ON  MY  WAY

60代になっても、迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされながら、生きている日々を綴ります。

年中行事の側溝清掃

2024-06-30 20:50:09 | 生き方

タマサボテンが咲くこの時期、年中行事になっているのが、側溝清掃。

今年も、その要請が来た。

おなじ町内でも、下水道が整備されたところは、それをやる必要はない。

だが、わが家を含めた町内の一部は、側溝清掃をしなくてはいけないのだ。

まったく、早く下水道を整備しておくれよ、と市当局に言いたいところだ。

 

まあ、仕方ない。

ここに住んでいる以上、やるしかない。

やるなら、天気が悪くならないうちにやってしまおう。

 

今年も、器械を使って、コンクリートの重いふたをいちいち持ち上げて清掃作業を始めた。

そして、1年の間についたふたの土や砂を落とした後、水で流してふたもきれいにしておいた。

次に、土のう袋に側溝の泥をすくい取って、集めていく。

ある程度取ったら、放水して、残った砂や泥を、流しながらまた集めていく。

そんなふうに作業を進めていった。

 

今年、近所の方から、新兵器を貸してもらった。

その新兵器が、これ。

細くて強い竹ぼうき。

側溝に水を流しながらこれを使ってはいていくと、一気に残った砂や泥を運んでいける。

とってもすばらしいアイテムであった。

 

あとは、またふたを1枚1枚元に戻していく。

器械を使うといえど、うまく挟んで落とさないように注意しながらの作業。

開始から約1時間半余りかかって、ようやく全作業終了。

ああ、さっぱりした。

だけども、年々作業はきつくなるから、早く下水道整備してくれないかなあ…と、もう一度ぼやくのであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あっちは現代、こっちは江戸時代!?

2024-06-17 20:48:42 | 生き方

先週、埼玉の一番小さい畑ではジャガイモを掘っただけではなく、恒例の(?)除草作業をしっかり行ってきた。

2アール程度の畑だから、そこまで大きな畑ではないけど、除草には時間がかかる。

わずか3週間でよく生えるものだ、と雑草の生命力に、ほとほと感心する。

ただ、さすがに雑草にも旬がある。

先月までは、ホトケノザやタンポポなども咲いていて、雑草だけど花はきれいだなあ、などと思いながら刈っていた。

ところが、今月は、この畑に生える雑草できれいな花は少なかった。

かろうじて、アカバナユウゲショウの赤い花がきれいだと思ったけど。

最もたくさん生えていた雑草は、メヒシバだった。

このメヒシバ、根がしっかり土をかんでいて、簡単に根まで抜けない。

乾燥した土では、引っ張って抜こうとしても、根の少し上からブチッと切れてしまう。

茎が残って、またそこから伸びていく。

生き残るために、たくましさを備えているのだなと、それなりに感心してしまう。

 

このメヒシバらに負けまいとする人間が私だ。

地面に這うように生えているメヒシバを、丸鎌を使ってゴシゴシとしごくようにして根ごとまるごと刈っていく。

ゴシゴシ、ゴシゴシ、ゴシゴシ、ゴシゴシ、………。

強くなった6月の陽射しを受けながら作業していると、あっという間に息が切れた。

仕方なく小休止する。

少し息を整え、またゴシゴシを連続する。

強い陽射しに、汗も噴き出す。

だけど、これをしなくては、畑が単なる荒れ地になってしまう。

除草剤をまけばいいという人もいるが、除草剤を使うと、畑が畑じゃなくなってしまう気がする。

もともと畑だから、また何か作物を作るときがあるかもしれない。

その作物に、害のある薬剤成分が影響を与えるようでは、いけない。

ゴシゴシ、ゴシゴシ、………。

きつい除草作業だ。

 

