ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

夏休み直前の学舎点描

2017-07-21 22:10:07 | 「育」業
新潟県内の学校は、今日が終業式だったという。
私の4月からかかわっているところは、残念ながらまだ夏休みにはならない。
終業式の予定を来週の月曜日にしているのが2校、来週の水曜日が1校。
以前は同じ自治体内なら同じ日から夏休みになっていたのだが、今は、各校の判断にゆだねられている。
と言いながらも、暑いから夏休みを早めましょう、ということが自由にできる訳ではない。
4月にあらかじめ届け出ておいた年間計画にしたがって、休みが始まるのだ。

それにしても、暑い。
今日も36℃と言っていたが、3階建ての建物だと、階が上がるごとに気温が1℃くらいずつ上がるように感じられる。
扇風機の入っている教室もあるが、1教室に家庭用扇風機が1台あるくらいでは気温が下がるはずもない。
これでは、学校で有効な学習などできるはずがない。
夏休みは、やっぱり必要だ。
汗をかきながら、がんばっている子どもたちの姿は健気だ。

今日が終業式ではなくとも、短縮授業で給食なし、午前上がり。
子どもなら、午後からたくさん遊べるぞ、というところ。
ところが、気温が高すぎて、外で遊ぶような無謀な子はいない。
学校のグラウンドは、誰も子どもがいないで、ただただ乾いているだけの今日であった。

学校で働く人たちは、誰もがあわただしく動いていて、学期末という雰囲気を漂わせている。
数年前とは違って、今はだいたいどの学校でも職員室にはエアコンがあるようになった。
だが、多くのところでは、教室で子どもたちが学習している時、職員室だけエアコンを作動させているようなことはしない。
子どもたちが帰った後スイッチを入れるというところが多いのが、教職員の涙ぐましいところだ。
やっと冷房を入れたというのに、教室でないとできない学級の仕事や会議・打ち合わせなどのために、職員室を出てバタバタと動いている人たちがたくさんいる。
新人の方も、3か月余りいろいろと大変な思いをしながら、子どもたちのために働く日常を覚えてきた。
通知表で、子ども一人一人が学校で見せる輝きを伝えようと、ここ数日間は悩み抜いたようであった。

子どもも大人も、皆、がんばっているなあと思える、猛暑の中の学舎である。
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母校を訪ねてきた若者たち

2017-03-25 22:18:42 | 「育」業
卒業式前日、先日成人式を終えたばかりの、私の勤務先を母校とする20歳のOB・OG4人が、訪ねてくれた。
私が教頭時代、彼らが3年生の時までこの小学校に勤務していたのだった。
成人式を終え、何かの話から、当時教頭だった私が、今度は母校の校長をしていると聞いて(それも3月いっぱいまでだと聞いて)、行ってみようということになったようだ。
前日に一応アポをとって、昨夕訪ねてきた。
「誰だかわかりますか?」と言われても、当然分からない。
当たり前だ。小学校3年生以来の11年ぶりの再会なのだから。
おまけに、彼らとは、1・2年生時に週に1回書写の指導をしただけだったのだから。(自己弁護)
それでも、名前を聞くと、電話をかけてきた女の子(成人したのだから女性と言うべきか?)のほかに、1名の男子(男性)のことは、思い出した。
名前の漢字2文字が、なかなか凝った読み方をする名前だったからだ。
高校では別れたが、4人とも、今は関東の別々の大学に通っているとのことだった。

最初は、必然的に小学校時代の話、しかも私が知っている低学年時代の話になった。
その頃の担任の女の先生が怖くて厳しかったことの話になると、一番静かにしていた女性が、一番よく話していた男の子に言った。
「あなたのせいで、私は、生涯たった一度の廊下に立たされた経験をしてしまったのだから。」
「えー、うそぉ。」
「おしゃべりなあなたが、後ろを向いて話しかけてくるから、仕方なしに聞いてあげてたのに、先生から、『そこの2人、うるさいから、教室の後ろに立っていなさい。』って言われて。
教室の後ろに立ったけど、またあなたがこりずにぺちゃくちゃ話しかけてきたら、ついに先生は、『廊下に立っていなさい!』ですもん。とばっちりをくらってしまって、人生一度の廊下に立たされる経験をしてしまったのよ。」
「へえー、ごめんなさい。おぼえてないよ、オレ。(笑)」
「ずいぶん決めつけが強い先生だったからね。」
「あの先生が今もここにいるのなら、オレ来たりしないよぉ。」
…なるほどねえ。熱心な先生でも、決めつけが強い人は、やはり嫌われてしまうようだ。

いろいろ話をした後、校舎内を回ると、非常に懐かしがっていた。
「私の暮らした、6年の教室がない!」
聞けば、改築工事でなくなってしまった教室が、その子の6年2組としての教室だったようだ。
「校舎が広くなって、別の学校みたいだね。」
「グラウンドの、あの正面の木の下やベンチの下に、タイムカプセルが埋めてあるのです。30年後、そして50歳になったら開けることになっています。」
…そんなことは、きちんと語り継いでいかないといけないな。
 
校舎内を回りながら、各教室で、彼らは思い出話を盛んに交わしていた。
「ヤバイ、ヤバイ」を連発しながら、それがすごく楽しそうだった。
そういう彼らの姿を見て思ったた。
ああ、ここは、彼らにとってかけがえのない母校なのだなあ、と。
私たち教員にとっては、職場、勤務先でしかないのだけれど、彼らにとっては、ほかにない大切な小学校なのだ、と。
そんな大切な学校を、いつまでも懐かしく、誇りに思えるような学校にしてあげたいな、と。
そういう思いにさせてくれた彼らに感謝したいと思った。
まだ大学生2年生だと言う彼らの若さが、うらやましく思えもした。

単なる教頭-低学年児の付き合いでしかなかった私と彼らの関係。1,2年生の時に書写を週に1時間もっていただけの私を訪ねてくれた心の中には、「この小学校が大好きだ」というものがあったからであろう。


こうして、脈々と生き続ける学校の“絆”…。
翌日、卒業していった6年生たちにとっても、きっと「かけがえのない母校」となることだろう。
すばらしい職員たちが、子どもたちの母校を、いっそうかけがえのないものとして、輝かせてくれているのだ。
いつでも帰って来られる「心のふるさと」の学校でありたいものだ。
今年の職員集団の働きなら、きっとそうなるよなあ、と確信した。

定年退職の日が近づくが、よい学校づくりができた、という満足感が広がっている。
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24年ぶりの訪問者

2017-02-07 22:41:29 | 「育」業
「こんにちは~。」
突然、職場に訪ねてきたのは、ふた回り年下の30代の女性2名。
花と手作りのマフィンケーキを手に携えて部屋に入ってきたのは、24年前の教え子であった。

私が、もうすぐ定年退職だということで、労をねぎらいに来たのだとか。
わざわざこの職場に電話をかけ、私がいる日を聞き出して「来ることは秘密にしておいてください」と念押ししてお願いしておいたのだと言う。
様々にかけた彼女らの手間がうれしかった。

手間をかけているとわかるのは、私がいる日と休みを合わせてくれたことがわかるから。
なぜなら、一人の女性は、大きな病院でバリバリ働いている看護師。
私がいる日と、平日の日中が休みの日と合わせてくれた。
ありがたい。

そして、もう一人は、4歳と1歳の2児の母。
ここからは、1時間半くらい車を運転しないと来られない。
冬の雪道なのに、わざわざ来てくれた。
しかも、手土産に持って来てくれたのは、自分で作ったというチョコマフィン。

彼女は、かつて名の知られた菓子店で働いていた。
わざわざ作って持って来てくれたのだ。
うれしいなあ。


私が担任していたのは、彼らが5,6年生の時だった。
個性的で、男子も女子も仲間を大切にする子たちだった。
私にとっては、担任生活最後の1つ手前の子どもたちだった。
担任として、最後の卒業生だった。
彼女たちは、2年前の夏にばったり再会した、Rさんと同級生である。

昔の話やら、今の話やらをいろいろとしたのだった。
母となっている彼女は、子育てに手を焼いていると言っていた。
子育ての専門家とも言える私の考えを、いろいろと伝えたりもした。
1時間余りの時間があっという間に過ぎてしまい、玄関で2人を見送った。

二人とも、いずれも、頼もしい社会人となっていた。
この仕事をしていると、このように成長した姿に会うのが、最大の喜びだ。
24年前の私の年齢に、彼女たちは到達している。
自分は、あの当時子どもたちのためにがんばったつもりだったが、それゆえにハチャメチャなこともしてきた。
でも、成長して、大人として本当にしっかりと今を生きている。
力のない私だったが、子どもたちの可能性は、それをはるかに越えていく。


もらったマフィンケーキは、家で家族と共にいただいた。
「久々に本当においしいと思えるお菓子を食べた。」
と、妻が言う通り、とてもおいしかった。
菓子店で磨いた修業の腕も、さびついていなかった。

24年ほど前、あなた方と一緒に時間を過ごせた私は幸せだった。
私には、24年はあっという間だった。

あの頃も、そして今日も、

本当にありがとう!

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30年前の子どもたちとの同級会

2017-01-08 22:49:22 | 「育」業
もうすぐ定年退職だということもあって、昔の教え子が同級会を開いてくれた。
私と隣のクラス担任だった方を招いてくれた。
昭和から平成に変わる時の時の子どもたちだ。
彼らは、今年一般に40歳を迎える。
2つのクラスで50人ほどいたのだが、今日集まったのは10人ほどで、どういう訳かすべて男性だった。

あの頃は、小学校でも毎日部活動を行っていた。
今となっては信じられないが、あの頃は、県内では多くの小学校では、放課後に部活動をやるのが当たり前だった。
といっても、だいたいは野球、ミニバスケットボール、あるいは水泳などのスポーツが中心で、大きい学校だと合奏や合唱などもやっていたりした。
今回集まった人たちが小学校5,6年生の頃、私は、毎日野球部の活動の指導を行っていた。
毎日野球をやっていたが、この学年の子どもたちにはスーパースターはいなかった。
つまり運動能力の高い子はいなかったのだ。
だけど、野球の試合となると、みんなで力を出し合って、どことやっても結構いい試合ができるようになったりしたのだ。
なぜかというと、一人一人の個性をうまく生かせたからだ。
球を取るのはうまいが肩が弱い子を2塁手にしたり。
ランナーになった時に、相手投手がなぜかおちょくられた気分になるような不思議な子がいて、大相のスペシャリストにして起用したり。
練習してもうまくならない子を「お前は、5回振れば1回は当たっていい当たりをする。だから、3回全部思い切り振って来い。ただ5回に1回だから、当たらない時もある。そういう時は、三振しても胸張って帰って来い。」と代打に出したり。
5年生の時は、肥満気味で練習も不真面目だった子が、6年生ではチームの4番を任せ、第2投手として起用できるようにもなった。
練習試合をすると、勝ったり負けたりだったりはしたけれども、それでも大会では前年度優勝チームに勝って3位になった。
この代の子たちは、そういう夢のあるチームだったのだ。
「小学校の時は、本当に野球が楽しかった。」
そう言いながら、酒を酌み交わした。

そして、何よりうれしかったのは、彼らのほとんどがよいオヤジになっていたことだ。
彼らの今の職業は、会社員や自営業であったけれども、皆自分のしていることに自信を持ち、がんばっていることがわかった。
そして、家族に対しても、ただ優しいだけの物わかりのいいオヤジではなく、一家の家長らしい貫録をもっていた。
彼らの子どもたちも、上の子どもたちは高校生や中学生が中心である。
自分の子どもの進路について考える時も、単純に親の考えを優先するのではなく、子どもに本当にどうしたいのか、とことんまで考えさせ決めさせている。よその親が、うちの子はダメだからとか言って、勝手に決めつけているのを見ると腹が立つ。
そんな風に話したのは、小学校時代は、わんぱくで遊んでばかりいた子だ。
言うことに太い芯が通っていた。
その成長ぶりが頼もしかった。

こんなふうに10人と話し、本当に楽しい時間を過ごした。
3時間があっという間に過ぎてしまった。
もう、彼らが中心となる時代だ。
私にとって目指しているのは、「将来の自立」だ。
だからこそ、現在しっかりした社会人となって生きている彼らに会えたのは、最大の喜びであり、うれしかった。


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持久走記録会

2016-10-07 22:34:19 | 「育」業
勤務先で、持久走の記録会があった。
定年前最後の1年、ということであった。
もうこのように子どもたちががんばる姿を間近で見ることはなくなるのかもしれない、と思った。
あちこちの学校で、持久走の大会や記録会が行われているけれども、小学校の学習指導要領では、1~4年生では、持久走をしろとは書いていない。
しかも、その内容だが、1・2年生では、

一定の速さでのかけ足について、
「無理のない速さでのかけ足を2~3分程度続けること。」
これしか求められていない。

3・4年生でも、一定の速さでのかけ足として、
「無理のない速さでのかけ足を3~4分程度続けること。」
くらいでしかないのだ。
決して、長い距離を走って、我慢強く走り通すこと、なんて書いてないのである。

では、5・6年生では、というと、
やっと持久走と書いてあるが、
「無理のない速さで5~6分程度の持久走をすること。」
この程度である。

無理のない速さで5~6分走って、どのくらいの距離が走れるだろうか?
せいぜい1kmくらいでしかないだろう。
ところが、高学年だと2km以上走らせるところが多いだろう。
低学年でも、2~3分などではなく、1km近く走らせているのではないだろうか。
そう考えると、各校の持久走で子どもたちに走らせている距離というのは、実は長すぎるのである。
それでいて、先生たちは、自らは走らないで、子どもたちに、
「歩かずがんばって走れ。誰でもみんな苦しいんだ。」
なんて言って、無理やり走ることを強いるから、みんな持久走が嫌いになるのである。

先生のすべきことは、一人一人の「無理のない速さ」を見つけてあげて、気持ちよく走れるようにしてあげることなのである。
決して速さや、所定の時間以上走れることなどを求めるだけではいけないと、私は考えるのだ。

勤務先では、その考えにのっとった形で持久走記録会として行われた。
本番で歩き出す子は、本当に少なかった。
皆、完走したヒーローであり、ヒロインであった。

その様子に、つい3つのレースに混ぜてもらって走った。

3回走ったら、走行距離は5kmとなり、ちょっとがんばりすぎた。
翌々日には体のあちこちに痛みが出てしまった。
痛いところがあるのに、日曜日に新潟シティマラソンを控えているのに、無謀な走りをしてしまったことを後悔してしまう私なのであった。
まあ、これが最後の子どもたちとの走りなのだから、それでも深く悔いることはないのだが。
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最後の「付き添い佐渡」

2016-06-18 14:18:15 | 「育」業
職業柄、6月は、「付き添い旅行」に出ることが多い。
4月であったりすることもあるのだが、だいたいはこの時季。
この時期、新潟県内からそのために出かけて行く先は、SADO。
そう、佐渡である。
新潟県に住んでいながら、県内の観光地佐渡にはそんなに行く機会がない。
やはり海を越えて行くと、フェリーやジェットフォイルなど船賃がかかる。
見どころが多いことは確かなのだが、なかなか行くぞというところには至らないのだ。
だから、小学校の修学旅行的な行事の行先として、佐渡を選ぶことが多い。
県内を知らずして、県外に行くべからず!?
6月がその旅行シーズン。
トビシマカンゾウなどが咲き乱れ、暑くもなく寒くもなく、実にいい感じの時季なのだ。

新潟県内の小学校からは、以前は会津若松方面に行くことが多かった。
自然あり、歴史ありの好条件の土地が会津だった。
私も、自分が小学生の時の修学旅行の行先は、会津方面だった。
また、この仕事に着いてからも、今まで7,8回引率して出かけた。
それが、急に佐渡に変わった、ということが5年前に起きた。
起きたのは、東日本大震災。
震災被害に原発問題が重なり、大した問題がないはずの会津方面も、「福島県」というだけで、保護者からの反発が起きたのだ。
そこで、急きょ行先を佐渡にした、というところが少なくない。
最近は、会津方面に戻そう、という動きもあるが、戻らずそのまま佐渡、というところが多い。
佐渡は、歴史でも自然でも、体験的に学ぶことができるスポットが豊富なのである。
例えば、金山・銀山の遺跡は、世界遺産の登録を目指している。
例えば、朱鷺の繁殖、野生化である。
その気になれば、何通りもの見学・体験コースができる。


【飛んでくるカモメにえさをやる】

【ときの森公園でときを見る】

【相川金山で昔の鉱山の様子を見る】

【西三川で砂金採り体験…ほんとにちっちゃいけど、こんなのが採れる】

【たらい舟は楽しそう】

【トビシマカンゾウやイワユリが美しい…今年はピークを過ぎた】

佐渡島内は、さすが修学旅行シーズン。
佐渡のあちこちで、県内各地から来ている小学校の団体とかち合った。
その中には、私同様に今年が最後の「付き添い」となっている方々がいた。
子どもにとって、小学生時代の最大の思い出となる、この旅行。
具合の悪くなる子も、ケガをする子もいなくて、なによりであった。
付き添っていくのは、今年で終わりなのだな、と改めて思い、ちょっぴり寂しかった。

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「史上最強の教え子」Rさんとの再会

2015-08-10 22:42:55 | 「育」業
夕方になっても、30℃を超える暑さが続く。
運動公園で10km余りを走り終えると、体じゅうが汗でびっしょりだった。
公園の水飲み場で顔を洗い、手足に水をかけ、一息ついていた時だった。
物陰から、2歳くらいのかわいい女の子を連れた男性が歩いてきたが、私を見て、驚いたように叫んだ。
「………先生!?」
固有名詞で私を呼んだ。
その男性の顔を見ると、眼鏡をかけていて丸顔に近い顔。
「どこかで見たような―。」と思って、じっくり顔を眺め出したら、その眼鏡顔の下から、思い当たる懐かしい顔が、浮かび上がってきた。
その瞬間、その男性は、自ら名乗った。
「H……R……です。」
「おお、やっぱり。Rさんかあ。びっくりしたよ。」
「ぼくもびっくりしました。今月の下旬に2人目が生まれるので、妻と共に里帰りしているんです。」
思いもよらぬ再会に、互いの言葉はさらに続いた。
「たしか、奥さんは高校の同級生だったよね。だから、市内の出身なんだ。」
「はい。そうです。いやあ、先生にはお会いしたいと思っていました。」
「今は、あなたも、東京で小学校の先生をがんばっているのでしょ。今年は、何年生の担任?」
「今、6年生の担任です。その上、学年主任です。」
「そうかあ。でも、あなたは、子どもの頃から周りの人たちの心をつかむのがうまかったから、大丈夫だよ。」
そう言いながら、心は、20数年前の小学校時代の忘れられない思い出がよみがえってきた。

彼は、私にとって「史上最強の教え子」だった。
級友の信頼も厚く、いつも周囲の子どもたちを笑わせたり、遊びの中心となったりしていた彼だった。
しかし、2つ年上の兄と違って、彼は、スーパーマンではなかった。
テストの出来は、中の上と言ってもよいくらい。スポーツは好きだったが、目立った実績がない。
水泳では、がむしゃらに泳ぐクロールはそんなに速くなかった。練習の結果、飛び込みだけはうまくなったが。
ミニ・バスケットボールでは、シュートもドリブルもそんなにうまくはなかった。リバウンドだけは、背が高くないがオレが取る、というファイトにあふれていたが。
不器用さはあるが、いつでも明るく仲間を思い、堂々としていた彼だった。
そんな彼が「史上最強」だったというのは、相手が教師だろうと年上だろうと、いざという時には、正しいと思った自分の思いをしっかりと主張し、行動していたからである。
担任である私に対しても、それは変わらなかった。

ある日の体育の時間に、こんなことがあった。
彼の好きなミニバスケットボールで、強さが同じくらいになるように、担任の私が男女混合で5人ずつのチーム編成を決め、試合を行った。
ところが、彼のチームは、連敗した。
情けない負けっぷりに、彼は、体育館で私に対し、大声で叫んだ。
「なぜ、オレのチームをこんなに弱い奴らと一緒にしたんだ。こんなチーム編成では勝てる訳ないじゃないか。お前は担任のくせに、なんでこんなにひどいチーム編成にしたんだ!!?」
私は、応えて言った。
「うるさい。何を言ってるんだ。お前なら、このチームでも強くできると思って、組んだんだ。それなのに、何だ、弱音を吐くだけか。お前なら、しっかり作戦を立てて、しっかりリーダーシップをとって、チームのみんなを生かしてがんばってくれると期待していたんだ。それが、何だ。作戦なんか一つも立てられないで、負けると仲間のせいにする。見損なったよ。お前に期待した俺が馬鹿だった。」
「なんだ。担任のくせにいい気になって、好きなことばかり言いやがって。いいわい。わかった。見てろ、次の試合。絶対勝ってやるからな。お前のその担任ヅラ、鼻を明かしてやるからな、覚えてろ。」
体育館は、私とRの言い合いに、他の子どもたちの動きは止まっていた。
同じく体育をしていた隣の学級の先生や子どもたちまでが、息を止めて心配そうに私たちを見つめていた。

翌日、教室に行ってみると、Rは気まずい様子も見せず、笑顔で私を呼び止めた。
「先生、今日は、作戦7つ考えてきた。今日の試合が楽しみだ。」
にこにこしながら話す彼に、昨日の言い争いは何だったのだろうと思えるほどであった。
屈託のない彼の笑顔に、まだ昨日の気まずさを引きずっている自分の方が人間的に小さいな、教師のくせに、と私は自分を恥じた。
やがて午後になり、体育の時間、今日の対戦相手はそれまで結構勝っているチームだった。
彼が立ててきた作戦の指揮の下、チームメートたちもがんばった。
もともと周囲の子に対して気遣いのできるRなのに、昨日はあんな言葉をRに吐かせてしまった、という申し訳なさが、チームメートたちにはあったのである。
Rのチームには、一人一人が自分のやるべきことを懸命にやり、一体感があった。
試合は、Rたちのチームが完勝。
ついに、上位の相手に初勝利をあげた。
「どうだ、先生。やったぜ、オレたち。」
「ああ。やったなあ。さすがRだぜ。」
そう私も賛辞を贈ったのであった。

私は、自分の思いをもって生きている存在が大好きである。
それが子どもであろうと、そういう人は、尊敬に値すると思っている。
子どもであっても、間違いなく彼はそういう存在であった。
私に反感を抱くことがあっても、実際に刃向うように対立してくるような子どもは、他にいなかった。
だから、彼こそは、私にとって「史上最強の子ども」なのだ。
そして、その生き様もしっかりしている。

その後、高校は地元の進学校に進んだ彼だったが、大学に進むには他の人より3年も多くかかった。
そして、その後教師を志望し、東京都で適応指導教室の指導員の先生を行ったり、臨時教員をしたりしながら、実に長い時間を要したのであった。
ようやく待望の教員になったのは、通常の人よりも何年も後のことと言えた。
そのようにして東京都の正式教員になった彼であったが、今は信頼されて最高学年6年生の担任、しかも学年主任だ。
そして、今はこうして1児の、もうすぐ2児の父。
大人になってからも、ここまで相変わらず器用ではないが、実に誠実で着実に人生を歩んでいる。

この仕事をしていて、私が最もうれしいのは、かつての少年少女が現在しっかり地に足をつけて生きていることである。
この日、またその成長を見ることができた。
「今日は、うれしかったです。」
と言って、彼は、握手の手を差し伸べてきた。
「今、手は走ったばかりで汗だらけだから。」
と言って、ちゅうちょする私に、
「かまいません。」と言って、汗に濡れる私の手を握ってきた。
私もそれに応えた。
握手した後、「互いにがんばろう」と私は言って、こぶしを握り、彼のこぶしとぶつけ合った。

どんどん定年に近づいていく私。
跡継ぎ、という訳ではないが、彼なら子どもたちのためにしっかり体を張ってがんばってくれることだろう。
がんばってほしい。
私も、自分のできる範囲で、がんばるからね。

しっかりした社会人として生きている彼。
同じ仕事を選んでくれた彼。
頼もしいなあ。

家に向けて再び走り始めた私の足どりは、信じられないほど軽くなっていた。


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今年も中学校の卒業式を見て、泣いてしまった…

2014-03-07 22:07:18 | 「育」業
今年も、中学校の卒業式に行ってきた。
去年は、卒業する生徒たちの立派な姿に、思わず涙を流してしまった。
今年は泣くことなどないだろうと思いつつ…。

去年の場合は、歩くことに不自由を感じる生徒を待ってあげたり助けてあげたりする姿が見られた。
その姿が、あまりにも自然だったのだ。
同じ仲間として寄り添う思い、「一緒に卒業しよう」という思いを、どの生徒からも感じることができた。
そのあとは、卒業式後、卒業生の合唱で、泣かされた。
「旅立ちの日に…」を歌う卒業生たちは、万感胸に迫ったのだろう、歌い進むうちに、涙をボロボロ流す子が多くなった。
でも、歌声は、しっかり出ていた。
涙が出ると、歌えなくなるものだ。
それなのに、生徒たちは涙を流しながら、しっかり声を出そうとするのだ。
それだけでもすごいことだ。ジーンとしてきた。
そして、2番を歌い終えて間奏になったとたんに、泣いていた生徒たちが全員、袖で涙をぬぐって、一気にはなをすすった。
涙をふき、はなを抑え、最後の盛り上がりの部分をしっかり歌い切ろうとしているのだ。
その姿に、もう私は出てくる自分の涙を止めることができなかった。
すばらしい卒業合唱だった。

あれから1年。今年の中学校の卒業式でも涙をおさえられなかった。
今年は、卒業生代表の答辞で泣けた。
代表の子は生徒会長も務めた彼女だけに、内容もすごくしっかりしていた。
話す前から感情が高ぶっていて、何度も涙声になりそうだった。
でも、彼女は泣かない。
泣き出したい気持ちを必死におさえ、答辞の言葉を一つ一つ感情をこめて話していった。
突然、彼女が、体の向きを職員席に向け、頭を下げた。
「用務員の○○さん。いつも私たちのだめに見えないところで仕事をしてくださってありがとうございました。おかげで、でこぼこのグラウンドが、部活に出る頃にはいつもきれいに整備されていました。各教室のストーブに灯油を入れてくださったおかげで、私たちは気持ちよく授業を受けることができました…。」
(少々違うかもしれないが、概してこんな内容だった。)
こんなふうに、調理員さん、事務員さんたちにも名前を言いながら呼びかけ、お世話になったことを具体的に話し、介助員さん・先生方、地域の方々、保護者の皆さん、在校生、同級生…それぞれには話のたびごとに頭を下げ、感謝の心を込めて話を進めていった。
彼女の話に、会場の全員が引き込まれていきた。
私の近くに去年小学校を卒業した、顔を知っている1年生たちが並んでいた。
Aさん、Bさん、Cさん…たちの顔も、涙でぐしゃぐしゃだった。
大きな感動をもって、答辞は終わった。
やがて、卒業証書授与式は終わった。
ステージを整備して、次は、全校生徒の合唱「旅立ちの日に」、そして卒業生の卒業合唱「桜ノ雨」だった。
先ほど、涙をこらえながらすばらしい答辞を行った彼女は、今度は、微笑みを浮かべながら歌っていた。
歌が進むにつれ、卒業生たちには涙を流しながら歌う生徒が多くなった。
それも、男女を問わず、何人も。
感涙にむせびながら卒業していけるというのは、なんとすばらしいことだろう。
充実した中学校生活なしには、この涙は流せないことだろう。
去年の卒業生と同様に、今年の卒業生たちも、泣きながら懸命に最後の歌を歌い続けるのだった。
もう、この姿は、伝統と言ってもいい。
すごい。
やがて、合唱が終わり、涙を流した卒業生たちは、少し照れたように笑いながらあるいは涙をふきながら、満足そうに式場を退場していった。

去年も今年も、このように感激する中学校の卒業式を見せていただくと、義務教育の終了を、この地区の子どもたちがとても幸せな思いで迎えていることを、心からうれしく感じる。
小学校生活を終えた子どもたちが、その3年後にこのような姿で卒業している。
そのことを考えると、同じ仕事をなりわいとしている者として、中学校の先生・職員の方々に、深い感謝の気持ちを表したくなるのだ。


中学校3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます!
そして、中学校の職員の皆様、本当にありがとうございました!

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無冠に終わった赤組団長の姿が、子どもたちの心を動かす…

2013-07-06 09:30:49 | 「育」業
新潟県の小学校では、大半の学校が運動会は、5月下旬の開催だ。
ひと月以上たったが、子どもたちの思いがあふれたいい運動会になった。

運動会は、一般に、赤白の対抗戦である。
赤白は、源氏と平氏に由来しているという説が強いのだという。
児童生徒数が多いところでは、赤白ではなく、青や黄、紫や緑なども入っての対抗戦となるところもあるだろう。
だが、当校では、もっとも一般的な赤白の対抗戦であった。

対抗して、勝負を争うのは、2つある。
まず徒競走や興味走、団体戦などの入った「競技の部」である。
まずは、これこそが、運動会の一番の勝負である。

次の勝負は、「応援の部」である。
赤組あるいは白組が一つのチームとなって、集団で応援を演技し、そのできばえを評価してもらい、どちらが優れていたかを判定し、勝負を決めるのだ。
この判定が難しい。
評価の項目がしっかりしておれば、それに基づいて採点してもらうことで、1位・2位が決まる。

ところが、これを採点する大人が、時々変な思いやりを入れる。
思いやりと言いながら、判官びいきを行う。競技で負けているチームに、応援の投票を入れるのだ。
午後の部の最初に行われた応援合戦は、白組の方が評価が高かったのである。
確かに白組の方が、まとまってきびきびしたよい動きを見せていた。
そこに判官びいきが加わることが多いので、白組、応援の部はもらったな、と思えた。
競技は赤組の勝ち、応援は白組の勝ち、と両チーム1つずつ優勝で、ちょうどよいだろう。
皆、そのような思いを持っていた。

ところが、午後の部に行われた様々な団体戦で、ことごとく白組が勝ってしまった。
白組、大逆転の2冠であった。
無冠に終わった赤組。競技に応援に懸命にがんばったけれども及ばなかった。

責任感から赤組の団長の女の子は、涙にむせんだ。
酷なことに、赤組・白組の団長には、閉会式の壇上で感想を発表するという大役も残っていたのだった。
感想発表の壇上で、感情が高ぶって次から次へと涙があふれ、なかなか言葉を出せない赤組の団長。
突然、敵側だった白組の列から、太く大きな言葉がかけられた。
「がんばれ!」
そして、その言葉に呼応して、閉会式に並ぶ子どもたちから、赤白や学年に関係なく、「がんばれ!」の声が次々に飛んだ。
赤組団長は、泣きながらも懸命に声をふりしぼって話し出した。
「応援賞も、優勝もとれなかったけど、みんながあきらめずにがんばってくれてよかったです。ありがとうございました。」

下の学年の子どもたちは、次のように思いを語っている。
「応援団長の二人は、人一倍がんばっていて、応援団も力を合わせてがんばっていたので、涙が出そうになりました。」
「結果的に白組がW優勝できたけど、赤がいなかったら楽しくない運動会になったし、赤組がいたからこそ、この運動会は成功したんだということを学びました。」
「協力・全力で本気でがんばりましたが、白組にW優勝をとられてしまいました。みんなの個性を大切にして、来年こそW優勝してみせます。」
「応援団長が泣きました。そんなに、全力を尽くしてがんばったんだな。…私はその時そう思いました。…そうだ。私もああなりたい。みんなのためにがんばれる今年の赤組の団長さんのように!」

これが、両者1つずつの優勝、ということだったら、このような感動は味わえなかったことだろう。
全力を尽くし、集中してがんばったからこそ味わえる、負けの無念さ。
互いに全力を尽くしたからこそ味わえる勝利の素晴らしさ。
自分たちが勝ったからよかった、ではなく、敗者に対しても励ましの言葉をかけられる子どもが育っていること。
無念さを味わいながらもがんばった赤組団長の姿に、心から感じるものが多かった下級生たち。

子どもたちは、こうした経験を積み重ね、成長していく。


様々に全力を尽くし、思いの表れたすがすがしい運動会となった。
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たしか、高校の創立記念日…???

2013-04-24 22:35:06 | 「育」業
前から読んでも、4・2・4。
後ろから読んでも、4・2・4。
…ということで、覚えやすかったから間違いないと思うのだが、今日4月24日は、母校だった高校の創立記念日だったような覚えがある。
昔は、そのために休みにしていたこともあったのでは?
でも、今朝、そばを通ったら、普通に通学していたようだし、夕方も当たり前のように部活をやっていた。
休みではないな。
もっとも、このご時世で創立記念日で休みにする公立高校などないだろうなあ…。

この記念すべき日に(?)、去年の夏の同級会以来久々に、高校の同級生Oに会った。
O氏は、中学時代は野球部のピッチャーだったし、高校時代は、全身バネのような体で、スポーツでは大活躍だった。
そんな彼も、近年体調を崩して、大変だったことがあったようなのだけど、今は元気に職を探しているのだとか。
自分のことより、がんで入退院を繰り返したMのことを、心配して、
「がんで入退院したというのに、こりずに煙草をスパスパやっているのは、困ったもんだ。」
「人が心配しているというのに、全然聞く耳をもたないのだから。」
「がんにはレベルがあるから、あいつはこのままだと上がっていって、長くはないぞ。」
などと、いろいろと話してくれた。

高校の創立記念日に、高校の同級生と久々に会うとは、よくできた話である。
あれから40年。
体のガタは来ているが、互いに元気でいたいものだ。
そんな話をしてOと別れた、高校の創立記念日であった。





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