kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

桜島3

2018-11-24 19:05:36 | 旅行

 

 

 

桜島ビジターセンターの中をうろうろしている時、

売店に幾冊かの本が置いてありました

ぺらぺらぺら…

ざっと見ると桜島の様々な表情の写真が続きます

最初のページに戻り、解説を読み始めました

 

「解説」この言葉は適切ではないかもしれません

詩、そんな感じを受けました

 

3ページ目の文章に

”阿蘇山にはじめて行ったのは中学校の修学旅行だった

火口のふちでクラスの記念写真を撮り、

写真屋さんから絵はがきセットを買った

そのなかの一枚に、まっ暗な夜の景色のなかで

火口だけが赤く光っている写真があった

ぼくはそれを見て、地球のなかが赤く光っていることをはじめて

 身近に感じた…

このときの絵はがきはどこかに行ってしまったが、

赤い火のことは忘れなかった”

 

大人になり、写真家になった作者は

阿蘇山で赤い火を見ることは難しいが、

桜島なら今も噴火しているから見ることが出来ると、

阿蘇山に行った時、地元の人から聞きました

こうして、桜島に何度も通い、桜島にとりつかれ、

様々な様子をカメラに収めることが出来、

その後、色々な所でその写真を掲載されるようになったそうです

 

そのひとつが、この本

「月刊たくさんのふしぎ・桜島の赤い火」

 

噴煙、火映(赤い火の正体)、火山雷、ある時は雪の積もった桜島、

それぞれを見た時の作者の感動が、少年のように綴られていました

 

私は、噴煙を上げている桜島しか見てないのですが、

それでも夕日に反映して、山肌がピンク色に見えた時は心躍る思いでした

 

この作者、お名前は宮武健仁(みやたけたけひと)さん

徳島県のカメラマン

火山や水のある風景を撮るのを生業としておられます

いつも真剣に自然と向き合っておられるから、

ずっと少年のような心なのでしょうね

 

私の見た本は、2013年1月号です

この「たくさんのふしぎ」という月刊誌の発刊はずっと続いているようです

 

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桜島2

2018-11-21 23:35:34 | 旅行

 

鹿児島最後の日、やはり桜島に上陸したいという結論に至りました

前回は、句碑のことでしたが、その前に見てきた所を

 

出発は桜島桟橋、ここからフェリーに乗ります

 

車も一緒に乗って来ます

フェリーなので当たり前ですね

でも、ちょっと感動してしまって(^-^;

 

 

 

お天気も良く、船も快適でした

デッキで、桜島の近付くのを見ていましたが、わずか15分で

着岸しました

長い長いターミナルの通路を抜けて、地上に足を、

降ろした~(^O^)/

 

パンフレットを見て決めていた所へ 

「月読神社」

港の真向かいです

 

 

小高い所にあります

 

 

月読神社の歴史は約1300年と古く、和銅年間には祀られていたそうです

御祭神は、月読命

木花咲耶姫命も合祀されていまして、そのことに因んで、

桜島は「サクヤ島」と呼ばれ、それが桜島に変化したという説もあるそうです

 

”説もある…” 

ということで他の桜島の名の由来とは?


*10世紀中頃、大隅守として京都から赴任した「桜島忠信」の名前からとった


まだあるみたいですが…

眉唾物もあったりして(^-^;

さてどれなのかなあ~


 奈良時代の噴火の記録には桜島は「麑嶋(鹿児島)」と記されている、と

へえ~! 驚きました

その鹿児島が、今の鹿児島のことになった時、

桜島は、「向島」になったそうです

 

 

 社殿を後ろにして鳥居の向こうに、

錦江湾とフェリーが見えました

ここから神様が行き交う船を見守って下さる、そんな感じです

 

