kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

じゃっどん、西郷どん11

2018-04-29 15:48:49 | 西郷どん

 

西郷隆盛は、如何にして出世していったのかと思っていたのですが、

持前の正義感、誠実さ、裏表のなさ、優しくて熱い心

そんなところを斉彬さんが気に入って、お庭方にされたのが、

始まりだった…違うかな?

 

お庭方?

斉彬のごく近くに居るとはいえ、来る日も来る日も庭掃除と履物を揃えること

どないなん?と最初は思いましたが、

お庭方という役目は、社長付秘書みたいな重要な役目なのですね

 

裏切らないし、期待以上の努力で結果を出してきた西郷

斉彬も誠実なお殿さまだからこそ、認めてくださったのでしょうね

 

そんな斉彬が西郷をお庭方から外してしまった

何故?

 

次期将軍を慶喜とすることが実現すると思った矢先、

徳川家定が倒れてしまった

それを利用し直弼は、慶福を将軍にするとの承諾を得たかのように

周りの者に振る舞ったし、大老に就任し幕府の最高権力を握った

日米修好通商条約も調印しようとする

 

これらのことを、薩摩にいる斉彬に伝えるべく、

西郷は、薩摩へ急ぎ、殿に会った

事態を察して斉彬はもう自分の夢は潰えた…と考え、お庭方を解いた

 

西郷は家に帰ると大久保正助がやって来た

その意気消沈した西郷に正助は、怒りと期待をぶつけた

正助の言葉に、また西郷は立ち上がり、

再び斉彬の元へ行き、血を流さず戦う策を申し出た

 

何もかも諦めていた斉彬だったが、西郷の言葉に挙兵を決めた

そして、

 

”西郷、今からおまえはわしになるのだ”


その頃、篤姫に看取られることもなく家定は亡くなり

斉彬も出陣のあと、亡くなった


西郷どんは、大切な大切な斉彬様から言われた、

”今からおまえはわしになるのだ” 


この言葉が、遺言のようになってしまいました



じゃっどん、西郷どん


井伊直弼相手に西郷どんは、まだまだ斉彬公ほどの力を示せるとは

思えないのですけど…

大丈夫ですか

篤姫様も家定公を失い、大奥でどれだけの地位が残されているのやら…

 

西郷どん、

どうすっつもりと!?

 

 

さて、これらの出来事はすべて、安政五年(1858)に起きました

いえいえ更に、大きな出来事が起きるんですね

井伊直政から十五代目の直弼、

若い頃は、埋木舎に住み、”お堀端のちゃかぽん様”と揶揄されるような

人物だったとか

高い地位というのは、今も昔も

パワハラ 

 

 

コメント

南禅寺から蹴上へ

2018-04-28 18:01:29 | 京都

 

 

 

ここも、疏水の流れなのでしょうか、こんなに細い

春の鴨、残り鴨

山裾を走る疏水の水は、冷たい 

 

南禅寺の三門に着きました 

 

 

やはり大きい!

人が多かったです

 

 

 法堂 臨済宗

 

  

 

法堂の横へ

さらに、

 

 

水路閣はサスペンスにもよく出て来ますよね

東山の麓を流す、疏水分線の計画を実行する段になって、

第一疏水に比べ、規模も小さく幅も狭いものになりました

それは、この辺りは神社仏閣が多く、環境を壊さないようにとの

配慮からでした

そういう理由から南禅寺境内は、この水路閣になったそうです

昔から、この辺りに来るたびに、

お寺とこの煉瓦造りの得体の知れないものとの違和感を

抑えられなかったものです

 

今は、名所になっているのですね…

平成8年に、国の史跡に指定されるとは

 

昔と違い、手すりや、柵が付けられて

人が傍を歩くことを想定したものに変わってました

今度は、その設備に違和感(ーー゛)

 

 

水路閣の上です 

 

 

 ぞろぞろ…

 

 

 

太いパイプが見えました

 

 

 

蹴上水力発電所の一部です

 

 

 

 

 

 

 

昔は、この疏水を利用して舟が琵琶湖から荷物を運びました

 

 

水は、ここまで、あとはインクラインで舟ごと運びます

この台車は、蹴上発電所の電力で巻き上げ機を作動し、線路を上下しました 

自給自足♪

 

発電所は今回、見に行けませんでした

 

 

きれいな水色が塗ってありますが、昔は…?

 

 

子供の頃、この台車に乗ってみたかった… 

 

 

 

疏水を離れた舟がここを進んでいたのです

蹴上船溜り~南禅寺船溜りの640mです

 

舟が行き交う事もなくなり久しいのですが、

67年ぶりの平成30年、復活しました

 

「びわ湖疏水船」と銘打って、滋賀・大津~京都・蹴上の間を

遊覧船が通います♪

とにかく、川幅が狭い、川底も浅い、カーブのきつい所がある

様々な難関をクリアして復活したそうで、乗れます、船に♪

 

詳しくは、下へアクセスを↓

 

http://www.biwako-sosui.jp/ 

 

今回、心に残ったのは、水路閣から山の麓を抜け出て来た時、

発電所の大きなパイプが見えたことです

 

こんなところにこんなものがあったのか~と

京都も知らないことが多すぎるなあ~と意気消沈気味で帰りました

そこで、東山のこと知るためには?

 

今夜も、ブ・ラ・タ・モ・リ~~

 

コメント (2)

哲学の道

2018-04-28 14:46:35 | 京都

 

シニアのためのカルチャークラブ、しばらくは冬籠りでしたが、

今月は、そこそこ歩いてきましたよ♪

 

今年度の1回目:銀閣寺

そのあと哲学の道~若王子~南禅寺~蹴上 を歩いてきました

 

銀閣寺と言えば、前回ブラタモリも、銀閣寺でしたね

ブラタモリを先に見ていたら、もっと興味深く見れたのに…

たくさん見逃してきました(/_;)

 

今日のテーマは、「東山」ですが

さて、タモカメさんは、どんな指令を出すんでしょう

 

 

哲学の道は、

銀閣寺橋と若王子橋の間の疏水に沿って、設けられています

端から端まで歩くのは、初めてだったと思うんです

きょろきょろしながら楽しみました(^_^;)

 

 

 

この敷石は、S.53年に廃止された京都の市電の軌道の敷石の再利用です

 

染井吉野の見ごろには、1週間遅かった

毎年ならドンピシャのはずなんですけどね~

 

 

八重と枝垂桜がまだ、咲いていました♪

 

 

疏水の上流に向いて歩いています

疏水は、あちこちに分流がありよく分かりませんが、

源は、言わずと知れた「琵琶湖」でございます<m(__)m>

滋賀県人は、”滋賀のことを悪く言うたら、琵琶湖の水

止めるでえ~” と( ^^) _U~~

関西の水瓶です

 

 

紅白の花が一本の木に咲いてる?源平咲きの?桃?

 

 

これも桜だ、との声が周囲から聞こえましたが、ほんと?

 

 

 

若王子橋を渡ります

この辺りは、紅葉の名所です

 

 

 

 哲学の道の起点ですが、ひっそりとしていました

後白河法皇が禅林寺(永観堂)の守護神として建立した神社で、

和歌山県にある熊野三山を詣でる熊野めぐりの出発点です

 

 

熊野若王子神社の前を通り、奥へと行きますと、滝がありました

小さな滝ですが、そばには鳥居と祠がちゃんとあります

ここ、東山はまだまだ奥へ入ることが出来、

幾つもの神社や滝があるようです

ただ、山に入ればイノシシもいるでしょうし、

あまりに静寂すぎる所の神社やお寺は、二の足を踏みます(*_*; 