そうやってゴシゴシ作業している私の、道を挟んで反対側の畑でエンジン音がした。

そこの畑はここより広いのだが、同様に雑草がたくさん生えていた。

エンジン音は、その雑草畑にトラクターが1台入って行く音だった。

トラクターが進んでいくと、雑草畑と化していた土地が、あっという間にきれいに整備された土地に変わっていく。

なんて簡単なんだろう。

人が乗って運転するだけで、広い土地がみるみるうちにきれいな畑になっていった。

私は、こうして器具を使って自力で時間をかけてやっているのに、向こうは、ただ乗って動かすだけで、同じ作業があっという間に、しかも楽できれいに終わっていく。

手作業で遅々として進まぬ私の除草とは大違い。

思わず苦笑いした。

昔歴史で習った「産業革命」で機械の使用がいかに画期的な変化をもたらしたのかが、分かるような気がした。

ついでに脳裏には「家内制手工業」「マニュファクチュア」なんて言葉も浮かんできた私であったが、それらの用語の説明の仕方は忘れてしまったなあ…。

 

そんなことで、落差を見せられて自分のやっていることは、古い時代の住民と同じかと思ったよ。

あっちは現代、こっちは江戸時代か!?。

疲れが出た私も、産業革命にするか、と決断。

あとは機械の使用に踏み切ったのだった。

トラクターの使用はできないけれどね。

…刈払い機見参!

としたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さようなら、YP―10

2024-06-13 20:38:33 | 生き方

長年一緒に過ごした(?)、電子ピアノとお別れした。

ここ10年ほどは、娘のリハビリ用に使っていた。

指を動かすことは、脳の働きを活性化させるのによいという考えからだった。

もともと子どもの頃からピアノを習わせていたので、娘は、それなりに弾くことができた。

病からの回復を図ることに役立ったと言える。

さて、この電子ピアノを買ったのは、子どものためではなかった。

買ったのは、実に43年も前のことだった。

新採用から2年目、夏のボーナスを使って買ったのだった。

私が採用された頃には、採用試験にはピアノの実技がなかったのだ。

それなのに、小学校教員になれたのは、ラッキーなことであった。

だが、いざ現場に立つと、やはりピアノが弾けないというのは、不便きわまりなかった。

代わりにギターを使って、和音で音を出していたけど、正しい音階を出すのにピアノは欠かせなかった。

ピアノを使って授業ができるよう になりたい。

若き私にはその願望が強かった。

真剣に練習しようと思って、当時の1か月分の給料に近い金額を支出して買ったのが、YAMAHAのElectronic piano YP―10であった。

 

買ったときには、それなりに自分で練習もしたのだが、私の音楽指導に疑念を抱いた上司が、音楽の授業から外してくれた。

また、低学年担当のときには、子どもたちは、ピアノよりギターの方がノリがよかったりした。

そんなもんで、この電子ピアノが部屋の飾りになるのに多くの時間はかからなかった。

 

そんなことで、この電子ピアノが本格的に活躍するのは、自分の子どもたちがビアノをならうまでなかった。

そして、娘のリハビリに使われるのが、最も重要な使われ方だった。

私は、結局、その後40年余りこの電子ピアノに触れることはほとんどないまま、定年を迎えてしまった。

 

長い年月がたったために、音の出ない鍵盤があるようになってしまったから、新しい電子ピアノを買った。

金額は、あの43年前に比べて、半分以下!

機能も増えているし、ビックリであった。

 

処分するのが惜しくて、ずっととっておいたけど、終活を考えると、決断せざるをえないと思うようになった。

 

今日は、娘が練習用に使った。

そのあと、数十年ぶりに鍵盤に触れてみた。

低学年担当だった頃の「きらきらぼし」や「チューリップ」は、片手だけだけど弾けた。

「ふじ山」は、何度もつっかえた。

 

もう、子どもたちと歌うこともない。

さようなら、YAMAHAのElectronic piano YP―10。

若い日の夢をありがとう。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Holidayは、掘りデー

2024-06-11 20:31:59 | 生き方

埼玉の畑に、3月に種イモを植えたジャガイモ。
収穫期を迎えた。


月曜日は雨が降るとの予報に、その前に掘らなくては。
前日の休日、日曜日のうちに掘ることにした。
「Holidayは、掘りデー」となった。

今年は、畑で植え付ける場所を変えてみた。
なにしろ、去年は2年続けて同じ場所で育ててみたら、取れたのは小さなイモばかりだったから。
場所を変えてみたら、今年は1つの茎にできたイモの数は多く感じたし、時々は大きなイモも出てきて、うれしかった。

例年2kg、30数個の種イモを2つに切って植え付けるのだが、さすがに取れたイモはいっぱい!

植え付けるときに草木灰を付けたり、芽が出てから少しだけ追肥したことがあったりしたくらいで、だいたいほったらかしだったのに、ちゃんと収穫が得られた。


ござ2枚分に並んだ大小さまざまなジャガイモたち。
さっそくゆでたり、カレーの材料にしたりして、おいしくいただいているのでありました。


掘った夜中に雨になったから、やっぱり「Holidayは、掘りデー」にしてよかったよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同級会の準備を始めなくては…から一歩前進

2024-06-03 21:33:25 | 生き方
さてさて、そろそろ開催に向けて準備を始めなくちゃな…。
なにしろ、8年ぶりになってしまうから…。
この話題について書いたのは、もう4年も前のことになってしまうのだ。
齢をとると、年月の過ぎ去るのが本当に早い。
準備しなくてはと思いつつ、この2か月余り、COVID-19などの感染症に苦しみ、そのことについて考える余裕がなかった。

何の準備かといえば、4年前のこの記事を読んでもらえば分かってもらえるかな?
そう。幹事として高校時代の同級会をしなくてはいけないのだ。
高校時代の同級会は、いつからか4年に1度、オリンピック・イヤーに開催するのが慣例になってしまった。
ずうっと幹事をやってくれていた「永年幹事」のM氏が最後に幹事を務めたのは、2012年のロンドン五輪の年だった。
その翌年、彼は亡くなった。
亡くなる前に、住所が書かれた名簿一覧を私に寄越して、「オレの次の幹事は、お前」といった言葉は、遺言になってしまった。
Mの遺志を継ぐしかないな、と思い、幹事としてリオ五輪の年に「還暦記念」の同級会を企画実行した。

そして、前回の東京五輪。
2020年も2021年も、COVID-19感染症のパンデミックの真っ最中であった。
だから、メンバーには、残暑見舞いの形で開催延期の知らせを送り、実質的に中止せざるを得なかったのだった。

「この感染症が収束するまで延期したいと考えておりますが、いかがでしょうか?
この難局を乗り越えたときに、ご案内を差し上げたいと思っております。」
と書いてから、あっという間に4年がたってしまった。
その間に私たちは年金受給者=高齢者のカテゴリーに入ってしまった。
高齢者はまだ注意が必要、と言われても、世間的にはもう全面的に自粛は解禁されている様相だ。
さすがにパリ五輪の今年は、同級会を開催しなくてはいけないだろう。
だけど、一人で企画するには心細い。
そう考えて、今日は身近で信頼できる同級生の一人に会って、同級会について相談に乗ってもらった。

二人であれこれと話し合った。
・毎回だいたい盆の時期に行ってきたが、盆の時期はむしろ忙しいのではないか?
→別な時期の開催も考えてみたい。
・毎回高校のある町(市)で開催してきたが、現住所が市外にある人の方が多い。親が亡くなって泊まれる実家がなくなった人も多いのではないか?
→宿泊できるホテルの多い新潟市などを開催地にしてみたらどうだろう。
・だいたい夜の宴会を中心に開催してきたが、夜遅いと帰れなくなる人もいるのでは?
→夕方より前に始めてはどうだろう?

自分と同じような考えをもっているのだなあ、と思い、やっぱり相談してよかった、と思った。
まだ詳しいことが決まっていないが、一人でくよくよ悩むより、二人で考えを出し合うのが大事だな、と改めて感じた。
8年ぶりの同級会開催に向けて展望が開け、1歩前に進んだ感じ。
体が少し軽くなった気がした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月15日に思う

2024-05-15 14:19:37 | 生き方

5月15日。

目覚めてから、この日は何か過去に大きな出来事があった日だったよな…。

そうだ、自分の頭の中には3つくらいのことが浮かんだ。

 

1つめは、少し古くなったできごとから。

5月15日、5・15、五・一五…と数字を並べて思い出したのは、歴史的事件。

五・一五事件。

1932(昭和7)年5月15日、武装した陸海軍の青年将校たちが反乱を起こし、総理大臣官邸に乱入し、時の内閣総理大臣・犬養毅氏を暗殺した事件だった。

当時は、3年前に起こった世界恐慌の影響で、日本でも大不況の煽りを受け企業の倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。

そんな状況下で、政党や財閥を倒し, 軍部中心の政府をつくろうとしたために起こったのだった。

襲撃を受けたのは、首相官邸ばかりではなく、日本銀行・警視庁・変電所などもあった。

この事件以降、軍部がさらに力を強めていったのであった。

そして、日中戦争、太平洋戦争と、戦争の泥沼の中に日本は突っ込んでいった。

 

2つ目は、沖縄の本土復帰記念日だということ。

沖縄は、戦争中、全国の中で唯一アメリカをはじめとする連合国軍が上陸し、民間人を巻き込んだ戦いが行われた場所であった。

そしてその戦争後、沖縄は長くアメリカ軍の統治下におかれた。

ようやく本土復帰を果たしたのが、戦後28年もたってからの1972年5月15日だった。

あの当時、人気アイドル歌手として活躍していた沖縄出身の南沙織が週刊誌の表紙を飾り、本土復帰についてのインタビュー記事が載っていたのをよく覚えている。

実は、私らの新婚旅行の行先は沖縄で、行ったのはその10年後の1982年の5月のゴールデンウイーク期間だった。

空港などで、「本土復帰10年」という文字が多少見られたかな、という覚えがある。

その旅行の際には、かつて戦場となって、いまは慰霊碑が立つ摩文仁の丘を訪れたりもした。

碑には戦争で犠牲になったたくさんの人の名前が刻まれていた。

案内するタクシーの運転手が、戦争のことにはあまり話題に触れようとしないで、本土から来た新婚さんを「ここで写真を撮りましょう」「ここもいい写真が撮れますよ、笑ってください」などと言っていた。

だが、鎮魂の場所だけに、私らは平気で笑顔を作ることなんてできず、ちょっとむっつりした顔で写るしかなかった。

今にして思えば、地元の運転手にとって、「どうせ本土から来た新婚さんなんて、沖縄人の悲しみなんかわからないでしょう。遊び半分で来たのでしょうから、記念写真でも撮ってお帰りください」と、そんな気持ちだったのかもしれない。

それからさらに41年がたち、今日で復帰から52年を迎える。

去年の玉城知事のメッセージの中には、

「復帰後51年を経た現在もなお、国土面積の約0.6%である本県に全国の米軍専用施設面積の約70.3%が集中しており、県民は米軍基地に起因する騒音や事件・事故、環境汚染の問題など、過重な基地負担を強いられ続けています。

さらに、普天間飛行場の辺野古への移設については、県民の理解が得られないまま工事が強行されている状況にあります。」

という内容があった。

本土の人たちからすれば、離れて遠いことから、「自分ごと」ととらえる感覚が鈍いような気がする。

不穏な世界状況を考えると、日本人として誰でももっと沖縄のことを考えていかなければいけない、と思う。

 

最後の3つ目、今日はJリーグの日。

1993(平成5)年5月15日、日本初となるプロサッカーリーグJリーグが開幕した。

大きなJリーグのマスコットキャラクターが、セレモニーでぐんぐんふくらんで大きくなっていったのは、今もよく覚えている。

その開幕戦は、ヴェルディ川崎対横浜マリノスだった。

その試合は1対2で横浜マリノスが勝利を収めたのだった。

当時は10チームしかなかったが、その後、「Jリーグ百年構想」に基づいて、全国各地に「おらがチーム」ができ、今はJ1・J2・J3のリーグで、各20チーム、合計60チームが戦いを行っている。

開幕した頃は、「いつか新潟にも、Jリーグのチームが…」と思っていたら、その後10年余りでJFL➡J2➡J1とカテゴリーを上り詰めたチームが誕生した。

それが、「アルビレックス新潟」だった。

 

そのアルビレックス新潟が、Jリーグの日である今日5月15日に、奇しくも31年前にJリーグの開幕戦を戦った横浜F・マリノスと試合を行う。

歴史を積み重ねたマリノスは、先日ACLの決勝第1戦で2-1と見事に逆転勝ちを収めた。

現在アルビレックス新潟は故障者も多く、苦戦が予想されるが、今夜の試合はホーム戦だ。

なんとか、いい試合を見せてほしい。

そう期待している。

 

5月15日。

首相の暗殺事件があったり、戦争からの復帰を果たしてもまだ残る課題があったりと、心に留めておかねばならないことが起こった日である。

そんな中で、Jリーグの試合が行われるのは、日本が平和だからだということも思う。

その平和が永久に続くことも、世界中が平和であることも、願わずにはいられない。

そんなことを考えた、今年の5月15日…。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5,6年ぶりの酒を伴う懇親会

2024-05-13 21:30:31 | 生き方

何年ぶりだろう。

懇親会と称する宴会、つまり飲み会に参加したのは。

この4月からある団体に週1くらいのペースでお世話になっているのだが、そこでも宴会はずうっとやっていないということ。

宴席では、そこで6年目を迎えた方と隣だったが、その方の言うには、自分が入ったとき以来の酒を伴う会だとのことだった。

ということは、前にこの会が行われたのは、令和元年だということだ。

酒を伴う懇親会なんて、本当にしばらくやっていなかったから、多少はしゃいでしまった。

もっとも、今日はその会の幹事の一員だったから、盛り上げようとしたのだけれどね。

懇親会。

こんなだったねえ。

ビールを注ぎ合う間に言葉を交わし、見つかる話題の共通点に驚く。

特に、この年齢まで来ると、だいたい知っている誰か一人を間におくと、縁がないと思っていた人とつながってしまう。

例えば、その人のお姉さんが先生だとすると、親戚の子がそのお姉さん先生に教わっていたりする。

今のこの団体とかかわりのある外部からのゲストが、息子が以前働いていた職場の上司だったりする。

そんなことが、酒間の話で分かってきたりする。

人の縁は面白い、そう思ってしまう。

以前は、「宴会なんて堅苦しいばかりで面白くない」と思っていたけれども、今夜は「たまにはいいもんだ」と思った。

体調が不安なので気をつけて飲んだこともあって、具合が悪くなることはなかった。

飲み過ぎた年輩の輩が、送りのマイクロバスが出発してから気付いたため、マイクロバスがUターンしてもう一度迎えに行くというハプニングもあったが、まあご愛嬌と笑うことができた。

 

とにかく、私にとっては6年ぶりくらいの酒を伴う懇親会を、自分でも意外に楽しんだ今夜であった。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観戦強行➡体調不良の継続

2024-05-04 19:38:36 | 生き方

無理しちゃいけない、というのはわかっているけどね~。

新潟のローカルNSTで試合をライヴ放送してくれるというのもわかってはいたけどね~。

やっぱり、どうしてもホームでの選手たちが戦っている生の姿を見たかったんだ。

前夜も夜中37.9℃の発熱はあったのだけれど、朝は37.1℃に下がっていたんだ。

朝食後は36.7℃だし、咳は出ていても、やっぱり大丈夫だと思うじゃないか。

それで、アルビレックス新潟のサンフレッチェ広島戦を見に行くことを決めたんだ。

家人に対して、それに行くくらいなら、体調は普通と変わりませんよ、という雰囲気を出したくて、午前中早い時間に家じゅうの掃除機かけや玄関掃き、生け垣の下の落葉掃き、ベランダへの布団干しなどをてきぱきとこなし、がんばってしまった。

 

いざ出発してみると、まだ体力が元に戻っていないせいで、車の運転は大丈夫でも、指定駐車場からスタジアムまでの1kmくらいの歩きが正直しんどかった。

試合中は、さすがに元気に観戦したのだけど(試合中は元気が出るような展開ではなかったけどね)、途中から陽射しが当たるようになり、元気なつもりでも病人にはちょっときつくなってきたのだった。

新潟がレッドをもらって10人になったうえ、広島に先制されたあたりからは少しだけだるく、頭痛の芽が出てきたような気もした。

それでも、乾坤一擲の高木の同点ゴールで、気分が高揚して以降はハイな気分で帰ってくることができた。

少しだけ帰りの車の運転がだるいなとは思ったのだが。

 

家に帰って夕食をとってから、風呂に入る前にこのブログ更新作業をやっていたら、なんだか熱っぽくなってきた。

まさかと思って体温を測ると、げげげの38.1℃。

また出たか!?と、化け物でも見たような気分。

咳に加え頭痛もひどくなってきたのだが、医者からもらった薬は3日分だったから、その日の朝なくなっていた。

仕方なく市販の頭痛薬を服用し、風呂に入らず寝ることにした。

 

寝たはいいが、日付が変わった頃、薬のせいで熱は収まった感じだった。

だが、のどが痛くなる。夜どおし咳が出て苦しんだ。

水を飲んだりのど飴をなめたり、この夜もいろいろしたがぐっすり眠れないまま。

とにかく今回は、夜ぐっすり眠れたことがない。

そのせいで、朝起きるころ薬の効用が切れたのか、また熱が出始めて37.2℃。

 

今日は、一日中、すっきりしなくてゲホゲホと咳込んだ一日だった。

連休で医者も休みだし、おとなしく過ごすことしかできない。

この咳が解消するのはいつになることやら。

そして、夜中に発熱しなくなるのはいつになるやら。

ここんとこ毎晩、熱や咳が出ていて眠れないのが普通になっているからなあ。

 

こんなふうに、昨日のアルビの試合観戦強行は、体調不良の継続になってしまった。

試合で新潟の選手たちのがんばりにふれ、こんな体調不良に負けてられない、と思えたのだ。

これでもし昨日の試合がドローでなく敗戦で終わっていたら、今日は立ち上がれなくなっていたかもしれないな、たぶん。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

眠りたいのに

2024-05-02 21:46:47 | 生き方

「眠れない夜」は泉谷しげるで、「眠れぬ夜」はオフコースだったな。

そんなことを思っているうちは、まだよかった。

だが、夜が明けてしまったときには、さすがにあせった。

 

昨夜は、ほぼ平熱に戻って、やれやれよかったなあと思いつつ、風呂に入り10時過ぎに寝床についた。

明日はもっと体調がよくなるだろうから、あれもしたいこれもしたいといろいろ考えたが、とにかく寝ようと決めて消灯したのが午後10時16分。

ところが、なかなか眠くならない。

日中昼寝をしたからだな、と考えて眠くなるのを待った。

ところが、やっぱり眠くならない。

風呂に入って温まったはずなのに、どうも足先が冷たい。

靴下をはき、大ぶとんに加え、毛布を1枚追加した。

それなのに、背中も寒く感じるようになって、仕方ないな病気療養中だから、としまってあった電気毛布を取り出して低温で使うことにしたのが、11時半頃。

何分かでその効果が表れ、体の寒さはなくなってきた。

やっとこれで眠れるかな、と思い、眠くなるのを待った。

だが、いっこうに眠くならない。

仕方がない、羊でも数えるか、と「1,2,3…」とゆっくり数を数えていった。

ところが、やっぱり眠くならない。

もう時計は12時6分、真夜中を過ぎていた。

仕方がない、もう1回トイレに行っておくか。

小用を足し、寝床に戻ってふとんをかぶり、

「そのうちなんとかなるだろう」と、植木等の歌い文句を唱えつつ、横になって2時間も経つのだから、そろそろ本当に寝たいなと思った。

ところが、1時を過ぎて今度は2時も過ぎてしまった。

草木も眠る丑三つ時というのに、臭木じゃない私は眠れない。

それどころか、今度は熱さを感じるようになった。

電気毛布のスイッチを切り、かけた毛布を蹴飛ばしてふとんの外に出し、靴下を脱いだ。

それでも熱いって、まさか…。

まさかと思い、体温を測ると、

「なんじゃ、こりゃあ~。」と、今度は「太陽にほえろ」の松田優作が演じたジーパン刑事のセリフが出た。

熱が、38.4℃もあった。

またまた夜中に発熱したのである。

薬も飲んでいるのに、毎晩、毎晩…「なんでとこうなるの?」と今度は萩本欽一が飛び出した。

 

3時前後には近所で、車庫のシャッターを開けて朝から仕事に出るような音や、早い新聞配達のバイクの音も聞こえた。

ずっと眠れずに寝床にいるから、腰が痛くなってきた。

何度も寝返りはうったのだが、横になっていること自体が苦痛になってきた。

3時半を過ぎ、体温はやはり、38℃を超えている。

4時を回ると夜明けが近い。

4時26分、早起き鳥の鳴く声が、朝が来たことを告げていた。

「だめだ、こりゃ」いかりや長介のあの決めゼリフが頭の中を回っていた。

 

今まで、寝ようと思ってふとんに入ってから眠れないことは数々あったが、こうして朝が来るまで眠れなかったことはなかった。

眠りたいのに眠れないことは、こんなにもつらいことなのかと、うちの母を含めた高齢者が医師に眠剤を出してもらうのをよく見ていたがその理由が分かるような気がした。

なにしろ、眠ろうと思ってふとんに入って目をつぶってから、もう7時間近くがたち、明るくなって5時を過ぎていた。

5時を過ぎて、ふっと意識がなくなった時間ができた。

わずか5,6分くらいの短い時間だったが、「あ、今の自分、少し眠れた!」と思った。

すごくうれしかった。

こんな短いうたたねがうれしいなんておかしいよな、と思いながらも、満足した。

 

だが、やはり7時近くまで眠れず起きることにした。

体の具合が悪いなら、普通は眠れるものだろう。

ましてや熱まで出てるのに。

それなのに、目がさえて眠れないって、この不調ってどういうこと?

 

不思議なもので、朝になって体温が下がり、朝食後は36.7℃に落ち着いた。

午前中は眠れなかったが、午後に1時間半余り昼寝ができたときには、ホッとした。

 

すみませんね、こんなバカみたいなブログ読んでいただいて。

でもね、また夜が来てしまったのです。

夜、寝るのが怖く感じる、発熱の数日間、そして昨夜の不眠体験なのであります。

さて、今夜は…???

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもの頃もよく熱を出していたことを思い出し…

2024-05-01 20:40:46 | 生き方
昨夜も高熱に苦しんだ。
薬は飲んでいても、1,2回の服用では効かないのか、夕方以降もずっと38℃台の熱が続いた。
夜中、寝ていても熱さで2時間おきくらいに目が覚め、熱を測ると38.9℃だとか38.6℃だとかが続き、一番高いときで39.4℃まで上がった。
さすがに、三晩も続けてしっかりした睡眠がとれないのは、きつい。
 
それにしても、寝込んでから治って、また1か月で寝込むなんて。
こういう生活って、子どものとき以来だなと思いながら寝ていた。
そう、子どもの頃の私は、体が弱かった。
特に、小学校低学年の頃には毎月のように熱を出し、医者の世話になっていたのだった。
そのたびに、3㎞ほど離れた医者から往診してもらい、よく注射をしてもらったものだ。
あの頃は、尻に注射を受けるのが普通だった。
尻だと目に見えないから、子どもの私にとってまだよかったけどね。
一度熱を出すと、回復までにだいたい3日くらいはかかったのだった。
今思うと、本当に母には迷惑をかけたと思う。
寝床のひ弱な私の様子を気遣ってくれていたことを思い出す。
食事もおかゆにしてくれたり、水枕を何度も取り換えてくれたり、缶詰の桃を食べさせてくれたり、いろいろしてもらったなあ…と思い出す。
あの頃の水枕のチャプチャプした感じは、今も皮膚と音の感覚で簡単によみがえるほどだ。
医者への連絡だって、あの頃は全家庭に電話があったわけではないから、電話がある家まで行って電話を借りてかけたのだろう。
そんなおかげで、息子はこうして67歳まで生きている。
父は、若いころ血の気盛んだったらしく16,17歳で志願兵となって訓練を受けた過去を持っていた。
だから、強く育てようとそれなりに厳しく私に当たっていた。
だが、ただでさえひ弱な私が、小学校高学年でいじめにあっていると知ってからは、その厳しさは少なくなった。
そんな父にはひ弱な息子で申し訳なかったが、今は父の享年より11年も多く生き続けている。
父は定年退職を全うできなかったが、私はそれをできてから、早くも何年もたった。
今生きていられるのも、あの両親のおかげなんだよなあ、と改めて思った。
熱のおかげで(?)、改めて両親のことを思い出す機会となった。
 
さて、なかなか下がらない熱だったが、今日は朝の38.3℃からしだいに熱が下がってきた。
このまま平熱に落ち着くことを期待しよう。
(代わりに咳がひどくなってきた…⤵)
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする