ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

2年前に子どもたちに話したこと~東日本大震災~

2019-03-11 20:05:10 | 「育」業
東日本大震災から8年。
風化させてはいけない。
今もその日からずっと続いているものがあるのだから―。

2年前の3月、あの当時は震災から6年たっていたが、全然知らない子どもたちが多くなっていた。
少しでもきちんと伝えなくては、という思いが強くなっていた。
そんな思いから、子どもたちに話をしたことがある。
親類から教えてもらった写真を拡大して映しながら、話をした。
(今回その写真は載せていない。)
短い時間だったので、うまく伝えられたとは思っていないが…。


3月は、学校では1年の終わりの月です。卒業式があったり終業式があったりしますが、私の心は、6年前にあった東日本大震災を、今も終わったこととは思えずにいます。

東日本大震災では、地震や津波などで、約1万6千人の命が失われました。そのうえ、今でも2500人余りの人が見つかっていません。
昨日も、その余震とみられるような地震が宮城県・福島県沖の海で起きていました。
東日本大震災が起きたのは、もう、6年も前になります。

皆さんの中で覚えている人はほとんどいないかもしれませんが、今6年生のAさんは、その地震があったとき、仙台に住んでいたので、よく覚えているそうです。話を聞いたら、住んでいた家のそばにあった幼稚園から家に帰ってまもなく、すごく揺れたそうです。揺れがおさまるまでが長くて、家の床から立たずに座っているしかなかった。電気も切れてしまったので、明かりもつかず、冷蔵庫もきかなくなってしまって、食べ物もあまりなくて大変だったと言っていました。そのために、新潟のおばあちゃんの家に避難して何日も過ごしたのだそうです。楽しみにしていた幼稚園の卒園式も出られなくなってしまった。だから、小学校は、ちゃんと卒業式をしたいと話していました。

私には、福島県のいわき市というところに、いとこがたくさんいます。海のそばだったので、この大地震で大きな津波が来て大変でした。そのいとこが卒業した学校は、なおさら大変でした。

これは、その学校の入口の様子です。
近くのビルや倉庫が、地震と津波で傾いてしまっています。
①は学校の入口の看板、②は学校の校門です。
どちらも倒れてしまっています。
建物の中心の時計は、津波が来た時間で止まっています。
二宮金次郎の銅像は、落っこちてしまいました。
子どもの頭ぐらいまで津波が来たことがわかります。
先生たちの車は、波で、体育館わきの入口に流されていました。
体育館の中は、ピアノまで流されていました。
グラウンドには、大きな穴が開きました。

教室の中は津波でぐちゃぐちゃになりました。廊下に流されてきた先生の車が写っています。
学校の近くのコミュニティセンターは、こんなふうにめちゃくちゃになっていました。

学校の子どもたちは、自分の学校で学べず、バスに乗って毎日何キロか離れた中学校へ通いました。中学校の教室を借りて勉強するためです。何か月も続きました。

2か月ほどたってから、子どもたちは、休みの日にこうして自分たちの学校を大人と一緒に掃除しました。
少しでも早く元の学校に戻りたいと思ってのことです。

ひどいことになった人たちには、家に戻ることができなくなった人たちもいます。
地震で、福島県にあった原子力発電所が事故になり、そこから出ている放射能という目に見えない危険なもののせいで、今までの場所に住んでいられなくなった人たちがたくさんいるのです。
だから、6年前から突然自分の家に戻れなくなって、ほかの場所に移り住む人たちが多くいました。
大変な思いをしてきたのに、「放射能がうつる」などとと間違った考えをもった人たちに嫌われたり、ばい菌扱いされたりして、すごく辛い思いをしている人たちもいます。
言われている人たちは、どれだけつらい思いをしていることでしょう。
突然地震や津波で、死にそうになるほどの思いをしたというのに。
家族や親類や友だちに死んだ人がいてつらい思いをしたというのに。
家に戻りたくても戻れないから、たくさんの友達と別れてきているというのに。
それなのに、どうしてひどいことを言われなくてはいけないのでしょう。

