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「仲裁は時の氏神 Ⅱ」

2020年10月12日 | ニュース・世相

                 

次期衆議院選挙をめぐって、何やら怪しくも不穏の雲行きを感じる山口第三選挙区。
もめる人たちの間に入って、ほんとうの仲裁役を演じるのはパワーが要るし、なかなかにして困難であることを痛感している。
けんかや口論などで争っているときに仲裁に入ってくれる人は、氏神様のようにありがたいものだ。双方ともに、氏神様の登場をチャンスにして何かいい解決策を見つけて、手を引き折り合えばいいのだが。

そこで、「仲裁」という言葉を「挨拶」に変えて、「挨拶は時の氏神」について少し考えてみたい。
「挨拶は時の氏神」は日本に昔から伝わることわざである。と書いてあるが実際に個人的には「仲裁は時の氏神」という方が馴染み深いし、しっくりくるものはある。

いずれにしても意味は、 争っている者同士の間に、ちょうど良い頃合、グッドタイミング で登場するし、時を得た氏神だと思って、謹んでその意思に服従しなければならないという 意味だから、挨拶は仲裁の意味になると言うことのようである。

挨拶の「挨」という漢字には「押す」「背を叩く」「開く」の意味があり、 「拶」には「迫る」「はさみつける」「押し付ける」の意味がある。 「挨」にも「拶」にも「せまる」や「押す」の意味があり、 挨拶の文字本来の意味は「そばに身を摺り寄せて押し合う」ことなのだそうな。
 禅宗では、問答によって相手の(主に門下の弟子達の)仏法修行の 深浅をはかることを「一挨一拶(いちあい・いちさつ)」と呼んでいた。
 時が経つにつれて次第に問答だけではなく、日常生活にも用いられる ようになり、、相手の様子を伺ったり、寒暖の言葉を取り交わすなどの 儀礼的な意味合いが生じてき。 言葉自身も「一挨一拶」から略されて「挨拶」とされ、おじぎや受け答え に対しても用いられるようになったといわれている。(ネット拝借)

つまり元々の挨拶という意味はそういうことなのだ。だから争い、いさかう人たちの間に身をすり寄せて割り込み、お互いの気持ちを慰め円満な解決に導くこと。だから、「挨拶」も「仲裁」も、振り上げた拳の落としどころとわきまえて、互いに矛を収めるべきである。
さて、今後の山口第三選挙区の動向に注目。大人の見識をみせるのか、泥仕合で深みにはまるのか。氏神様の存在ありやなしや。

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