警察官が発砲する度に行われる「適切な判断だった」との会見が、事件の内容よりも発砲した事実の方が大きく取り上げられる。逃走車両を追跡中に事故が起こっても同様だ。多発するいじめ問題がニュースで取り上げられる度に、校長先生は「いじめの存在は無かった」との会見では、学校側の「いじめの把握や対応」が加害者よりも大きく取り上げられる。
何だか本質が違う。肝心なことは弁明ではないのは明確である。これらの対応はすべて「責められる前の予防線」で、映画の冒頭で「一部不適切な表現が含まれていることがあります、製作者の意図を尊重して・・・」と流れるテロップとどこか似ている。
ではそれらの対応はどこへ向けてのことなのか?先日お寺の住職が書かれていたコラムについつい深く頷いてしまった。
「・・・我が国ではいつの頃からか、誰しも被害者ぶるのが大人気になってしまったように思われます。その理由はもちろん、被害者として認められれば、自分を有利な立場に置くことがかなうからです。(中略)『加害者』と決めつけられた相手に罪悪感を植え付けることで、自分に都合のよいように相手を操ろうという思惑が、そこにはないでしょうか。けれども被害者ぶって『自分ってカワイソウ』と思い込む快楽がクセになってしまうと、傷つくことが大好きになってしまいかねません。」と独特の視線で書かれていた。
自分自身も気が付いたら被害者ぶっていた・・・なんてことがないよう、よくよく注意しなければと思う。
指折りあと2本