あれこれ思い込み過ぎて文章が乱れたり、前後バラバラ収拾がつかないとき、考えても考えても思いの丈がまとまらないとき。そんなとき、神様・仏様・喜代子様…。ワラをも掴む思いで、村田喜代子著「名文を書かない文章講座」をひもといてみる。
最初に目にはいるのが「左手で書く」という講座である。
左手だろうと右手だろうと考えるのは頭の中だから……手はそれを文字にする一つの手段なのだからどちらでもいいではないか…と反論したくなる。
そこが素人の浅はかさ…。何とも言えぬ深い蘊蓄が秘められていることを知ることになる。
右利きの中学生に、左手で絵を描かせる。慣れた右手で描く1本の線は飽くまでも1本の線でしかない。ところが、絵を描くのに使ったことのない左手でヨロヨロ描けば、たった1本の線も彼にとっては一つの創造的な絵になる…という。
文章を書くのもこれと同じように、ペンを右手から不慣れな左手に持ち替える、つまり発想の転換をしなさい…という教えになる。
凝り固まった自分の固定概念に頼り切って、手垢の付いた使い古された言葉の羅列では、人の心に届く文章は書けないよ…という警告でもある。
そんなこたー先刻承知……。分かっちゃいるんです。分かっていればそんな悩みなんぞ持たないか…違うんだなー…これが。悩むんだよねー。悩み始めると出口が段々遠くなり、灯りの見えない暗闇でもがく。果てはペンも紙も投げ出し、ふてくされることで、ホンの一筋の灯りを見つけようとする…そんな愚かを何度繰り返してきたことか。
「具体的な技術も含めて、ややこしくなった状況ではシンプルな考えに戻ることが大事」と。誰よりも自分の身体をよく理解し、誰よりも技への自信を持つ、あの世界のイチローが淡々と述べているように…。
ひたすら自分の眼力・感じる力即ち感性・発想の転換・巡らす思考の深さ……これらが欠かせない事に気付く。ややこしくっても、行き詰まっても投げ出したりしちゃーうまくなれない。 佳作止まりで喜んではいられないのだ……。
( 写真: 文章とは全く関係ない、左手で書くカ-君。彼は元々左利き )
最初に目にはいるのが「左手で書く」という講座である。
左手だろうと右手だろうと考えるのは頭の中だから……手はそれを文字にする一つの手段なのだからどちらでもいいではないか…と反論したくなる。
そこが素人の浅はかさ…。何とも言えぬ深い蘊蓄が秘められていることを知ることになる。
右利きの中学生に、左手で絵を描かせる。慣れた右手で描く1本の線は飽くまでも1本の線でしかない。ところが、絵を描くのに使ったことのない左手でヨロヨロ描けば、たった1本の線も彼にとっては一つの創造的な絵になる…という。
文章を書くのもこれと同じように、ペンを右手から不慣れな左手に持ち替える、つまり発想の転換をしなさい…という教えになる。
凝り固まった自分の固定概念に頼り切って、手垢の付いた使い古された言葉の羅列では、人の心に届く文章は書けないよ…という警告でもある。
そんなこたー先刻承知……。分かっちゃいるんです。分かっていればそんな悩みなんぞ持たないか…違うんだなー…これが。悩むんだよねー。悩み始めると出口が段々遠くなり、灯りの見えない暗闇でもがく。果てはペンも紙も投げ出し、ふてくされることで、ホンの一筋の灯りを見つけようとする…そんな愚かを何度繰り返してきたことか。
「具体的な技術も含めて、ややこしくなった状況ではシンプルな考えに戻ることが大事」と。誰よりも自分の身体をよく理解し、誰よりも技への自信を持つ、あの世界のイチローが淡々と述べているように…。
ひたすら自分の眼力・感じる力即ち感性・発想の転換・巡らす思考の深さ……これらが欠かせない事に気付く。ややこしくっても、行き詰まっても投げ出したりしちゃーうまくなれない。 佳作止まりで喜んではいられないのだ……。
( 写真: 文章とは全く関係ない、左手で書くカ-君。彼は元々左利き )