大正3年の大爆発により社殿共に熔岩の下に埋没しましたが

昭和15年8月に現在の地に社殿を新築遷座されました


このあとは、桜島ビジターセンターへ行きました



歩いていると、[溶岩道路」の標識がありました

思い出します、修学旅行でバスに乗って通ったのが、ここなのか…


あの時は溶岩がごつごつした間を走り、所々黄色くなっていました

硫黄のせいらしく、確かに匂いました

何だか、ついこの間のことのよう…


桜島ビジターセンター

桜島のことを、紹介しています



玄関前には、とても大きな溶岩の塊が、

おそらく、運んできたのではなく噴火によってここにあるのだと思います

大正3年(1914)に大噴火の時の溶岩がこの辺りに流れ、

この辺の溶岩を「大正溶岩」といいます



こんな感じで、大噴火の時の溶岩が分布しています


 


ビジターセンターには興味深いパネルもたくさんありました



大正の噴火↓


地層の様子↓



溶岩と軽石と腐植土壌が、かわるがわる堆積しているんですね



2018年は、去年に比べ多いなあ

春に来た時も噴煙を見たし、秋も絶え間なく出てました



各家庭にこんな袋があるそうです

春に行った仙厳園にもたくさん置いてありました

回収に来てくれるんですよね

降灰、ではなくて、克灰、 

灰を克服するぞお~という気迫!


とにかく、鹿児島、桜島、皆さん少々噴煙を上げても

へっちゃらみたいです!(^^)!



”最寄りの退避壕”

緊急事態の時、この中に入ればいいのですね

実際見てないので分かりません、何人くらい入れるのでしょうか?


なかなかゆっくりもしていられない旅で、

先を急ぎませんと

 

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桜島に句碑がありました

2018-11-12 15:57:03 | 旅行

 

 5日、6日と桜島を見ているうちに、行ってみたくなりました

鹿児島港からフェリーに乗って15分で、行けるそうです

高校の修学旅行以来、

??年ぶりの桜島上陸をしよう!

 

パンフレットに、著名な俳人の句碑がある、と案内されています

 

ちょっと時間が気になりますが、とにかく歩こう!

と、溶岩なぎさ遊歩道というところを歩きました

右側には、青い海と緑豊かな山、中腹にまで建物が見えます

 

前日はあそこから桜島を見ていたわけですか

鹿児島市街との間が、錦江湾、コンサート会場はどれかな?

とか思いつつ…

 

10分ほど歩いたら、

 

この階段をのぼると、

 

 

熔岩色を重ねて古りて冬ざれて   高濱年尾(1900~1979)

 

この方は高濱虚子の長男さんだそうです

熔岩色(らばいろ)と読むとは、全然知りませんでした

 

ここからまた、同じくらい歩くと今度も、

 

 

また、階段の上に句碑があるのですね

 

 

黒い桜島折れた銃床海を走り  金子兜太

 

よう分からん…

と思ったのですが、家に帰って撮った写真を見ていますと、

 

 

右から錦江湾に向かって、細く陸が伸びています

茶色く見えるのは熔岩が長年、潮や風にさらされ変色してしまったのかな?

 

昭和35年に詠まれた俳句だそうですから、半世紀前

その時は黒い熔岩が勢いをもって海に突き進んでたのでしょうね

 

この辺り、大正熔岩と書いてありまして、

桜島の噴火で近年一番規模の大きな時のものだそうです(1914年の噴火)

 

 

 

なぎさ遊歩道からは、生い茂った木々の向こうに桜島が半分見えます

 

松をたくさん見かけました

薄もたくさん

 

根付いて噴火で枯れて、また育ってまた噴火して

何度も繰り返してるのですね

活火山で、いつも噴煙を上げているようです

 

地元の方は、慣れてしまっておられるのでしょうか…

 

旅行最終日、列車の時間が気になるので、早めにまたフェリーで

鹿児島港へ戻りました

 

芭蕉、一茶、蕪村、子規くらいしか知らなかったのですが、

金子兜太、高濱年尾、覚えました♪

名前だけですが(^-^; 

 

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北陸新幹線

2017-12-04 17:27:24 | 旅行

 

 

松山千春さんのコンサートに行った時、金沢を少々観光して周りました

 

ただですね、金沢のホテルが取れなかったんです

 

ま、高額な宿泊料金を払うなら、まだありましたけどね…

 

無理。

 

