東日本大震災から8年。
風化させてはいけない。
今もその日からずっと続いているものがあるのだから―。
2年前の3月、あの当時は震災から6年たっていたが、全然知らない子どもたちが多くなっていた。
少しでもきちんと伝えなくては、という思いが強くなっていた。
そんな思いから、子どもたちに話をしたことがある。
親類から教えてもらった写真を拡大して映しながら、話をした。
(今回その写真は載せていない。)
短い時間だったので、うまく伝えられたとは思っていないが…。
3月は、学校では1年の終わりの月です。卒業式があったり終業式があったりしますが、私の心は、6年前にあった東日本大震災を、今も終わったこととは思えずにいます。
東日本大震災では、地震や津波などで、約1万6千人の命が失われました。そのうえ、今でも2500人余りの人が見つかっていません。
昨日も、その余震とみられるような地震が宮城県・福島県沖の海で起きていました。
東日本大震災が起きたのは、もう、6年も前になります。
皆さんの中で覚えている人はほとんどいないかもしれませんが、今6年生のAさんは、その地震があったとき、仙台に住んでいたので、よく覚えているそうです。話を聞いたら、住んでいた家のそばにあった幼稚園から家に帰ってまもなく、すごく揺れたそうです。揺れがおさまるまでが長くて、家の床から立たずに座っているしかなかった。電気も切れてしまったので、明かりもつかず、冷蔵庫もきかなくなってしまって、食べ物もあまりなくて大変だったと言っていました。そのために、新潟のおばあちゃんの家に避難して何日も過ごしたのだそうです。楽しみにしていた幼稚園の卒園式も出られなくなってしまった。だから、小学校は、ちゃんと卒業式をしたいと話していました。
私には、福島県のいわき市というところに、いとこがたくさんいます。海のそばだったので、この大地震で大きな津波が来て大変でした。そのいとこが卒業した学校は、なおさら大変でした。
これは、その学校の入口の様子です。
近くのビルや倉庫が、地震と津波で傾いてしまっています。
①は学校の入口の看板、②は学校の校門です。
どちらも倒れてしまっています。
建物の中心の時計は、津波が来た時間で止まっています。
二宮金次郎の銅像は、落っこちてしまいました。
子どもの頭ぐらいまで津波が来たことがわかります。
先生たちの車は、波で、体育館わきの入口に流されていました。
体育館の中は、ピアノまで流されていました。
グラウンドには、大きな穴が開きました。
教室の中は津波でぐちゃぐちゃになりました。廊下に流されてきた先生の車が写っています。
学校の近くのコミュニティセンターは、こんなふうにめちゃくちゃになっていました。
学校の子どもたちは、自分の学校で学べず、バスに乗って毎日何キロか離れた中学校へ通いました。中学校の教室を借りて勉強するためです。何か月も続きました。
2か月ほどたってから、子どもたちは、休みの日にこうして自分たちの学校を大人と一緒に掃除しました。
少しでも早く元の学校に戻りたいと思ってのことです。
ひどいことになった人たちには、家に戻ることができなくなった人たちもいます。
地震で、福島県にあった原子力発電所が事故になり、そこから出ている放射能という目に見えない危険なもののせいで、今までの場所に住んでいられなくなった人たちがたくさんいるのです。
だから、6年前から突然自分の家に戻れなくなって、ほかの場所に移り住む人たちが多くいました。
大変な思いをしてきたのに、「放射能がうつる」などとと間違った考えをもった人たちに嫌われたり、ばい菌扱いされたりして、すごく辛い思いをしている人たちもいます。
言われている人たちは、どれだけつらい思いをしていることでしょう。
突然地震や津波で、死にそうになるほどの思いをしたというのに。
家族や親類や友だちに死んだ人がいてつらい思いをしたというのに。
家に戻りたくても戻れないから、たくさんの友達と別れてきているというのに。
それなのに、どうしてひどいことを言われなくてはいけないのでしょう。
今でも、わたしたちの市の人口のほぼ倍の18万人が、震災の前に住んでいた家に戻れないでいるのです。
困っている人を助けてあげられるから、人間らしいのだと思います。困っている人のことを考えられず、相手を苦しめていることを考えられないのなら、人間の心がないと思います。
わたしたちの小学校は、人権教育・同和教育に力を入れています。困っている人のことを本気になって考えている学校です。どうか、困っている人のことを、自分のことのように、本気になって考え、助けてあげる人であってほしいと思います。
東日本大震災のことで、今も苦しんでいる人たちは、たくさんいるのです。このことを忘れてほしくありません。
風化させてはいけない。
今もその日からずっと続いているものがあるのだから―。
2年前の3月、あの当時は震災から6年たっていたが、全然知らない子どもたちが多くなっていた。
少しでもきちんと伝えなくては、という思いが強くなっていた。
そんな思いから、子どもたちに話をしたことがある。
親類から教えてもらった写真を拡大して映しながら、話をした。
(今回その写真は載せていない。)
短い時間だったので、うまく伝えられたとは思っていないが…。
3月は、学校では1年の終わりの月です。卒業式があったり終業式があったりしますが、私の心は、6年前にあった東日本大震災を、今も終わったこととは思えずにいます。
東日本大震災では、地震や津波などで、約1万6千人の命が失われました。そのうえ、今でも2500人余りの人が見つかっていません。
昨日も、その余震とみられるような地震が宮城県・福島県沖の海で起きていました。
東日本大震災が起きたのは、もう、6年も前になります。
皆さんの中で覚えている人はほとんどいないかもしれませんが、今6年生のAさんは、その地震があったとき、仙台に住んでいたので、よく覚えているそうです。話を聞いたら、住んでいた家のそばにあった幼稚園から家に帰ってまもなく、すごく揺れたそうです。揺れがおさまるまでが長くて、家の床から立たずに座っているしかなかった。電気も切れてしまったので、明かりもつかず、冷蔵庫もきかなくなってしまって、食べ物もあまりなくて大変だったと言っていました。そのために、新潟のおばあちゃんの家に避難して何日も過ごしたのだそうです。楽しみにしていた幼稚園の卒園式も出られなくなってしまった。だから、小学校は、ちゃんと卒業式をしたいと話していました。
私には、福島県のいわき市というところに、いとこがたくさんいます。海のそばだったので、この大地震で大きな津波が来て大変でした。そのいとこが卒業した学校は、なおさら大変でした。
これは、その学校の入口の様子です。
近くのビルや倉庫が、地震と津波で傾いてしまっています。
①は学校の入口の看板、②は学校の校門です。
どちらも倒れてしまっています。
建物の中心の時計は、津波が来た時間で止まっています。
二宮金次郎の銅像は、落っこちてしまいました。
子どもの頭ぐらいまで津波が来たことがわかります。
先生たちの車は、波で、体育館わきの入口に流されていました。
体育館の中は、ピアノまで流されていました。
グラウンドには、大きな穴が開きました。
教室の中は津波でぐちゃぐちゃになりました。廊下に流されてきた先生の車が写っています。
学校の近くのコミュニティセンターは、こんなふうにめちゃくちゃになっていました。
学校の子どもたちは、自分の学校で学べず、バスに乗って毎日何キロか離れた中学校へ通いました。中学校の教室を借りて勉強するためです。何か月も続きました。
2か月ほどたってから、子どもたちは、休みの日にこうして自分たちの学校を大人と一緒に掃除しました。
少しでも早く元の学校に戻りたいと思ってのことです。
ひどいことになった人たちには、家に戻ることができなくなった人たちもいます。
地震で、福島県にあった原子力発電所が事故になり、そこから出ている放射能という目に見えない危険なもののせいで、今までの場所に住んでいられなくなった人たちがたくさんいるのです。
だから、6年前から突然自分の家に戻れなくなって、ほかの場所に移り住む人たちが多くいました。
大変な思いをしてきたのに、「放射能がうつる」などとと間違った考えをもった人たちに嫌われたり、ばい菌扱いされたりして、すごく辛い思いをしている人たちもいます。
言われている人たちは、どれだけつらい思いをしていることでしょう。
突然地震や津波で、死にそうになるほどの思いをしたというのに。
家族や親類や友だちに死んだ人がいてつらい思いをしたというのに。
家に戻りたくても戻れないから、たくさんの友達と別れてきているというのに。
それなのに、どうしてひどいことを言われなくてはいけないのでしょう。
今でも、わたしたちの市の人口のほぼ倍の18万人が、震災の前に住んでいた家に戻れないでいるのです。
困っている人を助けてあげられるから、人間らしいのだと思います。困っている人のことを考えられず、相手を苦しめていることを考えられないのなら、人間の心がないと思います。
わたしたちの小学校は、人権教育・同和教育に力を入れています。困っている人のことを本気になって考えている学校です。どうか、困っている人のことを、自分のことのように、本気になって考え、助けてあげる人であってほしいと思います。
東日本大震災のことで、今も苦しんでいる人たちは、たくさんいるのです。このことを忘れてほしくありません。