「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「ラッキョウの花」

2008年11月08日 | 趣味・・エッセイ
春には万物すべてが一斉に新芽を吹く。そして色んな花を咲かせて楽しませてくれる。
秋、この時期も春のような華やかさには少し欠けるかも知れないが、身の回りにも数多くの花が咲く。しっかり人目を惹きつけるものもあれば、ひっそりと、人知れずしかも可憐な花を見せるものもある。

そんな一つが、狭い菜園の一隅に植えられたラッキョウである。 少し頼りなくて、思わず手を添えて上げたくなるような薄紫の可憐な花ではある。
そんな花への思いと、収穫を目論む気持ちを250字、はがき随筆にまとめてみた。


 植えたまま3年目を迎えるラッキョウ。今年も薄紫のかれんな花をつけた。
 
 ラッキョウは1年生が最も大きく成長する。
 一粒がほおばるほどのものもあるが、やや大味で値段も手頃。

 2年生は、土の中の生活が倍なので、もっと大きくなると思いきや、やせ細って一年生の半分以下に。
 小ぶりながら実が締まって歯応えがよく値段も上がる。

 初挑戦の3年生は来年6月に掘る。
 どんな太り方、どんな食感、どんな値打ちを見せるのか楽しみだ。

 来年は孫が小学3年生。どんな成長を見せるのか、こちらも興味津々。

   
    2008.11.7(金) 毎日新聞 はがき随筆 掲載

     ( 写真: 薄紫の可憐な ラッキョウの花 )
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「丹精」

2008年11月06日 | 季節の移ろい・出来事
秋深し 隣は何を……と思っていたら、明日はもう暦の上では冬を迎える立冬だそうな。
肌寒さを感じて当たり前な季節である。

暖かな陽差しを拾うように、錦帯橋に連なる吉香公園に足を向けた。
歩いて行けばいいようなものだが、半日はゆうにかかるので、残念ながらクルマに頼らざるを得ない。

ゆっくり散策するには絶好の場所である。紅葉は今一ながら、何とはなしに歴史や武家文化の匂いがして、妙に心安らぐ空気の美味しい空間である。

幸いなことに、菊花展が催されていた。 カメラに収めながらゆっくり見て歩いた。 まさしく「丹誠込めた」という言葉がピッタリの、それはそれは美しい菊の芸術であった。丹念に見なければ、作者や菊に対して申し訳なさを感じたほどである。

丹誠…まごころを込めて何かをすること、とある。
腐葉土作りにはじまり、苗を植え付けるまでの土壌改良。苗を植えたら、肥料・水遣り・日よけ・芽摘み・枝作り……まさしく一年がかりの芸術作品。

他より先に開きたかった花もあったろう、勝手に伸びたい枝もあったろう。しかしそんなスタンドプレーは許されない。飽くまでも作り手の感覚・感性の前には、菊自信の意志など聞いてはもらえない。ある意味、封建的で可哀想な世界でもある。

我々が長年働いてきた管理社会に似ている。異なるのは、菊の場合、そうやって完璧に管理されることによって、結果的に見事に花開き賞賛され、感嘆の言葉を贈られる。 ところが我々はどうだ?管理はされたが、賞賛も感嘆も特には与えられなかった。そこが根本的に違う。 でもまあその時代を通り越したお陰で、速く咲こうと咲くまいと、勝手に枝を伸ばそうとも、自由気ままな今がある。

それにしても、よくできている。やっぱり美しいものは美しいと評価できる素直さを忘れてはいけないなー。

       ( 写真:芸術品が並んだ 菊花展 )
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「いろづく」

2008年11月05日 | 季節の移ろい・出来事
たった一日の中で、今日は一年の四季を味わったほどの思いがする。朝は冬並みの寒さ冷たさ。午前中は春3月下旬の陽気。午後は夏を思わせる暖かさ、そして日暮れが近付くと季節通りの秋となった。 
羽織ったり脱いだりまた着たり…体温調節など体調管理がややこしい。

身のまわりには、色づいたピラカンサスが真っ赤な実を付け、目の前にある冬を手招きしているように見える。

いろづく……なんとなくいい言葉だなーと一人悦に入る。完全に実りきる一歩手前、熟しきる前の未だ頼りなさが少し残っている状態。これがたまらなく興味をそそる。人間で言うと、どのあたりを言うのだろうか。 これに毛がはえて「いろけづく…」となると、とたんに下世話な話になりそうだ。しかしみんなそうやって成長してきたのではある。