お隣の富山県高岡市は、金沢よりは土地勘があるはずなのでと、

高岡駅ど真ん前を予約しておきました

 

京都から高岡に行く場合、

京都→(サンダーバード)→金沢→(北陸新幹線)→新高岡→(JR城端線)→高岡

 

と、北陸新幹線が出来てから、めんどくさくなりました…が、

鉄道に乗るのが好きなので、私はめんどくさくありません(^_^;)

 

サメではありません、北陸新幹線(新高岡駅内で)

ピントが合いません(ーー;)

 

座席

 

高岡大兜

鋳物の街、高岡です

 

 

 

 

駅なかで見かけた、大鮨、作り物でした~でもおいしそう、鰤!

 

 

 

雪深い所ですから、もう、ラッセル車がスタンバイです!

 

立山も、ほんの少し雪をかぶってました、写真はないのですが、

こんな写真が駅にありましたので、ご参考までに

 

 

それから、こんなのが停車してました

 

 

行き先表示の小窓には 「べるもんた」 とあります

城端(ジョウハナ)線・氷見(ヒミ)線観光列車

「ベル・モンターニュ・エ・メール」

(沿線に見える、美しい山と海からこの名がつきました)


乗車しますと、限定の社内販売プランを利用できるとか 

お酒、お寿司、おつまみ、おみやげなどみたいですよ♪

いい景色とおいしいお酒やお寿司、ああ~いいなあ~

 

 

出発しました、いいなあ~

 

 

駅から見た新高岡駅周辺、何年か経てば、賑やかになっていると思います

また、一度と言わず、何度でも訪れたいです♪

 

ガンバレ!高岡!

 

 

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南紀白浜

2017-11-08 16:43:17 | 旅行

 

 

5日、南紀白浜方面へ行きました、いつもの日帰り格安バスツアーですが

 

京滋バイパス、阪和道を走って、三連休でも道はスイスイで、

 

一番に立ち寄ったのが海鮮せんべいの館

 

いきなり、おみやげ

 

えびやたこのおせんべいがいっぱいでした

 

梅味、にんにく味、たまねぎ、明太子、柚子、黒糖など

 

全部で40種類あって、試食がいっぱいです

 

二番目にはすぐ近くの、とれとれ市場、またお買いもの((+_+))

 

 

 昼食を済ませて、次の場所へ

 

 

 

ホテル川久は温泉が充実しているそうです

 

私は、時間が短いので温泉は止めて、辺りをぶらぶら、ラウンジでコーヒーを

 

 

ビックリの建物でした、ロビーの柱は一本1億円だとか

 

私は、これ、性に合わないなあ~

 

最後に、グラスボートに乗りました

 

25分間、円月島の周りのクルージングです

 

 

 

 

円月島(高嶋) は白浜町の臨界浦に浮かぶ島です

 

中央の穴は、海蝕にによるもので直径約9m

 

夕景が美しく国の名勝に指定されているとのこと

 

船の丸窓の汚れで島に白い影がかかってしまいました

 

春分、と秋分の時期には、中心部の穴を通して夕日が見えるそうです

 

大潮の干潮時は大人であれば腰が海水に浸かる位の深さで歩いて渡ることができます 

 

 円月島の周りには、タコ、イカ、ウニなどが多く生息しています

 

グラスボートの底が透明で海中を見ることが出来たのですが、

 

鯵のようなのと、美しいブルーの小さな熱帯魚が見えるのみでした

 

はっきり分からないけど赤や白のサンゴも見えました

 

魚はボートのエンジン音で、逃げるのではないかな?

 

 

 

ブルーの熱帯魚は、上手く写すことが出来ませんでした

 

この浜には、京都大学白浜水族館があります

 

ボートか水族館かどちらか、ということでボートを選んでしまいましたが

 

水族館のほうがよかったかなあ?

 

 

  

 

 

午後2時を過ぎた頃

 

 

 

 

円月島から少し離れた所に

 

近畿大学の養魚場がありました、鮪の養食で有名ですね

 

他の魚もどんどん開発が進んでいるようです

 

バスの中から見ただけで分からないのですが、

 

どれくらいの広さがあるのでしょうね

 

作業の様子を見てみたいものです

 

近畿大学入学希望の学生さんが増えているそうですね♪

 

 

さて、ここを最後に帰路につきましたが、

 

この日は三連休の最後の日

 

阪和自動車道が混むわ混むわ、トンネル内で車の流れが止まってしまう次第で…

 

ある程度、車内では寝る人、おしゃべりする人、

 

皆、何を疑うこともなく平静にしていたのですが、

 

バスが遅々として進まないのに気付き、どうした?何々?と

 

渋滞が気になり始めました

 

かなり長時間そんな調子でしたが、道が西と東に分かれると、

 

なんとか流れ始めました

 

結果、予定より1時間以上遅れて帰って来ました

 

この日の添乗員さんは管理職風で、こんな方に添乗してもらってもええのん?

 

いつのも若い女性は? と思っていました

 

おそらくこの日は、旅行会社も忙しく、社員総動員のフル回転操業じゃないかな

 

連休の最後の日は、朝方の行く道は混まなくても夕方の帰り道が混む

 

ということもあるのが分かりました

 

泊りがけで行く人が多いのですね…

 

それでですね、今回の添乗員さん男性ですが、今は現場の仕事は

 

少なくて、車内ではなく社内で管理職に当たっておられるのかな~

 

こんなに混むとは思いませんでした云々、

 

これからは三連休の最後の日は、旅行を避けられた方がいいかも

 

なんておっしゃるので、みんな笑い飛ばしてましたよヽ(^o^)丿

 

でも、大事なところは、きちんと押さえて、安心感がさすがベテランさん!

 

楽しい車内でしたし、まあよかったことにしましょか

 

見どころは少なかったけど、「円月島」 という島が見られてよかったです♪

 

また、良い企画があったら申し込みましょ

 

今日はお土産に買った、おせんべいを食べています(^^♪

 

一日雨でした…

 

立冬でしたね、温かかったけど…

 

 

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岩国城

2016-12-02 00:37:03 | 旅行

 

 

錦帯橋を渡り、ロープウエイで岩国城へ向かいました。

というところで中断していました。

 

こちらが、岩国城 です。

 

錦帯橋から、横山の頂上に見えていました。

 

昔はもう少し奥まっていたらしいのですが、見晴らしを良くしようと今の位置に

移されたそうです。

 

下から見上げると、山のてっぺんから転げ落ちないやろか…と思うくらい

スレスレまでせり出してましたが、登ってみると案外そうでもなく、

平坦な所にドッカリと建っていました。

 

 

 

天守閣からは360度、展望が開けて、いい眺めでした。

 

 

岩国飛行場が見えます。

岩国基地も同じ所の様です。

いちばん奥、何もない所は海でして、

陸から右の方へ細長く岬が続いている所です。

 

かなり遠く、霞んでましたが、同じく観光に来ていた方が、

飛行場では、オスプレイも2機見れたそうです。

 

大変広い飛行場だったそうです。

 

 

 

お城の中には、沢山の刀剣、槍、書画類が展示されていました。

鎧も立派なのがあったのですが、写真は間違えて削除してしまいました。

ゴミ箱も空っぽにしてしまいました… 

 

 

≪悲運の岩国城≫ 

 

 岩国の時のお殿様は 「吉川(きっかわ)広家」 

 

関ヶ原の合戦が終わったばかりで、

戦に強い城を築こうと、横山の山頂に築きました。

 

山の三方を錦川が迂回していくので自然の外堀となり、

その錦川の両側に、城下町が形成されました。

 

ところが、徳川の世になり、戦は無くなり幕府は「一国一城令」を発布しました。

このことで、岩国城は完成からわずか7年で取り壊される運命となったのです。

 

第二次世界大戦後、岩国城再建の動きが起き、

昭和37年、再建されました。

 

天守の位置は変わりましたが、元々有った位置に復元天守台が造られています。

 

 

復元天守台

築城当初の石を生かした「古式穴太衆積」の石垣

 