今でも、わたしたちの市の人口のほぼ倍の18万人が、震災の前に住んでいた家に戻れないでいるのです。
困っている人を助けてあげられるから、人間らしいのだと思います。困っている人のことを考えられず、相手を苦しめていることを考えられないのなら、人間の心がないと思います。
わたしたちの小学校は、人権教育・同和教育に力を入れています。困っている人のことを本気になって考えている学校です。どうか、困っている人のことを、自分のことのように、本気になって考え、助けてあげる人であってほしいと思います。

東日本大震災のことで、今も苦しんでいる人たちは、たくさんいるのです。このことを忘れてほしくありません。

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またまもなく学校がなくなる~ある学校の閉校~

2018-12-02 20:05:05 | 「育」業
このブログを始めた10年前は、県境の町に勤めていた。
単身赴任で勤めていたその学校が、来年3月で閉校するという。
あの頃には、在籍していた子どもの数が、72名いた。
ところが、現在は、29名。
10年で半減以上の急速な減り方である。

減っているのは、子どもの数だけではない。
来賓の県議が言っていた。

新潟県は、2009年から人口の減少が始まった。
毎年減少が続き、今は220数万人となっている。
平成22年と平成27年の国勢調査で比較してみると、
県の人口は、そのときから3%の減少だが、近くの市では5%の減。
この町では、12.5%の減少である。

…高齢化・少子化が進み、こんな現状となっているから、各地で学校の統合による閉校が進んでいる。

かつてこの地・この学校に勤務した職員は、皆言っていた。
「本当にいいところだ。」
と。

実際、そうだった、と私も思う。

職員が、教育活動に力を入れるほど、少人数であるがゆえに教育効果は上がり、子どもたちは力を伸ばしていった。
子どもの数は少ないが、子どもたち同士で助け合い、協力し合う心が育っていく姿をたくさん見せてもらった。

①保育園の頃、「Aにいじめられるから、行きたくない」と言っていた子Bは、小学校で学年が進むと、「〇〇の気持ちはわかる。
 オレが付き合ってやるよ。」というくらいに頼もしく成長していった。
反対に、少し乱暴なところがあったそのA児は、「B、いつもありがとな。」などと、周囲の子に素直に感謝できる人間として育っていった。
②算数の勉強時間中に、C児が「分からない~。」と声を上げて、困っていた。すると、D児が、「オレが教えてあげるよ。」と言って一生懸命に教えてあげ、C児はわかるようになり、「ありがとう」と礼を言っていた。
 数日後、再びC児が分からない様子を見せていたので、D児が近寄ると、「来なくていい。今日は、オレは一人でがんばってみたいんだ。」と言った。
 それを、D児は、苦笑しながら見て、「困ったらいつでも言えよ。」と言っていた。
…こういった姿が、本当の「学び合い」だと思えた。

今日の式典では、社会人として中堅を迎えたような卒業生がエピソードを紹介していた。

③算数の時間に、「Aさんが時速4kmで10km離れたところへ出発しました。その10分後、お父さんが時速60kmのスピードで出発しました。お父さんは、Aさんより何分早く到着しますか。」というような問題を解くときがあった。
珍しく私(その卒業生)は、手を挙げた。
先生は、私を指名して発表させた。
私は、「同時です。」と答えた。
周りの子たちは、「違う」と言ったけど、先生は、「どうしてそう思ったの?」と聞いてくれた。
私は、「お父さんだと、私が歩いているのを見て放っていかない。絶対車に乗せてくれるから、着くのは同時になります。」と、自信をもって答えた。
授業の終末、先生は、「今日は、算数の勉強のほかに、親子のつながりや優しさの勉強もできた。だから、彼に感謝しよう。」と言ってくれた。
そのことが忘れられない。


…こんなふうに、心を育てていた学校が、まもなくまた一つなくなる。
その寂しさを感じてきた今日でもあった。
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子どもに遊ぶな、と言わなくてはいけない~そんな暑さが続く~

2018-07-18 22:06:16 | 「育」業
連日すごいね、この暑さ。
7月も、まだ小中学校だって夏休みになっていないのに、岐阜県で、40度超えだって。
日本は、こんな暑さを7月に記録するような国ではなかったはずだがなあ。
私たちが子どもの頃だって、30度を超えるような日は珍しかったような気がするのだが…。

小学校の校内放送が聞こえるところでは、毎日こんな声が聞こえている。

「今日も、大変暑いため、熱中症予防情報が出ています。
今日の昼休みは、グラウンドには出ずに、校舎の中で過ごしましょう。
体育館でも、汗をかくような運動はしないで、静かに過ごしましょう。」

他県では、暑さで熱中症になり、校外学習から学校に帰って亡くなった小学生もいたとのこと。
このくらいは、仕方のない措置なのかもしれない。

しかし、暑くても元気に遊びたい子どもたちを、室内で静かに過ごさせるというのも簡単ではあるまい。
一般の人たちは、先生が言えば子どもは素直に従うと誤解している人たちが多い。
従える子どもばかりではないのだ。
じっとしてなんかいられないし、ストレスの発散もできないから、かえっていらついたりやる気をなくしたりする子が多いのが現実なのだ。
「あと〇日で夏休みだから、まず暑さに負けずにがんばろう。」と励ますのが精一杯のところだ。

全国的に見ると、豪雨被害に加えて猛暑となっている地域も広範囲に渡っている。
「がんばれ」と遠くから言うだけでなく、本当に国民の生活のために何が必要かを考え、何らかの具体策が必要なような気がするのだが…。
様々なことが、後手後手に回っているような気がするのだけどなあ…。
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卒業の日に訪ねて

2018-03-23 19:16:44 | 「育」業


3月23日金曜日。
当地周辺では、特別な事情がない限り、今日が小学校の卒業式。

昨年3月まで勤務していたところから案内状はもらっていたが、どうしたものかと迷っているうちに締め切りを過ぎてしまった。
あやまりながら出席の連絡をした。

久しぶりにかつての出勤ルートを車で進む。
1年もたつのに、懐かしいというより、当たり前の感じで体が勝手にハンドルを回す。
今日は、あいにくの雨だ。
せっかくの晴れの日なのになあ…。

1年前まで勤めていたということで、一緒に勤めていた職員とも何人かと会う。
だから、足を止めて話をした。
ただし、今日はほとんどの人が自分のすべき仕事をもっているから、話せた人はそんなに多くはなかったが。

式場となっている体育館に続く廊下には、卒業生たる6年生たちが列となって並んで待っていた。
その横を通ろうとすると、私の姿を見つけて「おおー。」とか「うわあー。」とか声を出して笑ってくれた。
すてきなほほえみだ。
今日の巣立ちの日にふさわしい、輝きのあるほほえみだ。
そして、進学する中学校の制服に身をくるんだ彼らの、なんと大きくなったこと。
普通の大人と変わらない背丈に成長していて頼もしい体つきになっていた。
笑って歓声を上げてくれる彼らに対して、思わず片手を上げてハイタッチしながら歩いてしまった。
こちらも、最高の笑顔で応えながら。

式場の体育館に入ると、入場を見守ってくれる在校生の子どもたちの目がこちらに注がれていた。
子どもたちの中には、何人も手を振ってくれる子がいた。
「久しぶりだね。ぼくは元気だよ。」
「わたしは、ここにいるよ。」
とでもいう気持ちを表しているかのようだ。
手を振る子どもの顔って、どうしてこんなに可愛らしくいとおしいのだろう。
なるべくたくさんの子どもたちの顔をみながら、案内された席に着いた。

さっきまでの笑顔は忘れたように、緊張した面持ちで入場する卒業生たち。
歩む方向を変える時の動きのぎこちなさが初々しい。

式は淡々と進んだ。
壇上に進み、呼名を受け、返事をし、卒業証書を受け取る。
壇上に立った一人一人の姿に、かつてかかわっていた時の様々な思い出がよぎる。
過ぎてしまえば、どれもこれも笑い話に過ぎなくなっていることがうれしい。
そのためにした苦労なら、した甲斐があったというものだ。

外は相変わらずの寒い雨が降っている。
体育館は芯から冷える。
しかし、卒業生たちの、緊張感に包まれながらも凛々しいその姿を見ていると、心が温かくなる気がした。

そして、式はクライマックスへ。
卒業生と在校生が向かい合って、別れの言葉を交わし合う。
一人で言う言葉は満場に聞こえるように。
皆で言う言葉は声を合わせてそろうように。
言葉の合間には、在校生の合唱があり、卒業生だけの合唱がある。
言葉も、歌も、いい声だった。
ピアノ伴奏をした子どもたちも、ミスなく弾き通した。

卒業生退場。
卒業生たちは、まだかたい表情で、しかしやり終えて一部ほっとした顔で、堂々と退場していった。

私たちも退場。
案内されながら式場を出て行く。
またたくさんの子たちと手を振り合いながら。

さようなら。
こうして皆がそろっている時に会いに来ることは、もうないだろう。
どうか、皆、元気で。
1年1年、大きくなっていくんだよ。
そして、今日の6年生のように、数年後それぞれここを巣立っていくんだ。
元気でね…。


迷ったけれども、やはり今日は参加してよかった。
自分に手を振ってくれる子たちがいた。
かかわっていた子たちのたくましい成長ぶりを見ることができた。

皆、焦らなくていいから、一歩ずつゆっくり未来に向かって進んでほしい。
祈りを込めるようにそんな願いをつぶやきながら、式場を後にしたのだった。



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3学期の始まり、がんばって。

2018-01-09 22:04:35 | 「育」業
1月9日火曜日。
火曜日は、私の勤務日ではない。
でも、今日は、2期制でなければ県内ほとんどの学校で3学期の始業式となったはずだ。
だいたいのところで17日間の冬休みがあったはずだ。
学校の先生にとっても、年末年始の6日間は少しはゆっくりできただろうか?
でも、年が明けて6日7日と普通なら勤務日となるはずが、今年は週休日だったから、しっかり準備をするのが大変だったのではないかな?
小学校であっても、一般に3学期の授業日は50日余りしかないはず。
中学校や高校だと、もっと短いことだろう。
非常に短いうえに、学年末だから、終わりが決まっている。
しっかり学年の学習を、どの子もわかるようにして終わらせなければならない、という重要なノルマがある。
それなのに、インフルエンザの流行が必ずあって、学校を休む子が出るのに学習も進めなくてはいけなくて、非常に苦しい日々が続くこともあるのだ。
今日は、たくさんの冬休みの宿題を子どもたちが置いていったことだろう。
まずは、それらに目を通すことが、本日中の仕事となったことだろう。

俗に、
1月は、行く。
2月は、逃げる。
3月は、去る。
…と言われるが、その通りだと思う。

さあ、3学期が始まった。
大変ないそがしい毎日になるけれども、がんばってほしいな。

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四半世紀ぶりに…

2018-01-05 22:30:54 | 「育」業
昨日は休みをとったので、今日が仕事始めの私。
昼食をとるために、知っている飲食店に行った。
ひょっとすると、そこのご子息が帰省しているのではないかな?と思ったのだ。
いたら会いたいな、会えるといいな、と思っていた。
会えなくても、そこの店のご夫婦は気がいいので、楽しい話ができると期待しながらドアを開けた。

昼食時間だけに店は混んでいた。
中に入ると、そこの奥さんが、「今年もよろしくおねがいします。」と言ってくれた。
調理場からは店主兼料理人のおやじさんが、調理しながら頭を下げてくれた。
「おお。」
と、驚きの声で迎えてくれたのは、カウンター席に座った二人の男性だった。
一人は、私が今日なら会えるかも、と思ったHさん。
もう一人は、その友人で、双子の小学生を連れたお父さんとなっているNさん。
実は、この二人は友人同士で、どちらも四半世紀前の教え子。
彼らは、5回卒業学年を受け持ったが、その最後の代の人たちであった。
彼らと私は、同じトリ年の生まれだが、2回り違う。
彼らを受け持っていた時、私は36歳だったし、その時彼らは12歳。
そして、その年勇退された校長は、60歳だった。
その年の差分以上の分、年月が立った。
私は、あの当時の校長の年齢を越え、彼らはあの当時の私の年齢を越えた。
あれから25年かあ…と思いながら、彼らを見つめると、あの頃の私の方がずいぶん危なっかしい(?)存在だったのだなあ、と思う。

ここは親父さんが厨房で1馬力でフル回転しているので、混んでいる時は注文したものが出てくるまで、たっぷりと時間がかかる。
しかし、その時間がまったく苦にならないほど、いろいろ会話していた。
Hさんは、仕事でかなりの間、ヨーロッパに滞在した経験があるが、「やっぱり日本が一番いい。」と言っていた。
父となっているNさんは、両脇の椅子に双子の娘を座らせながら、娘たちにもいろいろ語りかけていた。
私、Iさん、Hさん…この3人で座って話をするのも、四半世紀ぶりだ。
私にとって、自分のしてきた仕事を思うと、しっかりした社会人となって今を生きている彼らの姿を見るのが、最大の喜びだ。

私が知っている範囲で、彼らの同級生たちの近況を話していると、あっという間に時間が過ぎていく。
「いけない。電車の時間が近づいた。」
と、Hさんは立ち上がった。
Hさんは、国内にいるが、飛行機あるいは新幹線を乗り継いで行かないといけない、ちょっぴり遠方に住んでいる。
友人のIさんが車で送ってあげるのだと言う。
小学校時代は、もう四半世紀前になっているのに、ずうっと友人でいられるのはいいなあ、とも思った。

よかった、二人に会えて。
過去は取り返せない。
だから、彼らがかつて私と過ごした時間をよいものだったと言ってくれることは、非常にうれしい。
間違いなく元気をもらった思いがした。
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「命を粗末にするな。」

2017-12-05 21:57:15 | 「育」業
近年心痛むのは、10代を中心とした子どもの命が大切にされずになくなっていくニュースをよく見ることだ。
簡単に人の命を奪ったり自らの命を失うことが起こったりしているのは、この世の中を歩いてきた大人として、苦しくなる。

先月、話を聞いた大学の先生が、自らの子ども時代のいじめ経験を語りながら、
「つらかったけど、あの頃は、子どものぼくに自死するという選択肢はなかった。」
とも言っていたことに、私は自分の経験上痛く同意した。

振り返ると、50年ほど前、われわれの子ども時代には、「命を粗末にするな。」と口をすっぱくして言う大人が今よりたくさんいたような気がする。
ともすれば、それを言っていた大人たちが、戦争で失われた命があったことを重くとらえていたこと、身近な人を失う悲しみを知っていたことなどが大きかったのかもしれない。

それに比べて、今は命を失うことが軽く見られているような気がしてならない。
現代の子どもたちは、人間関係にもまれて育つことが少なくなり、傷つきやすくなっていると感じる。
家にいるだけだと、他の人とのかかわりがほとんどなく、傷つくことは確かに少なくなる。
それに比べ学校では、級友や年上・年下の子どもたちとのかかわりが生まれ、楽しい経験もするが、思い通りにならない経験も味わう。
だからといって、自分や人の命を軽んじる言動をするのは間違っているとわかってほしい。
子どもたちの周辺には様々なことが起こる。心が傷つくことだってある。
だとしても、子どもたちには、生き続けてほしいのだ。

現代の私たち大人は、子どもたちに言っているだろうか?
「命を粗末にするな!」と。
「人の命と心を傷つけないように気をつけよう。」と。
「お前の命はおまえだけのものではない。」と。
「本当に困ったことがあれば、絶対に言ってほしい。」と。

自分のことを分かってくれる人がいる。
自分のことを励ましてくれる人がいる。
そのことは、私たち大人もそうであるように、子どもたちにはさらに大きな力となる。
私たち大人は、子どもたちを支え、
「あなたの命は、何ものにも代えられない。だから、命を大切にしてほしい。」
と伝え続けていかなくてはいけない。

ここ数年、ずうっとそう思い続けているのだが…。
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再会の喜び~もっともっと大きくなあれ~

2017-10-28 22:53:37 | 「育」業
3月まで勤めていたところの文化祭。
招かれて、久々に訪ねた。
建物の中に入ると、全く違和感がない。
半年以上ぶりなのだが、勤めていた2年間で様々な感覚が体に染みついていたのだろうか。
文化祭の中心となるものは、発表会。
会場に入ると、私を覚えていてくれた子どもたちが、笑顔で手を振ってくれた。
さらに、支援を受けている子が、寄ってきてくれて無邪気に笑って、私の手を取ってくれた。
7か月前に私に別れの花束をくれた子は、何度も私の方を見て微笑んでくれた。
もうそれだけでぐっときた。
うれしいなあ。
忘れていないなんて。
覚えてくれているなんて。
小さい子だって、人なのだ。
ふれ合った思い出が、人をつないでくれる。

発達段階を生かした発表は、合掌や合奏などの音楽だけでなく、ダンスや劇などもあり、とても楽しめた。

わずか半年余りの間に、子どもの身体の成長は著しいものがある。
成長が、とてもまぶしく、うれしかった。
みんな、これからも、どんどん大きく成長してほしい。
体も、そして心も。

16年前に保護者会の副代表をした方と本当に久しぶりに会った。
当時子どもだった子が、今親となり、その子の祖母となってしばらくぶりにここに来たのだと言う。
懐かしさとともに、世代が代わっていることに驚きを感じた。

私がやってきたことは、様々な心のつながりを強く大きくすることだった。
それぞれが、生きていく力となるために。
そのことを今日、再確認することができた。

中庭にそびえる大木は、私の思いそのもの。
幹を太くし、枝を伸ばし、空へ空へとさらに世界を広げていた。

もっともっと大きくなあれ!
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風呂敷残業、今は昔

2017-09-19 22:14:03 | 「育」業
「ふろしき残業」かあ。
懐かしい言葉だなあ。
まさか、子ども向けのアニメ、NHK-Eテレ「忍たま乱太郎」で聞くとは思わなかったなあ。

風呂敷残業。
今から30年ほど前は、よくしていたものだ。
文字通り風呂敷に、仕事の中身を包んで家に持ち帰る。
そして、家に帰ってから、その中身を片付けていく。
家に持ち帰るのは、職場に遅くまで残ると光熱費がかかる。
税金の無駄遣いになる。
だから、仕事をしたいなら、家に持って帰れ。
そんなふうに先輩たちから指導を受け、風呂敷にくるんで持ち帰った。

家で夕食を食べ、子どもを風呂に入れたり寝かしつけたりしてから、その風呂敷の結び目を解くのだった。
風呂敷の中身は、というとその日職場で見切れなかった子どもたちのプリントやノート、時にはテストもあったりした。
すべて見て、丸を付けたりコメントを付けたり、必要によって記録を残したりしたものだった。
風呂敷の中には、教科書やその指導書が入っていることも当たり前だった。
翌日の授業をどうするか、家で考えながら可能な限りその準備をするのだった。

それが、今は、名前が書かれたものは個人情報だからと、職場から持ち出しはできない。
また、家庭に電子データを持ち帰り、家庭のパソコンを使うと、パソコンのウイルス感染やデータの盗難があり得るからと、その持ち出し承認も簡単ではない。
そんなことから、本来、合理化効率化につながるはずのITが職場から職員を離せなくしてしまった。
授業のために専門的な関連機器を使用することも多くなった今、職場に残らないと仕事量をこなせないのだ。
だから、遅くまで残ったり、手当も出ないのに休日に出勤したりするはめになる。
こうして、今や完全ブラック化してしまっている。

風呂敷残業、今は昔…。
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同和教育の研修会に参加して

2017-08-01 22:29:24 | 「育」業
久々に、同和教育の研修会に参加してきた。
講演は、徳島県の中学校の先生である、森口健司先生。
市内の同業者の(?)皆様を中心に160名ほどが集まった。

第1部は、講演であった。
森口先生は、若い時から同和教育の実践者であった。
「全体学習」という手法で、生徒の心に響く同和教育の実践を展開した。
学級全体での話し合いを、学年全体の生徒たちを前に行うのである。
そして、生徒たちは、自分をさらけ出し、自分の考えを他の皆に伝える。
それには、勇気がいる。
誰しも、自分の考えを大勢の前で言う時は、ドキドキするものだ。
自分が受け入れられるかどうか、様々なことを考えたりする。
しかし、勇気をもって自分の本音を伝え合うことによって、そこに信頼が生まれ、固いきずなで結ばれた仲間集団が出来上がる。

…講演では、生徒や元生徒が自分をさらけ出して語る姿や、話し合う姿を映像で見せてくれた。
実際の姿だから、説得力があった。

第2部では、今度は、参加者たちの「全体学習」となった。
自分の今までの経験や考えを集まった参加者たちの前で、語るのである。
子どもでなくとも、挙手して発言するのは、ドキドキするものだ。
しかし、森口先生の働きかけのおかげで、次々と語る人が出てきた。
話を聞くたびに、これからのこの仕事に対して前向きになっていった。

そう。この「育業」は、子どもたちのために行うのだ。
子どもたちの力を伸ばし、子どもたち同士の信頼感を高め、生きていくために必要な力をつけていく。
それができるのは、まずは教師であろう。
そういうすばらしい仕事を私たちはしているのだ。
そのように森口先生は語っていた。
その思いは、参加者たちに伝わったのだ。
だから、発言者が連続したのだと思う。

会の終了後、私は、中学校教諭をしている女性の名を呼び、話しかけた。
彼女は、私が担任した最後の教え子の一人であった。
当時小学校5年生だった彼女は、今、中学校の国語の先生をしている。
彼女は、会の第2部で次々と話す人々の方を、後ろ向きでも必ず向いて、じっと見つめて耳を傾けて聴いていた。
そのことに感心したことを伝えた。
また、子ども一人一人のよさを見つけ、それを伝え、生きていく自信をつけていくのが私たちの仕事だよなあと話した。
「そうなんです。あの子たちは、すごく自己肯定感が低いのです。」
と、彼女は、身振りを交えながら話してくれた。
「まだまだ、全然できていないのです。」
と自らの仕事の未熟さを訴えていた。

でも、そういった未熟さを認められる人こそが、つらい子どもの気持ちが分かるのだと思う。
30代も前半を終え中盤に向かおうとしている彼女。
2児の母としてもがんばっている。
きっと、これからもいい仕事をしてくれることだろう。
「がんばって。」
握手をして別れた。

人が、人として、人を大切にすることができる。
そして、このよさを見つけ認め励ますことができる。
それができてこその専門職だと思う。

思いが同じ人の話を聴いたり、育業をがんばっている教え子と語り合ったりできた。
参加してよかったと思った。
今日はよい日であった。

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