ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

今日、中越地震から20年

2024-10-23 15:08:44 | 生き方

今日は10月23日。

中越地震から20年もたつのだ。

時の流れが信じられないほどだ。

地元紙新潟日報は、別刷で特集版を出していた。

また、紙上広告では、1ページ使って次のようなものが出ていた。

 

ここのブログでも、この日のことは何度か書いてきたことがあったが、20年か、早いなあと思う。

中越地震でいつも思い出すのは、この地震の時は、まだ母が生きていたな、ということ。

この2日前に、母は最後の誕生日を迎えていた。

この地震が起こった頃、私は母や娘と、サッカーJリーグ中継を見ていたのがちょうど終わるところだった、という記憶が強く残っている。

当地では大きく揺れはしたが、それに驚きはしても、幸い被害はほとんどなかった。

その半年後、母はこの世を去った。

母の場合は癌で余命半年の宣告を受けていたのに、それ以上に生きることができた。

だから、日々、悲しみの準備はできていた。

でも、地震のような突発的な災害で家族の命を奪われた人たちの悲しみはいかばかりかと思ってしまう。

中越地震については、最大震度7を記録。死者68名。負傷者4795名。全壊3175棟。半壊・一部損壊約11万棟以上などの被害記録が残っている。

新幹線が脱線し動けなくなったり、その作業中に大きな余震が来たりしたのは、私たちの記憶に残っている。

 

当時専門学校生だった娘は、長岡の寮に入っていたが、地震のあったその日は、たまたま帰省していたから、被害にあわずに済んだ。

だが、約1週間後に長岡に送っていくと、つぶれた家や、

ぺしゃんこになった古い工場のような建物、

七目に倒れかけた電信柱や地中から地上にせり上がって柱のように出ていたマンホールなどを見て揺れの激しさが分かり、驚いたものだった。

娘の入っていた寮の部屋では、様々なものが落っこちて悲惨な状況になっていた。

あれから、7年後には東日本大震災が起きた。

そこから13年たって、今年は能登半島地震が起きた。

遠く離れた新潟市西区周辺でも、家の倒壊や道路などの大きな被害が出た。

 

地震や自然災害は、いつ、どんなことが起こるか分からない。

だから、しっかり備えておかなくてはいけないという戒めを与えてくれている。

それと同時に、年齢が上がってきたら、いつ死んでもいいようにしておかなくては、ということも考えるようになってきた。

終活、身を入れなくては…。

まだ早いと思っていてはいけない、と思いを新たにしている今日であった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬老の日

2024-09-16 19:53:56 | 生き方

今日9月16日は、敬老の日。

先日の「チコちゃんに叱られる」で、敬老の日は、兵庫県の「としよりの日」から来たのだということを知った。

特に故事とは関係なかった、と知った。

別に、それが理由で敬老の日を意識したわけではないが、今年は初めて自分に関係のある日なのだと意識した気がする。

 

総務省が公表した人口推計によると、65歳以上の高齢者は全国で3625万人と過去最多だという。

前年比で2万人の増。

総人口に占める割合も過去最高の29・3%なのだそうだ。

 

新潟県では、前年に比べて3000人減の71万2千人だったそうだが、県人口に占める高齢化率は33・9%で、前年比0・3ポイント増であり、42年連続で過去最高を更新中だという。

市町村別の高齢化率は、最高が阿賀町の52・3%。

かつて勤めた時から10年以上がたち、あの頃よりさらに少子高齢化が進んだ。

だから、10数年前に私が勤めた職場は、もうすでになくなってしまった。

高齢化率が最も低かったのは聖籠町の27・4%で、新潟市は30・9%だったというが、その数字だって「うわっ、低い」と思えるほどの数字ではない。

 

さて、高齢化率が33・9%ということは、県内の3人に1人は高齢者だということだ。

かくいう自分も、そのone of them なのである。

 