また、城跡のあちこちに、当時の石垣がそのまま残っています。

 

 

 

 

 この日は、ロープウエイが点検とかで、2 時の運行が最後ということで、

慌てて降りました

 

 

 

 

河原に下りると、橋桁の裏側が見えたのですが、写真では写っていませんね、

がっかり。

巧みな組み合わせが、とてもきれいでした。

 

でもこの橋はちょっと渡りにくいかも。

景観を取るか、歩きやすさを取るか…

 

でも、珍しい貴重な橋ですよね。

 

 

この辺り一帯は「吉香公園」と名付けられていて、

日本歴史公園百選と、日本さくら名所百選に選ばれています。

 

岩国藩主吉川氏を祀った「吉香神社」があります。

 

ここは、吉川氏の居館跡です。 

 

  

 

吉香神社 神門

 

本殿 

 錦雲閣

 

明治時代になって、吉川家の屋敷跡が吉香公園として解放された時に

旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂。

 

私は吉香公園の中でこの建物が一番気に入りました。

スキッと形のいい絵馬堂です。 

奈良の大仏殿に似ている?

 

 

国木田独歩は、岩国城下町の錦見小学校に通っていました。

小説「河霧」は岩国を舞台に書きました。

石碑の銘文は「欺かざるの記」から

 

 

武家屋敷の長屋門が、錦帯橋から近い所に残っています。

 

 

香川家長屋門~武家屋敷の表門で、岩国市でいちばん古い建物

 

香川家は岩国藩五家老のひとつでした。 

 

 

 

旧目加田家住宅というのもありました。

 

旧目加田家住宅. 正面からは一見して平屋、 裏に回ると二階建てです.

 江戸時代中期の18世紀中頃に建てられた中流武家屋敷です。


岩国の武家屋敷は、錦川の氾濫に備えて二階建てが多いのですが、

藩主が通る時、見下ろすことの無いよう、表は大屋根で、二階建てには

見えないようにしてあります。

 

 

ちょっと分かりにくい…裏側かな?

 

 

 

 どうですか?表側?

この日は、休館日でした(ーー;)

 

 

 

この時は、十月桜というのが咲いていました。

そんなの知らない私は、桜にビックリして、ピントがズレマシタ~ピコッ

 

 

 

 

 

 

岩国では、最後にこんな方に逢えました。

 

 

佐々木小次郎の像 

なんと、凛々しい

芳川英治の「宮本武蔵」では岩国出身になっているが…

 

物干し竿と呼ばれた長い刀は鞘に納まらないと言われている通り、

この像の刀は鞘に納まりきらないそうです。

 

これで、岩国観光は終わりなのですが、今回のこの旅行、やっぱり!

 

日本シリーズの渦中に飛び込んだ感のあるものでした。

 

広島からJRで帰ったのですが、広島駅で見たのは、これ、

 

 

凄いピンボケですが、これにて広島行きのおしまいです。

ありがとうございました

 

 

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岩国錦帯橋

2016-11-23 17:30:14 | 旅行

 

岩国錦帯橋です。

 

 

 

 

広島観光2日目

当初予定していたのは、安芸の宮島、弥山(みせん) でした。

 

ところが11月1日、あのタイミングでの広島観光。

安芸の宮島はきっと、鯉鯉鯉…と思いました。

 

 30日のお昼なんぞは、広島名物お好み焼きを食べようと、

駅のお好み焼き屋さんが数軒集まっている所へ行ったところ、

どの店もこの店も、長蛇の列で断念していたのです。

 

翌日も観光客が多いだろうな~、自分もそのひとりで(^_^;)

広島と言えば、安芸の宮島は外さない…

 

宮島口に行くJRに乗り合わせた人達、何となく宮島観光の気配を、醸し出しています。

 

やっぱり私の乗った車両に座ってた人も立ってた人も宮島口で降りました。

 

 直前で、行き先を変更しました。

 

車両には、私とあと5人位しか残っていません。

想像以上に見事に宮島口で降りてしまわれました。

 

弥山に未練はあったけど…

 

そうだ、錦帯橋に行こう。

 

ということで。

 

広島駅から小一時間乗ったJRは岩国駅終点でした。

 

宮島口までの切符でしたので

 

岩国駅で、のりこし精算をして、観光案内所で訪ねて、

 

錦帯橋行きのバス往復、錦帯橋渡賃、ロープウエイ往復、岩国城入場、

これだけできるチケットを買ってバスに乗りました。

 

ここで、大失敗発覚!

カメラをチェックしてみたら、電源が入りません。

あれま、電池入れ忘れ…

 

乾電池ではないので、その辺では…、ヨドバシカメラも見当たらないし

仕方なく、スマホ頼みです。

ま、スマホ自身はいい仕事してくれますけど

ハサミもスマホも使い様…(ーー;)

使えそうにないけれど、仕方がない。

 

 

 

 

バスを降りて道路を渡ると錦川に架かる 「錦帯橋」

 

 

* 延宝元年(1673) 吉川広嘉(きっかわひろよし)により架けられた。

(歴史があるんですね~)

 

* 関ヶ原の合戦の後、吉川家が岩国を守ることになった。

(毛利氏の家来としてですが、

色々事情があったみたい)

 

* 戦後間もないので、藩は「防御」を重要視していた。

(また戦になるかと思いますよね)

 

* 城は海抜200mの 「横山」 の山頂に、麓の 「錦川」 を天然の外堀にする。

(自然の地形を利用した要塞は、

あちこちにあったのですね)

 

 

 

 

このことで、山側と川向こうに別れる城下町を結ぶ橋が必要。

 

* 吉川広嘉は明から帰化した僧の独立(どくりゅう)の見せた

「西湖遊覧志」に描かれた、いくつかの小島を結ぶ橋を見て心動いた。

 

* 延宝元年(1673)10月 五連アーチの橋が完成

ただ、錦帯橋という名は付いていなかった。

 

* この橋は翌年、降水で流されてしまったが、その年のうちに再建

(家来は近江の穴太衆から石垣の技術を学んでいる。

穴太衆積みの技術は有名だったんですね、ビックリ)

 

 

* 創建の翌年、再建されて以来276年間補修などを続けながら不落を誇る。

 

* しかし昭和25年、ギジア台風により流失。

 

* 昭和28年、市民の熱意により再建される。

 

* 平成16年、架け替え工事完成、今に至る。

 

という歴史をもっているとのことです。

 

川幅は広いですが、今見るとさほど水害など起こすようには見えないのですが、

かなり増水することがあったのですね。

 

横山の山頂の岩国城が錦帯橋から見えます。 

 

アーチを5つ越え、横山地区に入り、ロープウエイを目指しました。

 

 

 

 

ロープウエイから錦帯橋全体が見えました。

 

 

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広島

2016-11-15 18:16:06 | 旅行

 

10月末、コンサートで広島へ行って、少し観光をすることが出来ました。

 

思い出は薄らいできていますが、シナプスを必死で繫いでみます。

 

10月30日の朝、家を出て広島へ。

 

前日、日本シリーズ戦で、広島は日本ハムに敗れ、優勝が決まっていました。

 

薄情ですが、私としてはこれで多分新幹線は混雑しない!

 

と踏んで、自由席のまま乗りました。

 

ありがたいですね、一人座るのに迷うくらいの空席。

 

お昼には駅に着きました。

 

広島駅

 

どうも、最近は駅といい、神社仏閣といい、ただ今改修中の文字が目立ちます。

 

2020東京オリンピック効果でしょうか?