あ、冬に京都の中心部にイノシシがやって来ましたが、

きっとこの辺りから西へ西へと進んだのでしょうね

 

「東山」は三方山に囲まれた京都盆地の東側になだらかに続く山々ですが

 

蒲団着て寝たる姿や東山  服部嵐雪

 

東山三十六峰が、布団を着て寝ている姿に見える、と詠んだ句で、

これは、子供の頃から知ってました

 

一番北にある山が、比叡山で、南が稲荷山です

それぞれの山に、お寺や神社があります

ですので、東山山麓に沿って、ずらっと名所旧跡があるので、

観光も、し易いかもしれません

 

十数年前、私は長い京都暮らしを終え、東山を越えて、

滋賀に移りました

今は、東山連峰を毎日、裏側から眺めていますが、

いちばん北の比叡山を、顏と見立ててなだらかに南へ

やっぱり寝てますね♪

 

 夏の一枚

 

冬の一枚 

 

 

マイナスイオンを感じたか感じないか分からぬままに、若王子を後にして

南禅寺へ向かいました

 

 

コメント (2)

中継 NYY vs LAA

2018-04-28 13:02:14 | スポーツ

 

TV中継

ニューヨークヤンキース 対 ロサンジェルスエンジェルス

 

今、ヤンキースが1点入れて、勝ち越しました

エンジェルスは、大谷選手のホームランで先制してたのですが

 

気になるのが、ヤンキースの田中投手と大谷選手の対戦があるのかどうか、

私は楽しみ、とは思えません、なんとなく…

ふたりが相対せばどちらかが悔しくなるでしょうし、

嫌やなあ~と思ったりして

でも、この対決、盛り上がって当たり前で、

さあ、どうなるのかなあ~

 

コメント

じゃっどん、西郷どん10

2018-04-22 17:51:14 | 西郷どん

 

慶喜を守るため、刺客を殺してしまって…

西郷どんは、

 

”あん男の命も慶喜様の命も尊さは同じでごわんど

じゃっどん、慶喜様は国を変え多くの民を救えもす

そいでもまだ逃げるち言わっとじゃったら、あん男も浮かばれもはん”

 

今回、この言葉が、響きましたね~

 

さすがのひー様も、心動きました

 

 

(さて、今年は憎まれっ子の井伊君、時代は井伊直弼の大活躍中です)

 

直弼のもとへ慶喜は西郷、左内と共に行きました

直弼は、慶福が次期将軍になれば、紀州藩を渡すなどと、

言葉巧みに、慶喜を引き込もうとしましたが、

もう、心に決めていた慶喜は、高飛車な物言いの直弼を一蹴、

あのひー様とは思えない、どか~んと雷が落ちた様な怒りのお言葉でした

 

かっこよかったですね、ひー様

 

西郷どんの、嘘のない言葉が、一橋慶喜を動かした今回でした

 

もうひとり、ちょっと変わりもんの将軍、家定さん

 

”幾久しく友好を保ちたいと大統領に申し述べるべし”

 

篤姫さんと、一生懸命、稽古されたのでしたね

で、篤姫さんにも、”幾久しく友好を保つべし”

と、伝えてました♪

身近な人達をなくしたくないと思う優しい心の家定さん、

いじらしいですね

篤姫さんも、次第に寄り添っていく、気持ちが湧いてきたようです

 

せめて、家定さんより先に逝くことのありませんように…

 

さて、渦中の ひー様は、

 

どう動く?

 

コメント

銀閣寺

2018-04-19 19:01:15 | 歴史

 

銀閣寺(慈照寺)に行きました

 

 

 銀閣(観音殿)~国宝

 

渋いです、 侘び寂びの世界

 

よく金閣寺と比べられますが、どちらがお好きですか?

 

 

文明14年(1482)  足利義政が隠居生活をするために

「山荘東山殿」の建立を手掛ける

(その東山殿が、のちの銀閣寺となりました)

 

これ以前、京の町は応仁の乱で、10年以上戦が続いていました 

1477年頃、なんとか戦は収まったものの京の町は焼野原、荒れ果てていました

 

戦乱で東軍西軍の助っ人に、日本各地から守護大名が集結していた間に、

国元も、その東西対立のいざこざが起こっていたみたいです

 

そのいざこざは、戦国の世という名で、

150年もの長きにわたり続いたことを思うと、

応仁の乱の張本人、足利義政という方は罪な方です

 

政治には、まるで無頓着であるけど芸術的センスは抜群の文化人が

 足利義政

 

そんなお方が建立した山荘東山殿

 実は、祖父である義満は金閣寺を建てていて、

憧れのおじいちゃんの真似をしたかったらしい

 

それで、金閣(舎利殿)に倣って観音殿(銀閣)を建てました

 

 

銀閣の前の「向月台」と「銀沙灘・ぎんしゃだん」

 

向月台

 

銀閣といっても、銀箔を施す予定はなかったというのが本当で、

応仁の乱で、財力が無くなって、銀箔無しになった

ということはないのです

当時の文化人第一人者だったかもしれない義政は

侘び寂びの質素さを大切にした人だったのですね

 

でも、建立には相当な資金が必要で、戦で底をついた幕府の財政では

何ともなりません

結局は、京の町人にお金と労働力を求めた。

という少数意見を見つけたのですが…

京都の町人が、東山文化の担い手の一部になっていたと考えると、

嬉しい気持ちです。

が、本当のことは、分かりません

膨大な古文書を紐解けば、また、色々な意見も出て来るのでしょうね

 

10年以上の戦で、家を焼かれ町を逃げ回った人達よりも、

自分の別荘を建てることの方が、たいせつだったのでしょうか…

 

今の財務省や政府の偉~いお方もひどいけど…

義政さん、政治ほったらかし、風流三昧

許せないなあ~

 

ただ、その「山荘東山殿」は「銀閣寺」というお寺となり、

 

今、世界中の人達が続々とやって来ています

 

 

 

 

お茶の井

 

 

 

 

 左大文字山

京都盆地の北西にあり、この山の麓に金閣寺があります

 

 銀閣寺の庭園の展望所から見ました


 

 

 

 

東求堂(とうぐどう)~ 国宝

北面に配置された四畳半は、

「同仁斎」と呼ばれ、草庵茶室の四畳半の間取りの始まり

 

 

銀閣寺垣

私は何も知らなくて、椿のあまりに見事なのにだけ目を奪われました

 

この参道の片側は椿の足元を竹垣で覆ってありました

下から石垣~竹垣~生垣(椿)

その見事な調和が見どころだったようです(^_^;)

 

 

金閣寺に比べ、確かに地味で境内もそんなに広くはないですが、

いいお寺です♪

 

 

コメント (6)

鞠と殿さま

2018-04-15 16:57:45 | 歴史

 

 和歌山城天守には、手鞠を模したシャンデリアが吊られていました♪

 

 

童謡 「鞠と殿さま」

 

てんてんてんまり てん手鞠

てんてん手鞠の 手がそれて

どこからどこまで 飛んでった

垣根をこえて 屋根こえて

おもての通りへ 飛んでった飛んでった

 

おもての行列 なんじゃいな

紀州の殿さま お国入り

金紋先箱 供ぞろい

お駕籠のそばには ひげやっこ

毛槍をふりふり やっこらさのやっこらさ

 

てんてん手鞠は てんころり

はずんでお駕籠の 屋根のうえ

もしもし紀州の お殿さま

あなたのお国の みかん山

私に見させて くださいなくださいな

 

お駕籠は行きます 東海道 

東海道は 松並木

とまりとまりで 日が暮れて

一年たっても もどりゃせぬ

三年たっても もどりゃせぬもどりゃせぬ

 

てんてん手鞠は 殿さまに

抱かれてはるばる 旅をして

紀州はよい国 日のひかり

山のみかんに なったげな

赤いみかんに なったげななったげな

 

     

 

子供の頃、この歌には想像をかき立てられたものです

 

大名行列に先だって、声が聞こえてくる

 

「下に~~下に、下に~~下に」 

 

街道の端に土下座する

お殿様たちの着物もキラキラときれいで 

髭やっこさんは、毛槍を高くほりあげて

 

ある時、女の子の遊んでいた手鞠が、行列に飛び込んできた

 

女の子の手からこぼれて飛んでった手鞠は、お殿さまが拾い上げ

長い道中をお殿様と旅して、紀州のお国まで連れられて、最後に、

 

”赤いみかんに なったげななったげな♪”

 

と、めでたしめでたしのオチがついてる結末 …ですよね?

 

ただ、江戸時代、徳川御三家のひとつ紀伊家の参勤交代の行列なら

鞠が飛んできた、女の子がそれを追いかけて行列の中に…

これは、お手打ちになってもおかしくない状況

 

この歌のように、穏便にことが済む訳がない…大変!

 

行列の規模がまたすごい 

 

たとえば、天保12年(1841) 紀州徳川家の参勤交代時の大名行列の規模

武士 1639人

人足 2337人

馬 103頭

 

これだけの行列が通り過ぎるまで、

道に伏せてじっとしていないといけなかったんですね~

 

 

 

 

 

以前、紀伊田辺に行った時、町の中を歩いていましたら

紀州手鞠を作る教室の看板が掛かった家を見ました 

手鞠は和歌山の伝統工芸品に、なったのですね

 

そもそも手鞠はといいますと、 

平安時代末期頃から、御殿まりとしてお姫さんたちにとって大切な物でした

 

紀州てまりは初代紀州藩主徳川頼宣のころから

御殿女中が幼くして嫁いだお姫さんのために作られていたそうです

 

そのお女中が宿下がりをした時、自分たちの娘のためにも作ったのが

城下の人々に広まったようです

 

昔、手鞠は、はまぐりなどの貝殻に砂や小石を入れて

真綿でくるんで絹糸でかがったものもあったとか

振ると、カラカラなのか、サラサラなのか、音がしたのでしょうね

とにかくゴムまりの様には、ポンポンはずまないでしょうね

 

 

天守閣前の広場に、「鞠と殿さま」の歌碑がありました

 

 

 

 

写真1「紀州手鞠・画像」の画像検索結果

 

見事ですね♪

 

 

 

コメント (2)

じゃっどん、西郷どん9

2018-04-14 12:37:06 | 西郷どん

 

西郷どんと、正助さんは、幼なじみで、

こんな友達は、なかなかないなあ…

 

 

『大久保正助を忘れてきた』

 

『吉之助さあ、すまんじゃった』

 

鹿児島の龍門司坂で、江戸に発った西郷どんに、

正助さんが、追いついた時の会話でした

 

大久保正助の江戸行きを、斉彬公に願い出て許されました

西郷どん、篤姫さんの婚礼道具も立派に整え、斉彬公の信頼もばっちりで、

許されたのでしょうね♪

 

始めは、正助さんは行くのを断ってました

どんどん出世していく西郷どんに、妬む気持ちもあったかな?

自分の力で志を果たすんだと断りましたが、

若い時、ありがちなことかも…

(私もそうでした)

 

そんな時、

祝言を挙げたばかりのお嫁さんの満寿さんに諭されましたね

旅支度までしてくれて、いいお嫁さん

 

西郷さんの元、お嫁さん須賀さん、この方もよく出来た方でした

薩摩の女性は、強い!

須賀さんと満寿さんの共通点は、

だんなさんのことを想い、自分のことはさておき、江戸に行かせる

 

鹿児島の言葉では、”よかおごじょ” ですか?

 

 

あ、鹿児島のことばといえば、

テレビで、

”んだもしたどげなもんな…” で始まって

”まこてげねこちゃ わっはっはっ” で終わる

 

なぜか旋律が、私のこのピーマン頭に沁みついているのです

歌詞は、ところどころなのですが…、

いつ聞いた?習った?修学旅行の時?

まったく覚えがないのです

 

ドラマ「西郷どん」が始まってから、ちょくちょく聞くようになり、

そんなこと思っています

ほんといつ知ったんでしょうね(^_^;)

 

 

さて、老中首座の阿部正弘の急逝により、斉彬の立場はどうなるのやら

じゃっどん、井伊直弼さんが怖…

(おんな城主直虎の時と違って、井伊は憎まれもん?)

 

西郷どんと正助どんは、江戸へ

 

『行っど~!』

 

 

コメント

和歌山城

2018-04-09 17:32:54 | 歴史

 

 

 

前から行きたかった、和歌山城に行ってきました

徳川御三家のひとつ紀州徳川家のお膝元ですね

 

元和五年(1619) 家康の十男である徳川頼宣が初代紀州藩主となる

(55万5千石)

以降、八代将軍吉宗

九代家重

十代家治

十一代家斉

十二代家慶

十三代家定

そして、十四代家茂(慶福)

と、紀州徳川家からの将軍がこんなに続いていたとは、知りませんでした

 

大河ドラマ「西郷どん」の今は十三代家定(又吉直樹)ですね

そして、十四代目を、ひー様(松田翔太)で、と島津斉彬公が推してますね

 

 

さて、 

入城口

天守に上がりますと、海が見えました♪ 

 

 

 

右から、紀の川が海へ注ぎ込んでいきます

この紀の川が自然の要塞になったとのことです

 

紀の川は奈良県の大台ケ原を源流とし、

ぱっと、地図で見ると和歌山市、和歌山城の北側を

ぐるっと囲い込む様に流れていますもんね

 

 

写真の左の方に、「和歌の浦湾」

沖は、紀伊水道

大阪京都方面なら、南海電車に乗って、和歌山港駅へ

そこから南海フェリーで、南海四国航路へ

淡路島の南の沖を南西へ、四国の徳島港駅へ行けるみたいですね~♪

 

南海フェリーは国内でも稀な “鉄道連絡船”だそうですよ
 
 
上の写真で、もうひとつ

河口に紅白の煙突などが見えますが、「新日鐵住金和歌山製鉄所」です

 

 

 

天守閣は「虎伏山・とらふすやま・48.9m」に建っています

三重三階、階段でのぼりました

  

天正13年(1585) 

羽柴秀吉が紀州・和泉を平定し、弟の秀長に和歌山に築城を命ずる

普請奉行は、藤堂高虎らで、初めての「近世城郭」を一年で完成させる

 

 

  

石垣

豊臣の時代は「野面積」

 

自然石を切り出したままの形で積み上げる

使われている石が、特徴的で「紀州青石」と呼ばれる(緑色片岩)

あちこち、青緑色っぽく見えますでしょ?

 

 

 

敷石も緑色片岩ですが、これはいつ敷かれたのか…?

 

天守閣

・寛政10年、黒板張りだったのを白壁の天守に改築

・弘化3年、落雷で焼失

・嘉永3年、再建(ほぼ元通り)

・昭和20年、空襲で焼失

・昭和33年、復元(鉄筋コンクリ―ト)天守内は博物館

 

鎧兜、武器、などの展示の中で、気になった物もありました

それは、次のブログに書かせて頂きます

 

コメント (2)

春の月

2018-04-04 15:11:40 | 四季折々に

 

 

4月4日 朝5:54

空はもう、明るくなっていました

月はいちばん高い所に白く見え、輝くという感じではありませんでした

 

月齢 17.6

月の入りは、8:02

 

空には、月以外なにもありませんでした

 

 

コメント (4)