「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「25年という歳月」

2020年01月17日 | つれづれ噺

                                            

思い起こせば、25年前の1月17日午前7時10分。
東京都世田谷区三軒茶屋にある会社の単身赴任社宅で、出勤前の朝食のテーブルに着いたときであった。
テレビ画面に映し出される異様な光景。大きなビルが傾き、あちこちで上がる黒煙。「スワッ、何事??」しばらくは呆然とテレビ画面に食い入るだけ。
やがて少しずつ状況が把握できた。午前5時46分。神戸市や淡路島など関西方面の広範囲を大地震が襲った。後に「阪神淡路大震災」と名づけられた。
夜明け前の静けさの中で発生し、至る所で町全体が壊滅するほどの大地震は、6434人の死者を出した。
兵庫県などのまとめによると、震災の重軽傷者は4万3792人。観測史上初の震度7を記録し、住宅被害は全壊・半壊が計約25万棟、一部損壊が約39万棟に上り、経済被害は約9兆6千億円に達したと発表された。
あれから25年という歳月。自然災害に対する色んな思いが交錯する。
最初に思い出すのは、新幹線や高速道路といった日本列島を縦断する大動脈が破綻した。新幹線はJR東日本・西日本に完全に分断され、直通が消えた。
当時、岩国工場と東京本社をつなぐのは新幹線であった。それが、急遽空路を利用。羽田から広島空港。それから最寄りの在来線駅に出て、広島へ。そこからやっと岩国へたどり着くという、時間も経費も大変な物入りとなった。
工場から本社への出張者を迎えるのに、東京駅ではなく羽田空港となり、休日には何度も羽田空港に足を運び、通路や出口を確認したものである。
あの頃は若かった。自分の周りで震災など起きたとしても「自分だけは助かるように逃げる」などと、安易な、そして危険な避難意識を持っていた。
25年の歳月が流れた自分の歳を考えるとき、その後発生した東日本大震災やゲリラ豪雨による土砂災害ニュースなどをみるとき、避難することの難しさや、勇気を出して逃げることの大切さを、改めて思い知らされている。
25年前、どれだけ多くの人々が悲しんだのか。どれほど多くの思い出や財産を失ったことか。想像するだに空恐ろしくなる。
せめて「自分の命は自分が守る」ことに徹して、被災の悲しみや苦しみから救われる人を、一人でも多くしたい。と思ってはみるのだが。
その場に直面したとき、いったいどれほどの思考を働かせられるのか、疑問である。
それでも災害はやってくる。忘れた頃にやってくる。25年前のあの身体が震えた恐怖を思い起こし、自然災害に備えたいと。思うのだが。 

 

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