 

広島駅は若い人も多く、活気があります。

 

いつもそうなのかもしれませんし、日本シリーズのせいかもしれません。

 

さて、 

 

コンサート会場と平和記念公園は歩いて15分位の所にありますので、

その日は、平和記念公園に行きました。

 

以前見ていない広島平和記念資料館に入りました。

 

広島平和記念資料館

 

入り口には修学旅行生らしき団体さんが列をなしています。

 

意外や意外、その横をスイーッと進んでいいと係りの方に勧められ、ラッキー♪

 

でも中はいっぱいの人で、結局芋の子を洗うような状態の中、芋の婆です。

 

学生さんは、メモを取っています。

 

撮影がOKでしたので、少し写してきました。

 

 

爆心地から600m、中学一年生の滋君が、このお弁当を抱えたまま被爆し亡くなりました。

弁当の中身は炭化して真っ黒になっていますが、入っていたのは

●米、麦、大豆をまぜて炊いた混ぜごはん

●ジャガイモと千切りダイコンの油いため

食糧難の中、畑で作った野菜を初めて食べることが出来ると

喜んで出かけたのに、とお母さんが語っていたそうです。

 

 

爆心地から1500m

3歳11か月の伸一君は自宅前で被爆し『水…水…』と言いながら亡くなりました。

その時乗っていた三輪車です。

 

父親は、その時遊んでいた女の子と伸一君を三輪車と共に庭に埋葬しました。

その後、被爆40年目におに移す決心をして堀り起こし、葬式をしました。

 

 

 広島に投下された原子爆弾 3m、約4t (実寸模型)

 

この爆弾には50kgのウランが詰められていましたが、

そのうち核分裂したのは1kgだけなのです。

 

爆発により発生したエネルギーの15%が放射線でした。

放射線は原子爆弾の核分裂と同時に瞬間的に放出されました。

 

これが 「初期放射線」

 

爆発後、当分の間地上には大量の 「残留放射線」 がありました。

 

爆弾投下の8月6日、広島に居なくて放射線汚染を免れたのに、

後日、広島に入ったために放射能に侵されてしまった人も多かったのです。

  

爆弾の中のウランが100%爆発していたなら、どれほど被害は拡大していただろうか…

 

 

 

オバマ大統領が広島を訪れたのは、記憶に新しいです。

 

この原爆資料館にも沢山の外国の方が訪れていましたし、熱心に見ておられました。

 

 

 元安川

 

暑くて暑くて、水を求め、川に飛び込んだ人のほとんどが亡くなっていった…これがその川

 

 

 原爆ドーム

 

全国から届いた千羽鶴がいっぱいありました。

 

  平和の灯

 

昭和39年8月1日

核兵器が地球上から完全に姿を消す日まで燃やし続けよう

と、12宗派の火、溶鉱炉など工場から届いた産業の火を

原爆投下の日に生まれた7人の女性により点火されました。

 

 

 

原爆死没者慰霊碑

 

 

原爆の子の像

 

 

 

平和の像 若葉

 

子鹿と少女の像です。 台座には


「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」


と 湯川秀樹氏 の銘文が彫られています。

(まがつび、火災や凶事をおこす神の事)



広島平和記念資料館 

 

 

 

カワウ?

 

 

 

 

穏やかな一日でした。

 

 

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東大赤門

2016-09-02 11:34:24 | 旅行

 

 

東京大学の赤門て、何なのか?

 

そんなことをずっと前から思いながらも、尋ねるでもなし、調べるでもなし。

 

今回見て来ました。

 

 

 

 

案内板によると、

 

赤門は、朱塗りの御守殿門(重要文化財)

 

文政10年(1827)、加賀藩主前田斉泰に嫁いだ11代将軍徳川家斉の息女

溶姫を迎えるために造られた門です。

 

そういうことだったのですね。

江戸時代の遺構だったのですね。 

 

 

 赤門の両側はこんな塀で囲まれていました。



  安田講堂

 

 

正門

 

 

 

こちらは総合図書館? 歴史を感じる建物ですね。

 

 

この向かい側辺りに東大オフィシャルショップがありまして、

おみやげ買いました。 

 

体力式アミノ酸ゼリー と 蚊帳生地製のふきん

 

銀杏緑茶 と ユーグレナ・クッキー

 

クッキー、甘さはかなり抑えてあります。

お味は…ミドリムシ…

 

オンラインストアも開設されてるそうですよ。

 

ご縁の有りようもない東京大学にちょっと触れることが出来た時間でした。

 

