筆力のある人だなあ。
今回初めて辻堂ゆめさんの作品を読んでそう思った。
読んだ本は、「山ぎは少し明かりて」。
枕草子から借りてきたタイトルのようだが、この作品は、三世代の母娘を描いた話である。
出版社である小学館による本書の紹介は、次のようになっていた。
祖母が守りたかったもの、それは?
瑞ノ瀬村に暮らす佳代、千代、三代の三姉妹は、美しい自然の中をかけまわり元気に暮らしていた。大切な人が戦地から帰ってくる日も、村中から祝われながら結婚式を挙げた日も、家で子を産んだ日も、豊かな自然を讃えた山々の景色が、佳代たちを包み込み、見守ってくれていた。あるときそんな瑞ノ瀬村に、ダム建設計画の話が浮上する。佳代たちの愛する村が、湖の底に沈んでしまうという。佳代は夫の孝光とともに懸命に反対運動に励むが──。
定年退職まで営業部で忙しく働く佳代の娘・雅枝と、海外留学先であるイタリアで「適応障害」になり、1ヶ月と少しで実家に帰ってきてしまった孫・都。湖の底に沈んだ瑞ノ瀬への想いはそれぞれにまったく異なっていた。
大藪春彦賞受賞、吉川英治文学新人賞ノミネートなど、いま最注目の若手作家・辻堂ゆめの最新刊!
都市開発や自然災害で、瞬く間に変わりゆく日本の古き良き故郷(ふるさと)の姿。私たちが得たものと失ったものは、一体何なのか。若き作家が三世代の親子の目を通じ、変わりゆく日本の「故郷」を壮大なスケールで描いた感動作。
三世代なので、描かれた時代は、現代からさかのぼって昭和初期の時代にまでなっている。
その構成は、プロローグ・エピローグにはさまれての3章でできているが、
第1章「雨など降るも」は、娘を巡っての現代での話。
第2章「夕日のさして山の端」は、母を巡っての昭和から現代での話。
第3章「山ぎは少し明かりて」は、祖母を巡っての昭和の初めから終わりごろまでの話。
この中で最も長く詳しく書いてあるのが、第3章。
第2章までで136ページだったのに、第3章は137ページから313ページまである。
一番古い時代の章が、一番長いのだ。
作者の辻堂さんは、1992年生まれ。
ということは、平成の生まれである。
それなのに、第3章の昭和初期から戦前・戦中・戦後、高度成長の時代までの人々の暮らしの様子が実によく描かれていた。
作者とは生きてきた時代が違うだろう。
しかも、普通の人でもよく知らない山村の暮らし。
そこに住む人々の風俗や習慣が細部にわたって、実に違和感なく描かれている。
自然の中で見かける多くの植物や虫たちだって出てくる。
私くらいの年代になると、田舎で暮らしてきたからその風俗や習慣は実体験したことも多く、思い出すこともできる。
だが、作者の辻堂さんが生まれ育ってきた環境では遭遇しなかったことが多いだろう。
なのに、田舎の暮らしや山村の風景が見えるようにこんなに詳しく書けるなんて、と驚いた。
そして、描いていたのは、ダム湖の底に沈むことになる村。
そのダム建設の話の進展の仕方についてもそうだ。
村人たちの反応や、反対運動に取り組む人たちの行動の変化などについても、非常に具体的だった。
よっぽど取材したり文献をあさったりして、資料を集める必要があるし、その資料を作品に活かせるように自分の中で咀嚼しなくてはいけなかったはずだ。
巻末には、主な参考文献として14冊の書物名が載っていたが、よくぞ自分のものにしたものだ、と感心した。
順番が逆になるが、第1章ではあの2019年10月の台風も出てきた。
私ごとだが、あの台風で、私は出場予定の新潟シティマラソンが開催中止になってがっかりしていたのだった。
あのときもし走れていれば、調子がよかったからきっと人生自己最高の記録でゴールできたことだろう。
そして後日、埼玉の川が暴れ狂って河川敷が大被害を受けていた悲惨な跡も見たのだった。
その台風被害の最も象徴的なシーンの一つに、長野で新幹線が水に浸かっていたことがあった。
本書の第1章に登場する娘の彼氏は、その台風で被害を受けた長野のリンゴ農家の息子という設定になっていた。
そんな設定からの構想も巧みだなあと感心した。
本書の帯には、「三世代の母娘を描いた、感動の傑作大河小説!」と書いてあった。
大河ドラマはよく聞くが、なるほど大河小説か。
言い得ている読み応え、辻堂さんの筆力をたっぷり感じて、魅せられてしまった。
またそのうち、彼女の別な作品を読んでみよう。