島。
佐渡への島流しは奈良時代から始まっていたようで、ここに興味深い一覧がある。
よく知られているのは順徳天皇、日蓮、世阿弥などだが、
実に多くの人が佐渡へ島流しになっている。
いわゆる流人貴族が佐渡へ入ってきて、彼らの世話をした佐渡人が、
その代償に都の文化など流人から教えてもらう事が多かった。
そして、流人貴族との間に子孫が出来、その結果、高貴な住人が増え、
能などの文化が根付いた・・・らしい。
日本で100ほどある能舞台のうち、佐渡には34箇所もあり、
佐渡の芸能を代表するものになっている。
佐渡の能は、世阿弥が広めた訳ではない。
石見銀山より転勤して来た、佐渡奉行(当時は代官)の大久保長安が
猿楽師を招いた事から始まり、佐渡の高貴な住人に受け入れられ
佐渡全域に広まったという。
家康に認められ、石見銀山から佐渡金山まで任された大久保長安だが、
死後、一族は悲惨な末路をたどる。
今日はこれでおしまい。
はぁ、しんど!