自分が高齢者の仲間入りをしたのは一昨年だったが、特別な感慨はなかったといってよい。

まあ、年金がおりるようになって、もらえる年齢になったのかとは思ったが。

不思議なもので、去年もおととしも「敬老の日」だからといって、自分がその対象として関係しているとは思わなかった。

年齢は高齢者になっていても、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んでくれる孫がいるわけでもない。

自分たちがジジババになっているという自覚はなかったのである。

だが、今年は、自分のことと感じる割合が高くなった。

 

それはやはり、自分の体力や体調が少しずつ落ちてきているせいだろう。

走ることは好きだったのに、少し速く走った翌日などにはクラクラしそうになったり疲労感を感じたりするようになってしまったから、無理をしないジョギング走りになってしまった。

今年の春には、COVID-19感染症陽性となり、苦しい時を過ごした。

その前後から、内臓がどうも今までとは少し違うような感じになっている。

自分の周囲にいる同年齢や少し下の人でも、体力の衰えや体の不調を言う人が増え、それを他人事とは思えなくなった。

そのうえ、自分の親世代の人々が本当に少なくなってきた、ということがある。

少し前までたくさんいたその世代の人たちがいなくなり、次にいなくなるのは自分たちの世代なのだ、ということをひしひしと感じるようになってきた。

それを実感させるのが、自分が影響を受けた、同じ世代や少し上の世代の有名人たちが、何人もこの世を去っていったということ。

そんなようなことが、自分を高齢者だと実感させることにつながっている。

 

奇しくも先週末、ほぼ同年齢で40代ではすごく世話になった人が亡くなったという報せが届いた。

突然の訃報にはただただ驚いた。

10年ほど前には前立腺がんなどを乗り越えた人だったが、先週具合が悪いからと入院の措置がとられた翌日、急逝したのだという。

まだ70歳にもなっていないのに、急逝だって…?

同世代の訃報を聞き、自分たちの世代でもいつ人生の終わりを迎えるか分からない。

そんなことを急に身近に感じたのである。

 

今日は敬老の日なんだって…と、簡単に流せなくなった今年の敬老の日………。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7回忌を迎え、埼玉は今

2024-08-30 18:02:24 | 生き方

早いものだ。

もうあれから6年。

義兄の7回忌に当たる日を迎えた。

 

埼玉の義兄が亡くなってから、その家や畑を継がざるを得なかった妹。

それが新潟に住むわが妻。

ということで、毎月家や畑の管理をしに私も一緒に埼玉に行って。除草等を行って来るのが、この6年間の生活になっていた。

今やそれが生活のリズムを生んでいたようにも思う。

毎月行かなければ、畑の雑草はものすごいことになる。

以前の写真である。

特に、梅雨の時期から夏にかけては、手を抜けなかった。

だから、毎年こんなふうに伸びた草と格闘してきたのだった。

 

ところで、例年8月はこのように草ぼうぼうの畑だったのだが、今月はこんな状態である(↓)。

本物の畑(?)のようになっているのだ。

草もない。

つまり、本物の畑に戻ったのである。

私たちは、埼玉には行っていない。

どうしたのかというと、畑で農業をやりたいから借りたい、という貴重な人が現れたのだ。

住む家も必要だから、家も貸してほしいということ。

正直、願ったりかなったりということなので、こちらの希望やあちらの願いなどを話し合って、ただ同然で家と畑を貸すことにした。

今まで農業をやってきた方ではないけれども、これから本格的に取り組んでみたいということだった。

でも、本気で取り組む意欲が見えたし、人柄も誠実さを感じたので、信じられる方だと思った。

その方が、あの荒れ地だった土地を耕して、畑にしたのだった。

彼の農業の取組が成功することを祈っている。

 

埼玉の亡くなった義父母や義兄たちも、きっと借り手が見付かったことを、喜んでくれていることだろう。

それとも、娘が新潟から来なくなってさびしがっているだろうか。

 

