玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

元には戻らない

2023-02-11 14:36:19 | あれこれ

先週、整形外科で隣に座った婆さん(失礼!高齢の女性)がろっ骨を温めていた。つい「肋骨を折ったんですか?」と聞いてしまった。そこから話が進み、自らの交通事故のことを話した。会話の最後に「元には戻らない、焦らないで納得すること」と云われた。

確かに私は焦っていた。しかし、毎日歩行練習したり、体操したり、膏薬を張っても、たぶん事故前の同じレベルには戻らないのだろう。それを納得することが、…中々できない。

同じように、戻らないズタズタになったこの國がある。進行方向を間違えたのは自民党の政治家と佞臣官僚であろう。

日銀総裁は、ナルシスト黒田の後任に官僚ではない学者が登用されるらしい。財務・日銀官僚ではなかった。

当然アベ・スガの縁故政治の罪は責められるべきだが、現経済の歪みは元に戻らない。これは納得する訳にはいかない。

嘗ての「敗戦」責任は「軍部」に押し付けたが、今度の経済「敗退」の責任は旧態依然の「財界」であろう。無論共同正犯に世襲政治家がゐることは云うまでもない。

近頃、バイクボックスができた!新商売かしら。

 

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ミッドウェー海戦の嘘

2023-02-10 13:49:44 | ぼやき

嘗てこの国はアメリカを奇襲したことがある。しかし、あくまでも「空襲」である。日本軍はハワイに上陸していないから。

本格的な攻撃としては、半年後の1942年6月のミッドウェー海戦であるが、そこで4隻の航空母艦を失った。

海軍は2隻の損失と嘘をついて発表した。しかも陸軍も騙した。

真珠湾奇襲から約半年で海軍は主力艦隊を失い早期講和の道が閉ざされた。敗戦までの3年余、300万余の日本人、2000万余のアジア人の命を奪う戦争を続けた。

(参考:『新聞と戦争』朝日新聞社、半藤一利他『「昭和天皇実録」の謎を解く』文春新書)

「報道1930」で、次の日銀総裁を誰になるのか討論していた。

「アベノミクス」は、誰がどう考えて、誰が作成したのか、庶民は全く知らされていない。安倍さんではなかろう。彼は「道半ば」と強弁するだけで、黒田総裁は「黒田バズーカ」とマスコミに囃されて悦に入っていたが、近頃は暗い顔だ。

二人の自己陶酔者の面目のために、ミッドウェ―海戦で3年延ばしなのに、彼此10年間経済は成長しなかった。失敗したのである。結果は引き戻せない借金国へ成り下がった。その責任者の一人は鬼籍に入り、もう一人は失敗を認めない儘に任期を全うするとか。誰もが不条理を感じる。

日頃から声の大きい議員も静かで、マスコミも殆ど騒がない。不思議な圀だ。

次の総裁を誰にするか?キシダの安倍教への恐怖の度合いがそれで解ろう。

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じみん党の変節

2023-02-09 14:57:14 | 雑感

小泉政権の時、がむしゃらに勝ちに行った「郵政選挙」に「B層という区別」を持ちこんだ広告代理店があったとの噂が流れた。

此処で、自民党は一つ変節したのではないか。

しかし、小泉人気が落ち、次に続いた安部、福田、麻生と王朝のような世襲首相が続いた。

その時に自民党の旧態依然の体質が飽きられ、有権者が離れて行った。

一度ぐらいは政権交代というマスコミ風調で、民主党が台頭し、自民党が野党へ落ちて行った。

約三年間の野党時代に自民党本部で何を反省したのだろうか?結局、「国民はB層である」そして「国民は忘れやすい」という捉え方をさらに強固にした。

2012年に政権を奪還し、与党に戻った安倍自民党は「権力はできるだけ使う」という「剥き出しの権力を見せつける」方向に舵を切る。

この時同時に、選挙で勝つために「宗教でも、カルトでも何でも使う」と考えた者たちがいて、その集団が今の自民党の大派閥となっているのではないか。

これでは自由も民主も怪しい「じみん党」という名の政党の二つ目の変節ではないか。

この党は100人派閥ができると変調する。55年体制以降、田中・竹下派の時に分派・分裂があった。

今、無能で、無策で、むやみに好戦的で、ひたすらアメリカ従属政党の自壊、分裂を期待したい。

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「芥川龍之介の死」(後)

2023-02-08 09:55:51 | 

芥川は作家として完成するために自死をしたのではないか。

芥川は漱石門下として、大正5年に「鼻」「羅生門」を書いて世間に認められた。20代前半で文壇のトップになった、そして30歳の半ばに死ぬ。絶えずトップにいた芥川は「死まで平凡では済まされない」芸術的な自殺、書物的な自殺でなければならないとしたら。

多くの隣人や証人たちの芥川の死の理由を、清張は丹念に拾っている。

この著作は1964年11月から65年の1月までの「週刊文春」の連載なのである。

連載であるから、多角的な考察ができた理由であろう。

ともかく天才作家として、後世からも文句の出ない完成された自死を自ら創ったのではないか。

首吊りは排泄が汚いし、有島武郎のような情死も避けて、一時はプラトニックな関係の心中も画策したが、ついに女に逃げられて、結局、薬による自死を選んだのではないか。

芥川は養父・養母と伯母に育てられた。彼は自分の家庭を中流下層階級と言った。また養父は芥川の死後も戸主であった。

だからか、絶対に、他人に、他者に、文句を言われないように、そして自死が前提にあって「死ぬ為に死ぬ」。

そんな若くして認められた小説家の短い生き方に、大正ロマンの近代的な個人の自覚者が、昭和前期の全体主義の中で自己を封殺されていく戦争の時代を迎える前に、この世から旅立った運の良さをせめてもの一つの得として贈りたい。

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「芥川龍之介の死」(前)

2023-02-07 10:09:53 | 

松本清張の『昭和史発掘⑴』のなかに「芥川龍之介の死」と題する章がある。眠り薬の本として適当に読んでいた。

芥川は昭和2年7月24日、自室で劇薬を多量服用して死去。(行年三十六)自殺の原因は多年肺結核と神経衰弱により、厭世自殺を図ったものとみられる、と。

松本清張は何故芥川の死を書いたのか、それが不可解であった。

清張は「昭和史の一コマとして書くのであって、別に芥川龍之介論でもなければ、作品論でもない」と冒頭で明言した。

とは言うものの、文庫本の120ページを占めるボリュームである。

芥川が死んだ昭和2年は、失業者350万人、若槻内閣の下での片岡蔵相の失言からの金融恐慌は台湾銀行の閉鎖というパニックが起き、若槻首相は内閣を投げ出し、4月に田中義一の政友会内閣が成立した。そして高橋是清蔵相はモラトリアム(支払い猶予令)を実施した。

政治史としては、1924年6月から護憲三派内閣(第一次加藤高明内閣)の成立から1932年5月の犬養毅内閣の崩壊まで七代の政党内閣が続いた。この八年間は「政党政治の時代」でもあった。

芥川の死とは全く関係のない時代の推移だった。

彼の作風からも、時代の生の背景は関係がなかったかも知れないが。

 

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