いろづいた程度の今の状態では、小鳥も餌として認めないのか、ついばみもしない。
六十路半ばの秋が行きかかってはいるが、出来れば今のピラカンサスのように、いろづいた状態でいられたらいいな…などと欲を起こす。 熟してしまえば後は小鳥に食べられるか、枯れ落ちるだけである。

人生もう少し先があるのだろうから、熟すのはもっともっと先でいい。と言ってもこれ以上熟しようがないのかも知れない、あるのかも知れない。いずれにしても「まあ!いい色だねー…」なんて評価される完熟前でいたい。
そして黄泉路の川の渡し船から此岸をふり返ったとき、熟していたよーという一声が聞かれたら嬉しいだろうな。

ちなみにピラカンサはギリシャ語で「火のトゲ」という意味だそうな。幹が変形したトゲが無数にあることから、スが付いてピラカンサス。たちばなもどき・ときわさんざし などとの総称となっている。花言葉は「慈悲」これも好きな言葉のひとつである。ないものねだりかもね。

      ( 写真:幹や葉っぱを覆い尽くすように赤くいろづいたピラカンサス )
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「神頼み」

2008年11月03日 | つれづれ噺
「山肌を染める紅葉が、日一日とその色濃さを増しております○○年11月3日文化の日、皆様方には……」で始まる結婚披露宴司会のイントロを思い出しながら、山陰の小京都と呼ばれる津和野へドライブした。

目的は、買ったばかりのクルマのお祓いと安全祈願で、津和野にある日本五大稲成の一つに数えられる太鼓谷稲成神社を詣でることである。 我が家から片道120㎞、所要時間およそ2時間30分。特にビュンビュン走るわけでもなく、未だ完全ではない「まだら紅葉」の山々を楽しんだ。 リッター当たり19㎞の計算であった。

元旦の初詣や七五三などのお宮参りは、近くのお宮でお祓いしてもらっているのに、今回はどいうわけか少し遠出をしてでも、津和野お稲成さんで祈願したくなった。それは、我が身と一心同体ともいえるクルマで過ごす時間をより安全に保持出来るようお祈りするために、これほどの努力をしたのですよという事実を神様に理解して欲しい…などという欲深い人間のエゴを丸出ししたのに過ぎない。

何でもいい、クルマと共に安全に過ごせるならどのようなお祈りでもするという、苦しいときの神頼みの典型である。
ただ、神様に頼りっぱなしでは安全なんてあり得ない。ハンドルを握るときは、細心の注意と、あたたかい思いやりと譲り合いという基本の基本をを頭に叩き込んだ上で、神様・仏様のご加護を仰ぎたい。

色々考えた挙げ句、交通安全とは、自分を守り・相手をも守ってあげる。つまり人間本来の優しさと優しさを実行に移す勇気が、安全の神様や仏様を招き寄せることになるのかな。

        ( 写真: 刈り取りの終わった田んぼの向こう、未だ「まだら紅葉」の山肌  )
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「駆け抜けた半年」

2008年11月02日 | 趣味・・エッセイ
親しい先輩ブロガーに何度か勧められるうちに、ついついその気になって、人真似の如き写真エッセイブログを開設したのが4月30日。
おっかなびっくり、失敗も繰り返しながらアッという間に6ヶ月を過ごした。
ふり返ってみれば、まさに脇目もふらず駆け抜けた感じの半年間である。

開設して間もない頃の印象は 「少し早まったかな…」 「大変なことを始めたものだなー…」 という、どちらかと言えば負の印象ばかりであった。その日その日のテーマ探し、内容の組み立てなど、書くからには出来るだけ多くの人に目を通してもらいたい。その上で共感を抱いて欲しい。などなど、あれこれ考えるうちに、パソコンに向かう時間が長くなり「お父さんはパソコンばかりで、家のことを何にもしてくれなくなった……」と手厳しいご批判も身にしみた。

そして何より、ブログ作成に精気を奪われて、それまで等間隔に書いてきた新聞社への投稿さえままならなくなった短い期間も経験した。頭の中がこんがらがって、意見・提言・随筆などを短くまとめるテクニックまで忘れかかっていたのかも知れない。
こんなはずではなかった。この程度をプレッシャーやストレスに感じるほど甘やかされては来なかった、と思い直した。

もちろん、グッドタイミングで、「あまり頑張り過ぎないように…、書けるときに書く…という気楽さが必要…」という的確なアドバイスも頂いた。目が血走るほど必死にキーボードと向き合う姿を見透かされていたのだろうか。

そんなこんな気持ちの揺れ動きを出来るだけ押さえて、初心つまり“自らの日記を公開するという軽い気持ち”を取り戻す努力もした。同時に肩の力を抜いて、そこにもあるここにもある日常の出来事に、わずかの感情を注入することで、限られた人にではあるが目を通してもらえることに喜びを感じている。というのが現在の姿である。

6ヶ月間で160編をアップさせていただいた。辛抱強いエッセイ仲間はじめ、同級生、さらにはわざわざご訪問いただいた見ず知らずの方々からもコメントを頂くに至って、ブログを開設したことは決して間違った選択ではなかった。自分磨きの大切な手段になっていることを痛切に感じ始めているのも事実である。

所詮、浅学非才、何ほどのものが書けるのか自分でも保証は出来ない。が、岩国という地方小都市で、海や山や田んぼ畑に囲まれ、孫の成長を楽しみに日々を送る初老の日記が、目を通して頂く方々の気持ちに、ささやかな安らぎの手助けになるならこの上ない。コメントという形や色々な方法で支えて頂く方々に、心からの感謝の気持ちを込めて、メッセージを送り続けられたら嬉しい。としみじみ思っている。

小生とブログ。ミスマッチではないかな…という疑念を抱いていたら、今を盛りのツワブキの真っ黄色な花に囲まれて、季節外れのアジサイが花開いていた。狂い咲きなのか、単なる季節を間違えたのか…。いずれにしても今の小生の気持ちを代弁する花の様子ではある。

        ( 写真:真っ黄色なツワブキに囲まれて咲く、季節外れのアジサイ )


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「小春日和」

2008年11月01日 | 季節の移ろい・出来事
早くも11月突入。只々時の過ぎゆく早さに驚くばかり。
自分の体内時計で、時が速く過ぎると感じるときは、精神的に安定した状態、つまり気力充溢、無駄に過ごす時間などない。どちらかといえばハイな状態が保たれていることだと思っている。

30代後半から50歳に至る頃までのように、手帳が黒くなるほどの忙しさではないにしても、それ以降も「何をしようか思案に暮れる…」という経験もあまりない。

クルマセールス担当の方が、「乗り心地は如何ですか、快適でしょう、加速もいいでしょう…」と、感想を求める電話を入れてこられた。残念ながら答えようがない。今日は朝から、新車に乗ってみるヒマはなかった。

今日のような絶好のお出かけ向きの“小春日和”。どこかにのんびりクルマ試乗にでも出かけりゃーいいものを…。
孫一人預けられて、朝から梅の木の剪定に走った。
国道2号線から、187号線に入って、錦帯橋からおよそ35㎞。カミサンの里のわずか6本しかない小さな小さな梅林。

6月の梅もぎ以来放っておいたツケで、やたら不要な枝が伸び、剪定が大変。
忙しさにかまけて、手を入れるべき時に手を入れない、いわゆる手抜きをするとこの始末。

今日のような深まる秋に、春を思わせるような陽気を 小春 という。
間違っても、小春日和は、春が待たれる3月頃に使う言葉ではないことを肝に銘じよう。それでなくても日本語はややこしいから。

4時間あまり、枝をかき分け・背伸びしたり這いずり回ってきれいに仕上げた梅林のすぐそばに、逞しい茎に妖艶なとさか状の花を付けた燃えるように赤い、鶏頭の花が稟と咲いていた。

小さい花をいっぱい集めて、一片の絨毯のように見せかける鶏頭の花。燃える赤・凛とした立ち姿、生き方としては何かしら参考になるものを感じる。
それにしても、今日も忙しい一日であった。

         ( 写真:妖艶に赤く燃える 鶏頭の花 )
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