そんなわけで、埼玉には全く行かないわけではないが、行く機会は減ることになった。

いざはるばる行かなくてもいいということになると、楽にはなったのだが、なんだかちとさびしさも感じる。

新潟とは違う自然環境なので、見られる植物にも珍しさがあった。

わがもの顔に生えてくる雑草にも違いがあった。

猛暑日になると必ず名前の出てくる埼玉県北部。

そこでの真夏の除草は非常に厳しかったが、珍しい植物たちや元気にはびこる植物たちを見ることが楽しくもあったのである。

さびしいなんて、ちょっとした埼玉生活ロスかもしれないな。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年寄り3人、ファミレス飲み会

2024-08-29 19:27:04 | 生き方

昨日、私と同年代のかつての仕事仲間3人で久々に飲み会をした。

ずっと自粛していたものだから、3人で飲み会をするのも久しぶりだった。

前にもこの3人で集まって楽しんだことがあったのだが、感染症の時代を迎え、しばらく飲み会は慎んでいた。

まだ油断はできないが、とりあえず今なら多分大丈夫だろうということで、昨夕集まったのだった。

 

さて、その飲みの場所だが、ある意味珍しいところでやってみた。

割烹でもないし、居酒屋でもないし、小料理屋でもない。

まあ、普通ならこんな高齢者が飲み会なんてしないところだ。

その場所は、………なんと、ファミレス。

「Sグループ」の「G」と言えば、あの全国チェーンのどこに行ってもあるような(?)ファミレスである。

平日の夕方5時から始めたせいか、案外客は少なかった。

 

ここを選んだIさんは、

・時間限定サービスをしている

・新聞に入っていたチラシを見て料理番号で注文すると安くなる

・高齢者割引がある

…などの情報を見て、一度試してみたかったのだという。

 

私ともう一人のSさんは、こわごわとテーブルに置いてある注文用のタブレットを操作しながら、生ビール等を注文した。

夕方6時までなら、ビールの中ジョッキが安く飲めるということで、1時間で3~4回ジョッキを空けて、飲んでしまった。

飲み屋であれば、ビールはここまで安い金額で飲めないはずだ。

種類はそんなに多くはないが、フライドポテトや唐揚げチキン、サラダなどがあるから、そこそこつまみとなる食べ物はある。

Iさん、いいよ、ここ。グッジョブです。

 

驚いたのは、チラシを見ながら注文した料理が、店員ではなくワゴン型のロボットによって運ばれてきたことだった。

初めてこんなのを見た。

ちゃんと迷わずにテーブルまで運んできて、料理を取ってもらうと、また賢く戻って行く。

一連のその動きを見て、この爺さんたち3人は、びっくらこいたのであった。

こういうのが、都会では普通にやっているというのは知っていたが、まさか自分の住んでいる田舎都市(?)でも使われているとは、驚きであった。

 

6時を過ぎてからは、ビールが平常の値段になるので、白ワインなんぞをボトルで頼んで飲んだ。

3人が好きな日本酒はおいてなかったので残念だったが、ワインで十分会話を楽しめた。

 

3人とも体のどこかが不調で、さすがに堂々と高齢者の仲間なのだなと笑い合った。

2時間余りがたったが、結構いい気分になってしまった。

(そのいい気分は、今朝は二日酔いを感じるほどになってしまったのだが。)

最後に会計となったが、3人で1人3,000円もかからず、まさにお得感たっぷりであった。

 

またすぐにここで飲み会をやろうとは思わないが、Iさんの冒険心(?)から楽しいひとときを過ごせたのであった。

店員たちは、おかしな年寄り客たちだと思ったかもしれないな(苦笑)。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高齢化の進む住宅街

2024-08-27 17:55:26 | 生き方
数年前まで、町内会のわが家の組は、9軒で成り立っていた。
回覧板を回すにも、どんなに長くてもおよそ5日間もあれば、回り切っていた。
手ごろで(?)ちょうどいい規模だなあと思っていた。
ここはもともと農地、つまり田んぼだった。
それが埋め立てられて、住宅地になった。
それでも、わが家のある場所は、造成されたのは他よりも遅かった。
袋小路を挟んで、向かい合って3軒ずつの住宅。
そして、わが家のある片側では、かつてのあぜ道を挟んでやはり3軒が建っている。
それで9軒が建っている。
町内会の組長の仕事も、9年に1度やればいい、という周り順だった。
そうやって、30年余り仲良くやってきた。

ところが、近年、事情が変わった。
・高齢化に伴い、Aさん宅ではご主人が亡くなり、その奥様が独り暮らしを続けていたが、老齢化して娘の住む県外の老人施設へと移っていった。
・Bさん宅のご夫婦は、町内会でも重職にあった方だったが、実家が空いてしまったとの理由で、ここの家を売り、引っ越していってしまった。
・Cさん宅のご主人は、80代後半になっても元気にしていて、側溝掃除では重い側溝のふたを自力で持ち上げたり、冬の降雪時には朝早くから雪かきをしたりしていた方だったが、2年前に亡くなられた。
その奥様も、その1年後、後を追うように逝ってしまった。
・Dさん宅は、高齢夫婦となって回覧板を回すもの大儀だからという理由で、町内会費は払うが回覧板はいらない、と言うようになり、付き合いが減った。
現在、町内のこの組は、半減に近い5軒となり、それでやりくりするようになっている。
回覧板が回ってくるのも早くなって、2日もあれば十分だ。
組長の仕事が回るのも、数年ですぐに来る。
先日の町内祭りの巡行で町内を歩いて回ってみると、かつては住宅が建っていた土地なのに、今や雑草が生い茂ったり、「売地」の看板が立っていたりしているのが目立った。
みんな、若いときには、家を建てるということを夢に見て働き、住宅ローンを払って、がんばって建てた家だっただろうになあ…と思う。
そして、子どもたちを育て、その子どもたちが巣立っていき、戻って来ない…。
みんなどこの家もそんな事情なのだろうなあ…。
きっと、こんな地域は今の日本ならきっと各地に見られていることだろう。

この住宅街、そしてわが家も例外ではないなあ…。
そう考えると、この家にたまった過去の遺物や不要なものを、体が動くうちに片付けないと、と思う。
「終活」にもっと身を入れなくてはいけないな、と考えるこの頃でもある。
なんかせつないなあ…。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無常。 人も建物も…

2024-08-14 18:00:50 | 生き方

盆の時期を迎え、墓参り。

1年過ぎるのが早い。

以前は、墓の前で手を合わせ、亡くなった親族への思いを寄せていたものだった。

しかし、それだけでなく、近ごろは自分らも遠からずここに近づくのかな、という気持ちになってしまう。

その前に立ち寄った菩提寺の13回忌の貼り紙を見ると、かつて世話になった、地域の名士の方の名前があった。

17回忌には、私より若いのに亡くなった親戚の名前もあった。

たしか、このブログを初めてそんなに経たない頃に、その死に驚いたことがあった。

 

50歳。早すぎる知り合いの逝去に思う - ON  MY  WAY

私は、50代を生きているが、私より3歳ほど若い知り合い(男性)が、突然倒れ、その1週間後亡くなった。今日は、その告別式があった。遠い親戚として知っているだけなので、...

goo blog

 

あれから、16年もたつのか…。

私の生まれ故郷の彼らが亡くなってから、そんなに経ってしまったのか…。

人の命の炎はやがて燃え尽きる。

そう分かっていても、なんだか虚しさがこみ上げてくる。

 

そんな思いでいたら、すでに廃校となっていたわが母校の小学校も、まもなく解体されるのだという。

立ち寄ってみたら、解体工事の看板が設置されていた。

校舎はカビや汚れでうすぎたなくなっていた。

 

思えば、この建物は、私が小学校5年生のときだから、1968年に新築されたものだった。

それから今では、半世紀以上が経ってしまった。

すでに、少子化等の事情から、2002年に閉校となってしまった。

それ以来建物はずっと残されていたのだが、いよいよ解体の運びとなってしまった。

この校舎の向かって手前右側には、体育館と呼ぶには狭すぎる運動場があった。

手前の校庭スペースには、最下位を走るばかりのつらい運動会の記憶が残っている。

また、自分がいじめにあっていた、ひどくいやな記憶が残る小学校の建物だとはいえ、そこに私の小学校時代はあった。

いやな記憶ばかりでも、ここで少年時代を過ごしたから、今の私がある。

 

建物がなくなってしまうのは、やはりさびしい。

存在がなくなってしまうのは、人も建物も同じなのだな…。

永遠に不変なんてものは、ない。

 

「無常」。

そんな言葉を思い出していた、今年の盆である…。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古い母の日のカード

2024-08-06 22:13:16 | 生き方

妻と娘が中心になって、家の中の整理・片付けをやっている。

娘は、20年以上前の専門学校生だったときのものから、高校・中学校時代のものまで、いろいろと捨てまくっている。

妻は、大学から帰って以降10数年たってしまった息子のものを、残すか捨てるか、徹底的に整理分類している。

私も、自分のものを少しずつ。

そんなことをしていると、時々家族にとって懐かしいものが出てくる。

子どもたちが小学生で、まだ母が元気だったころ、家族で北海道に行ったことを夏休みの自由研究にしてまとめた、息子の旅行記なんかもあった。

長年の積み重ねで写真がくっついてしまって、よく見られなかったのがあったのは残念だった。

 

それにしても、息子のものは、何でも取ってあるからいろいろなものが出てきてあきれてしまう。

そういう姿を見ていると、自分も捨てるのが下手で、片付けができない人間だったなあ、と思い出してしまう。

いや、思い出すどころか、今でも片付けは苦手なのだが。

それでも、「終活」を考えて、少しは片付けられるようになってきたが、まだまだ物があふれている。

 

さて、そんな作業をしながら妻が見つけてきたのが、この古いカード。

母の日用のカード。

中を開けてみた。

 

おふくろさん:

いつも心配ばかりかけています

全くいつまでも成長しない息子です

もう東京 3年目。

京都から 4年目。

成長しない息子も体だけはおおきくなりすぎ

心と体が一致しません。

それでも少しは大人びてきている…(と思う)

だけど 

  まだまだ

    頼りにしてます お母さん!!

 

体をこわさないよう、

   ますます元気で毎日を!!

 

        21歳になっても

         相変わらずのバカ息子より

 

青いインクで行は右下がり。

内容のつまらんこと。

いやあ、21歳の大学生なのに、この程度しか書けないとは、ホント、バカ息子だわ。

 

名誉のために言うと、これを書いたのは、ウチの息子ではない。

これを書いたのは、…実は、46年前のワタシなのだ。

いやあ~、その稚拙さに恥ずかしくなった。

こんなカードを書いて母に贈ったことは、さすがに全く覚えていない。

文章から、成人しても、親にまだまだ甘えっぱなしの人間だったのがよく分かる。

でも、この程度の21歳だったのだよな、私。

 

片付けをしながら、いろいろなものが見付かる。

そのたびに、いろいろ思い出したり思ったり。

自分の人生に関わった人や物、いろいろあったなあと感慨にふけっている。

時は、このカードのように恥ずかしい思いをしながら…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨明けて、布団干しやら草取りやら

2024-08-02 22:46:38 | 生き方

梅雨が明けて、青空が広がった。

 

今日は、天気でないとできないことを2つした。

まず、1つめ。久々に布団干しをした。

なにしろ梅雨でその間布団は干すことができず、だいぶぺちゃんこになってしまった。

ベランダで、陽が当たる前から干して、夏の陽射しは強いから、午後はいつもより早めに取り込んだ。

それでも、ふとんはふわふわになっていた。

また、今日はまだ猛暑日になるほどではなかったが、気温が高いから布団にこもった熱はなかなか冷めなかった。

でも、今夜は、気持ちよく寝れそうだ。

 

