「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「支援……」

2008年05月22日 | ニュース・世相
このごろ「○○支援」という言葉がやたら耳に入る。介護従事者支援・犯罪被害者支援・拉致被害家族支援など数多く支援という言葉が使われている。

支援とは、広辞苑には「ささえ助けること・援助すること」とある。

今回の中国四川大地震でもこの「支援」「援助」という言葉が何度も繰り返し出てくる。先ず最初が国際緊急援助隊の救助チームを現地に派遣する準備を整えた。
ところが肝心な中国からの派遣要請が来ない。待機する。地震災害などの緊急人命救助の許容時間は過ぎてしまう。
結果的には国家間の交渉によって派遣はされたものの、人命救出には至らなかった。

次は同じく緊急援助隊の医療チームを派遣した、こちらの方の受け入れは割とスムースだった。ところが、活動の場所という問題で派遣側と受け入れ側で意見の相違があり、現地のホテルで足踏み状態となる始末。
結果的には被災者である受け入れ側の要望に沿った形で、都市中心部にある病院での活動に落ち着いた。

お互いの国家の威信や内政事情などが複雑に絡んで、単純に人命救助や被災者支援さえ他国が手を出しにくい現実があると言うことを、改めて思い知らされた。これほど地球規模で色々なことを推し進めて行かなければならない「国際化社会」においてでさえ、いざ一国の問題となるとこのていたらくである。

そこで今一度「支援」や「援助」ということについて考えてみたくなる。
飽くまでも被災者から要請がなければ、わざわざ危険を冒してまで出かける必要があるのか、曲がりなりにも要請があって、現地に赴いた時点では先方の意向に従うべきではないか、要請された側が作業地点を選択するのは如何なものか。
などという基本的な国際ルール(万国緊急援助法みたいなもの)が必要ではないか…などと考えさせられた。

「支援」とは、ささえ助ける・援助することなのである。
我々としては国際緊急援助隊という大きな看板背負っているわけだが、相手国からみれば「大きな親切、大きなお世話…」などと言われ兼ねない。どうせなら感謝してもらえるような活動にしたい。そのためにも平生のお付き合いを通して毅然たる姿勢を持ち続ける必要があろう。
      (写真:「支援」という言葉が踊る紙面)


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