しまそだちさんがおっしゃってた「三四郎池」すぐそばにあったんですね、残念です。

 

 

 

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明治神宮

2016-09-01 23:45:30 | 旅行

 

代々木競技場から明治神宮へ行きました。

五輪橋

 

この橋を、例えば「マラソン」「競歩」などの選手が走ったのかもしれないなあ~

とか思いながら歩きました。

 

五輪橋の下には山手線の電車が走ってました。

 

沢山の人が歩いておられましたが、電車や五輪橋を写してるのは私くらいなもの(^_^;)

 

東京都心の路線図、すごいですね。

もうグチャグチャにもつれた毛糸見たいです。

 

…え?私の人間関係だろうって?

いえいえ、流し素麺ですよ、私(*^^)v

 

明治神宮はすぐでした。

 

大きくてとてもきれいな鳥居でした。

 

明治神宮は、以前から森が見たかったんです。

NHKで、神宮の森の出来るまでをスペシャル番組にして放送してました。

 

 明治神宮がある「代々木」

ここは昔からそう呼ばれていたそうです。

 

江戸時代は近江彦根藩井伊家の下屋敷であったものが、明治維新後

政府に献上され、南豊島御料地となっていました。

 

明治神宮が出来る頃、代々木は荒れ果てていました。

 

大正初期、そこを都会の中に育つ「永遠の森」にしようと、学者さん達が考えました。

 

到達した理想の森は

 

「自然林」

  

100年先を見据えた長期計画でした。

 

大正時代の東京はすでに公害が出始めて都内の古木は枯れ出していて、

学者さんは100年先には照葉樹しか残らないと結論しました。

 

公害に加え代々木は関東ローム層で、水気を好む針葉樹は育たないのです。

 

そのために、幾つかの段階に分けて計画を練り上げました。

 

第一段階は、明治神宮の周りが枯野ではいけないので、

元々そこに残っていた松などを生かしながら

成長の早い針葉樹(杉、モミ、ヒノキ等)を植え、見た目の体裁を整える。

 

言わば、仮歯みたいなもんですか、

その間に将来森の主役となるであろう樫、椎、楠の常緑広葉樹を植えました。

 

第二段階 : 成長の早い針葉樹が元々あった松を追い抜き、松は枯れて減っていきます。

 

第三段階 : 樫や椎などの常緑広葉樹が増え、松や針葉樹は僅かとなる。

 

第四段階 : 広葉樹がどんどん成長して主木となり大きく育ち、その二代目も育って行く。

 

 

春には芽吹き、夏には青葉が茂り、秋は紅葉、

そして冬、葉を落としてじっと春を待つ。

 

大きく育った木々に、昆虫や鳥が来て、小動物が住んで豊かな森となる。

 

そんな神宮の森が見たくて

 

 参道

 

代々この地にモミの巨木があったので、「代々木」という地名になったというその巨木

今の木は数代目の木だそうです。

 

本殿

近くからの撮影は禁止でした。

 

 

 

 

 

この日、結婚式がある様で、神殿へ向かうところを見ることが出来ました。

なんと、お嫁さんは金髪の外人さんで、観光の外人さんも見とれておられました。 

 

それから、参道に珍しいものを見ました。

 

 

ワインの樽が献上されています。

明治天皇がワインをたしなまれるのを聞いたブルゴーニュの醸造元各社より

献上されるそうです。

 

それにもちろん、

 

日本酒の酒樽もありましたよ♪

 

どちらもいいですね(^^♪

  

大正時代に100年先を見据えて、人工的に作られた「神宮の森」は

 

今は「自然林」の姿を成し、ほぼ自力で育っているそうです。

 

そして、今、森の有り方が見直されているとか。

 

適材適所、森の木々も生き物もあるべき所にあってこそ ということなのですね。

 

で、人間も。

 

(追記 : 森作りの計画が持ち上がった時、当時の総理大臣大隈重信は、

伊勢神宮や日光東照宮のように杉木立の荘厳な森を作るようにと

言ったのですが、学者さん達は断固、聞き入れず、

「自然の森」への道を押し通したということです。)

 

 

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