そして、2つめ。除草作業。

埼玉の除草は、広い畑を刈払い機を使ってやるが、新潟の自宅の場合、その機械を用いるほどではない。

隣家との境界は、昔の農道。

その共有スペース(?)に生えた草は、数年前まで互いに善意で取ってきた。

この境界スペースは2軒の隣家が関係するのだが、1軒目の隣家は数年前に老夫婦が亡くなり、空家になってしまった。

もう1軒の隣家も、夫婦とも高齢化してしまい、住んではいるものの、庭も荒れ放題になってしまっているくらいだから、ここを除草する余裕はなくなってしまった。

だから、わが家ががんばらないと。

…という訳で、午前中、除草作業をがんばった。

 

作業前は、こんな現状だった。

それを、丸鎌を使って、ゴシゴシとやって草を刈っていった。

それが終わると、今度は竹熊手や竹ぼうきで、刈った草を集めた。

 

梅雨で伸びた草をやっつけ(?)た。

よし、きれいになったぞ。

…と自己満足したのであった。

ふう。この疲れは、干したふわふわの布団で寝て、とることにしよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラウン管テレビの処分方法を学習する

2024-07-23 22:39:00 | 生き方

ずいぶん前になるが、アナログ放送が終わったのって夏だったよな、と思って、当ブログを調べてみたら、あった、あった。

 

アナログ放送の終了に思う テレビの思い出1 - ON  MY  WAY

昨日の日曜日、ちょっと懐古的な気持ちに陥った。正午を目前にしていた時である。そう言えば、大半の方は、何のことか察しがつくと思う。テレビのアナログ放送の終了である...

goo blog

 
 

アナログ放送の終了に思う テレビの思い出2 - ON  MY  WAY

白黒テレビを購入したのは、父だけではない。その10数年後、私も買ったのだ。大学入学時のことである。カラーテレビの時代になってはいたが、2万3千円くらい出して買った...

goo blog

 

そうか、2011年7月だったのか。

あれからもう13年にもなるのだなあ。

 

何を言いたいかというと、それ以降うちには映らなくなったブラウン管テレビが2つも残っていたということ。

さて、処分を怠っていたのは、その10年前から施行された家電リサイクル法の壁があったから。

家電リサイクル法に規定されている家電は、エアコン、テレビ、冷蔵庫・冷凍庫、洗濯機・衣類乾燥機の粗く言って4種類。

ただその処分の仕方がややこしくて、手続きが面倒だったからだ。

だが、「終活」を考えた場合、家にいらないものを取っておく必要はない。

むしろ、いる物でも重要度が低い物はどんどん捨てていくべきだろう。

この際、処分するために正しい知識を得ておこうと思った。

 

え?処分するなら、新しいのを買ったときに、その店に処分を頼めって?

ごもっとも。

でも、わが家では、古いものでも大事に使おう、なるべく長く使おうということでやってきた。

だから、そう簡単に新しいものに買い替えようという気にはならないのだ。

テレビだって、ブラウン管テレビの次には薄型の液晶テレビを買ったけれど、今でもそれを見ている。

NHKが以前、「付いてる?4K。押してる?4K」なんぞと言って、盛んに4Kテレビの宣伝をしていたけれど、おあいにくさま。

うちのリモコンには4Kボタンなんか付いていないのだ。

その代わりに、今では死物となった「アナログボタン」が付いてる。

間違ってそこを押すと、横線ザーザーしか映らないのだ。

まあ、そんな訳で、代わりに4Kテレビを購入しようなんて気にもならず、無用の長物となっているブラウン管テレビは、自分で処理しなくてはいけないというわけだ。

 

ところで、この辺の地域を担当する回収指定業者は、収集運搬をしていないのだという。

自分で持ち込まなくてはいけないのだ。

ただ持って行くだけでは引き取ってもらえない。

では、どうするか、ということでお勉強。

「家電リサイクル券センター」というところのHPをのぞいて調べてみた。

家電を処分する際は、「家電リサイクル券」を用いてリサイクル料金を支払います。家電リサイクル券は「料金販売店回収方式」と「料金郵便局振込方式」の主に2つの方式があります。

今回は、業者から、後者の「料金郵便局振込方式」を指示された。

事前に郵便局でリサイクル料金を払い込む必要があります。

この家電リサイクル券を誤って記入したり、リサイクル料金を間違えてしまうと引き取ってもらえない場合があります。また、購入した家電リサイクル券の貼り付け位置や記入漏れなどにも注意が必要です。

ふむふむ。

 

さらに調べていくと、同じテレビでも、メーカーによって、そして大きさによって、料金が違うのだ。

わが家にあるのは、メーカー名と型式を調べると、パナソニックの大型テレビだと分かった。

もう一つは、サンヨーだったが、今はパナソニック(三洋)の小型だと分かった。

これについては、型式を調べると、「白黒テレビ」の表示まであった。

1975年に買ったものなのに、よく型式で分かるものだと感心した。

 

 

そんなふうに調べてみたら、大型の方は2,420円、小型の方は1,320円の料金がかかると分かった。

それで、郵便局で家電リサイクル券なるもので、所定の金額を振り込み、廃棄するテレビの右横にシールを貼って、回収専門の指定業者に持ち込んでいけばいいらしい。

よし。勉強になったぞ。

明日か明後日、学んだことを実行に移すことにしよう。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Cさんからの電話

2024-07-05 21:50:09 | 生き方

郵便事情もかなり悪化して、集配を急がなくなったものだから、届くのに時間がかかるようになった。

ポストに投函すれば、県内の近いところなら早ければその日のうちとか翌日とかに届いていた距離なのに、今年はそれでは届かない。

少なくとも2日かかるようになってしまった。

 

何を気にしているかというと、火曜日に投函した同級会の案内ハガキだ。

ちゃんと届いたかな、と心配していた。

高齢者の仲間入りをした年齢だから、仕事をやめて取り巻く事情が変わった人もいたはずだ。

中には転居した人がいるかもしれない。

そうすると、せっかくの案内が届かないというケースも出てきてしまう。

そうなってほしくないなあ、と願っているのだ。

 

昨日、夜になってうれしい電話があった。

同級会の案内を送ったら、Cさんから案内が届いた、と連絡があったのだ。

Cさんと話すのは久々だった。

 

同級会の開催は8年ぶりだが、8年前のそのときは、Cさんは交通事故にあって大けがをした直後だった。

だから、参加不参加の返信ハガキも返って来なかった。

大ケガゆえ、とにかく少しでもよい状態になるようにと祈っていたのだが、ずっと心配していた。

ただ、今年、高校時代の同窓生(同い年だが別な組だった)と会ったとき、Cさんの話が出た。

Cさんは、体は元通りには戻らなかったが、今はあちこち一人で出歩けるようになっているということを教えてくれた。

よかったなあと思っていた。

 

そのCさんから真っ先に電話連絡があった。

「いやあ、うれしいなあ。ありがとう。」

と声が弾んだ。

Cさんの話す口調も元気そのものだった。

「実はね、この前、長岡のGさんやNさんと会って飲んだんだよ。その時、今年はオリンピックの年だけど、同級会やるかなあ、どうかなあという話もしたんだよ。」

心配させて申し訳ない。

「新潟市でやるのもいいし、盆や正月でないのもいい。」

そのように、今回の計画に賛成してくれた。

そのほか短い時間でいろいろ話をした。

「じゃあ、近々返事を出すから、よろしく。」

ということで、電話を切った。

 

同級会の参加者を1名ゲットした気分になれた。

なにより、久々にCさんと話せてうれしかった。

高校時代、Cさんはクラスの雰囲気を盛り上げてくれるような存在だった。

その明るさに助けられたよなあ、と今でも思っている。

今回も、会場を予約したり案内状を作って往復はがきで出したりするまでの煩わしさが、Cさんからの電話で報われた気がした。

今回も助けてもらった気分になった。

10数年ぶりとなる、再会の日を楽しみに待ちたい。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする