kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

彦根・埋木舎

2017-10-30 17:58:23 | 滋賀

 

 

 

埋木舎(うもれぎのや)

 

ここは、井伊直弼が青春時代を過ごした館です

 

大河ドラマは今、井伊万千代(のちの直政)の時代ですが

 

彦根藩井伊家の初代藩主が、井伊直政で江戸幕府が開かれる直前に活躍

 

13代藩主の井伊直弼、こちらは江戸幕府の終わり頃に大老となった人

 

 

直弼は父直中の14男として生まれ、次の代を継ぐことはないと

 

誰もが思いますよね

 

本人はどうだったのか、 こんな歌を詠んでいます

 

 

世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれておらむ心なき身は

 

 

そんな青春時代を埋木舎で過ごします

 

一体、どの様に過ごしていたのか…それは、

 

茶の湯、和歌、能楽(鼓も)に親しみ、のちには一流の人になります

 

付いたあだ名が、 「茶・歌・ポン」

 

茶の湯と和歌と能楽(鼓をポン!)で、ちゃかぽん、だったそうです♪

 

昔の人も、ニックネーム付けるの上手ですね

 

おまけにそれだけには留まらず、

 

武術、馬術、などにも長けていて、まさに文武両道に励んでいたのです

 

この頃は、いわゆる捨て扶持の身分で、300俵の扶持米を与えられていました

 

悔しい気持ちもあったでしょうね

 

しかし直弼は、好きなことの道で才覚を表していってます

 

ところが、その人生が一変します

 

藩主である兄、直亮の世子である直元が亡くなり直亮の養子となり江戸へ

 

12代藩主の直亮も亡くなり直弼が13代彦根藩主となりました

 

人の世って分からないものですね…

 

 

 

 

 

 

 

 

埋木舎は今は代々大久保家が当主となっています

 

大久保家の祖先は、井伊万千代(直政)を養育したり

家康の命により井伊家の重臣として仕えてきたりし、

井伊直弼が桜田門外で暗殺された後も明治時代になっても

彦根藩を一心に守りました

 

これらの功績により、井伊家より大久保家に寄贈されたのです

ところで、この大久保さんの御親戚、古くは時代劇で有名な

天下のご意見番大久保彦左衛門

小田原城主大久保忠世、この方はドラマおんな城主直虎で

織田信長が材木三千本の調達を命じていることをノブを通して

万千代が聞きだした相手ですよね

 

その頃から現在まで、受け継ぎ今のご当主は

第15代大久保治男さんです

埋木舎の修復など、今も大切に守っておられます

 

そんな話やらなんやらを、快く説明して下さった方が

 

 

この方、お名前忘れました

 

この門を潜り入ると、

 

むっとしてもどれば庭に柳かな  井伊直弼

 

この句の札が柳の木に付けてありました

 

また、お座敷には直弼の詠んだ和歌が案内文と共に掲示してあります

 

茶の湯とてなにか求めんいさぎよさ心の水をともにこそ汲め 

 

 

 

埋木舎で心身を磨いた青春時代があってこそ、

 

彦根藩主となり、江戸幕府の大老となり、迫り来る外国から国を護り

 

開国の礎を創ることが出来たのかもしれませんね

 

親が有名でお金持ちの二世三世に多いのが

考えが甘い、ちゃらい、自立してない、結局自業自得の急降下

 

ゼロから頑張ってみるべきですよね

 

ま、元々何もなくて最後まで何も成さない者もいますけどね、ここに(>_<)

 

 

 

石蕗が庭のあちこちに咲いていました

 

山茶花がひとつ咲いていました

 

 

 

茶歌ポンと埋木舎に秋の声  koh

 

 

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彦根城、台風一過

2017-10-30 13:22:09 | 滋賀

 

 

  

 

10月25日に写した彦根城です

 

下の写真と比べて下さい 

 

 

 10月7日の写真です

 

 

天守閣を守る「多聞櫓・タモンヤグラ」の壁が、大きく落ちていました

 

この間の台風は、身近な所でもたくさん被害が出ています

 

 

7日、カルチャークラブの行事で彦根に行き、

 

25日、俳句の会の吟行で行ったもので、

 

はからずも、こんな写真2枚を撮ることになりました

 

 

大荒れの10月でしたが、両日とも雨と雨のすき間をぬって行ったことになりました

 

 半月程の間に、紅葉も進んできていますが、まだちょっと…

 

やっぱり来月ですね♪

 

 

彦根城の堀

 

 

 

 

 

 彦根城を望める玄宮園も紅葉はまだ 

 

 

埋木舎の前から佐和口を見ています

 

佐和山の方に向かう出入り口です

 

向かって左側が二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)です

 

右側の櫓には「開国記念館」として、展示施設が設けられています

(昭和35年に復元)

 

ここで、大河ドラマ「おんな城主直虎」に関する展示を開催中でした

 

 

鴨でしょうか、 すいすい~♪

 

仲がよさそう、同じ方向へ進むことも

 

台風の爪痕は無残ですが、辺りは澄み渡っていました

 

この後は、埋木舎をアップしたいと思います

 

 

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直虎が竜宮小僧になる時四十一

2017-10-21 00:48:47 | おんな城主直虎

 

 

第41回  この玄関の片隅で

 

さあ、草履番の後釜さんのご登場、ノブとおっしゃるの?

 

おや、鷹狩の時の家康に虎松の印象などを話していた鷹匠さんではありませんか

 

ちょっと胡散臭いなあと思っていましたし、

 

ま、この人は原作者の森下佳子さんが生み出した

 

架空の人物ちゃうのん? と思っていたのですが、

 

な、なんと!

 

ノブ、すなわち「信」 本多正信ですと!

 

最近の記憶では、「真田丸」において、近藤正臣さんが熱演されていました

 

あの、本田殿だったのですね

 

大変失礼いたしました

 

三河の国の出身で、はじめは家康に鷹匠として仕えたが、

三河一向一揆の時、家康に反旗を翻したが鎮圧され、

逃走し、10年程は諸国を放浪していた

 

その後、また家康の元に戻り大久保忠世(タダヨ)の世話で

帰参を許されていたという

 

万千代と会っている今がまさにその時ということかな

 

その後、家康の側近となり、家康が「友」と呼ぶほどの信頼を得、

江戸幕府が開設されると幕政を主導するまでになった

 

正信は、出世しても所領を増やしてもらう事も望まないような人物だったとか

そして年老いて暇を許されるまで政務に励んだという

最期は、家康が亡くなって2か月経った頃だった

 

 

Honda Masanobu02.JPG

本多正信

 

家康が鷹狩で虎松の印象をノブに聞いていたのも信頼の証しですね

家康は人を見抜く力が凄いし、人を育てることにも長けていた

 

こうして家康の傍らには優れた武将が集まったのですね

 

 

さて、ノブがそんな人材とはつゆ知らず、血の気の多い万千代くんは

万福くんのアドバイスもどこ吹く風と、

とにかく早く小姓に上げてもらうことを思いつつ出勤しておりました

 

万福は、ノブを見る他の侍たちの様子から何やら妙な気配を感じたのですね

万千代にないものを持っていて、頼りになります♪

 

その頃、武田信玄亡きあと、息子の勝頼によって再び、

三河、遠江が侵攻され始めました

 

戦いの情報を、万千代は小耳に挟みます、情報元は、ノブでした

織田信長が援軍をよこすということ

そのためには材木を三千本調達すること

 

それを聞いた万千代は、小細工をはじめた

家康の草履の鼻緒を切ることによって家康に近づき

材木は井伊が得意分野なので、調達を申し付けてほしいと直接願い出る

首尾よく調達が出来れば、初陣を飾らせてほしいと

 

いやあ、言わば入社したての平社員ですよね、それを社長に

直談判ですか、イケイケですね

 

『誠、あやつはあの手この手で出し抜いてくる』

と、家康も呆れながらも、心なしか嬉しそうでしたね

 

結局、徳川からの材木調達の役目は近藤康用にすり替わっていた

 

『あの話はなしということでな、

戦から戻ったら小姓には引き上げてやるゆえ、

日の本一の留守居、励むがよいぞ♪』

 

そんな事を家康から言われた万千代の今回一番のキレどころでした

 

『あの腐れ尼じゃあ~!

裏から手を回し握り潰したに決まっておる~!』

 

まだまだ未熟な万千代を甘やかさないでほしいと、

手柄はさておき、材木は近藤に命じてもらったのですね、さすが直虎さん

 

 

そして、五百本調達が近藤に命じられたのですが、これが奥山六左衛門に

思わぬ幸せを連れて来ましたね

 

かねがね、六左は武功を立てたいと願っていたところ、

井伊からの材木を切り出す役目のリーダーを直虎から命じられ、

これも武功と喜んだのでした

 

どんなタイプの者にも心を配り、働く喜びを感じさせてくれる

そんな上司だったら仕事に励みますね、私でも♪

 

直虎は竜宮小僧になることを忘れてはいなかった

いや、むしろ、知らず知らずのうちに皆の助けになっていたのかもしれません

やっぱり、名おんな城主ですね♪

 

万千代、今は直虎のことが腹立たしくて憎くらしくて、怒ってますが

潜在的に直虎の愛を感じているからこそ、

安心して直虎に刃向うことが出来るのかも

 

ま、いずれにしても実母のしのさんと、養母の直虎と、

かなり気の強い母二人に育まれたゆえ、あの形相で怒り放題の万千代が

あるのでしょうね

 

次回は何が万千代を怒らせるのでしょうね~

 

ではまた

 

 

 

 

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直虎が竜宮小僧になる時四十

2017-10-21 00:43:02 | おんな城主直虎

 

 

再び、第40回 天正の草履番

 

今一度、人間観察を

 

今度は、恐れ多くも勿体なくも、徳川家康さま

 

阿部サダヲさん演じるところの家康さまは、今のところ古狸は可哀そうかも

 

木の葉をお金にして人を化かすことなど…どうでしょう

 

今は若き日の家康さんで、アラサーくらいかな?

 

奥様の瀬名さんに弱いし、三方が原の合戦ではしかみ顔の図を残すほどの

 

痛手を受けましたし…それでも

 

天下人となる片鱗をうかがい知ることが出来ますね

 

直虎は、虎松(万千代)のことで浜松に来た時、

 

家康に会い、話す機会がありました

 

龍潭寺に帰り、和尚に家康に会った時の様子を伝えていました

 

『ああいうお方のことを ”非凡なる凡” というのではないでしょうか

 

生まれが凡なることを踏まえ、凡なることを着実に成しえて行かれるお方は

 

やはり、非凡だということでは…』

 

 

家康は、人を見る目があるし、その人を使うだけでなく

 

育てていくのに長けていたのでしょうね

 

直虎が、なぜあの子(虎松)を抱えて下さったかと聞いていました

 

家康は、理由は三つあると

 

一、井伊を助けたかった

(直親暗殺の時も井伊攻めの時も、助けるだけの力がなかった

その悔いから解き放たれたかった)

 

二、泣かせてばかりの瀬名の望みを聞き入れてやりたかった

 

三、万千代が武将として大きく育つと思った

(あの子は叩かれれば叩かれるほど、奮い立つと思った)

 

その叩かれるというのは、松下の跡取りなら他の家来の目は温かいが、

井伊の遺児となれば、今川の国衆の子とか、銭で潰れた家の子で、

あるのは家格だけ、こんなことを言われるだろう、ということ

 

こんなことを、推察したのですね~家康さん、さすがです

 

更に、直虎にこんな事も言ってました

 

『徳川の所帯も大きくなった

家中には今川の者、武田から来た者もいる

三河者でなくとも、実力次第で出世が望める、

そういう家風にならねば謀反が相次ぐことが目に見えている

 

今後の徳川の生き残りを分けること

万千代がその先駆けとなる力を秘めておるような気がするのじゃ

 

人は宝、大事にせねば』

 

直虎は、虎松にとって家康に仕えることは意義があると考えが

変わってしまったみたいですね

 

このことを、万千代は知る由もなかったのでしょうね

 

何しろ、「〇〇尼~~」 ですもん

 

 

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直虎が竜宮小僧になる時三十九

2017-10-21 00:40:24 | おんな城主直虎

 

 

第40回 天正の草履番

 

家康に、日の本一の草履番になると言い切った井伊万千代

 

今回は万福をニンゲン観察モニタリングしたいと思います~♪

 

とにかくこの状況から抜け出し、一日も早く小姓になりたい

 

井伊万千代と小野万福は、アイデアを絞り出すものの、

 

始めから、そう上手くいくはずはないですよね~

 

万千代は、猪突猛進型で、気に入らないとキレる!

  

そんな物騒な若殿の横にいつも居るのが

 

小野万福

 

母はなつ、父は小野玄蕃、玄蕃は政次の弟です

 

弟は結婚し、息子を設けましたが、兄の政次は未婚

 

幼い頃からいつもおとわ(直虎)を温かく見守って、

 

最期は究極の愛の形で、帰らぬ人となりました

 

思い出しても目頭が熱くなるわたくしめにございます(@_@。

 

脱線しました

 

万福くんのことでした

 

万千代の、爆発する心を押さえたり、ふと違う角度から

 

物事を見てくれたり、この子は、万千代の懐刀ですね

  

 

そんなことで、万千代と万福の新入社員の日々が始まりました

 

ただ、松下や小野、奥山、井伊の思いですよね…

 

松下としては、これでは跡取りが居なくなるし、

 

奥山、小野は、その松下に抱えてもらってるのだし…

 

直虎にしてみれば、それらの皆を困らせ悲しませるだけのことと考えました

 

南渓和尚は、ちょっと違いますけどね

 

 

万千代がまだ虎松だった時、松下に養子に行くことを言い渡され

 

虎松は、和尚や直虎に泣いて行きたくないと訴えていましたね

 

自分が井伊を支えなければ、と直虎に誓っていたのに

 

もう井伊の虎松ではないと告げられたことが悔しかった

 

だから、直虎には恨み辛みがあるようです、若さゆえの…

 

浜松に来た直虎にも、

 

そなたは頭首でもないのに何故説教をされねばならぬのじゃ

 

なんて言うてました

 

草履番の手法にアドバイスをしてくれたのに、ありがとうって言いましたぁ?

 

昔のことを相当根に持ってるのですね

 

そんな直虎に、万福がこっそり言いました

 

井伊が潰れた時のことです

 

『自分たちはまだ幼くて戦うことすら出来ず、戦は終わってしまった

 

それを、負けた奴らだと言われるのが悔しいのです

 

ここは静かに見ていて下さいませんか

 

殿は我らに思う様に生きよ、とおっしゃったのですから』

 

いつもは穏やかな万福の言葉だけに、心に響きましたね

 

直虎も松下常慶も思うところがあったようです

 

こうして見ると、心を伝えることに万福は長けていますね

 

動の万千代、静の万福

 

この2人は、相棒、トミーと松、のび太とドラえもん、鉄郎とメーテル

 

1+1=∞ 無限大です♪

 

そして、日の本一の草履番、の言葉が家康の口を突いて出ましたね♪

 

しかし、またもや課題が!

 

そこまで極めると、あとがない、後輩の育成をしよ、と

 

ここで、次なる日の本一の草履番の候補者がやって来ました

 

どこかで見た顔と思えば、鷹狩場で幕の後ろから

 

顔をのぞかせ、万千代の第一印象を家康に話していた

 

鷹匠 ノブ

 

何だか、秘密がありそうな人

 

どんなかなあ~

 

 

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久しぶりの青空♪

2017-10-17 23:57:43 | 四季折々に

 

 

何日ぐずついたお天気だったでしょうか

 

昼から少しですが、青空がやっと出て来ました

 

やはり青空はいいものですね♪

 

新米を頂きました

 

玄米のままなので、突き立てを食べることが出来て嬉しいです♪

  

それで、道の駅の精米機で精米してきました

 

自販機みたいに料金を入れて、突き方は無洗米にセットしました

 

(次に来られた方は、5分突きでした、健康的)

 

1分突きとか3分突きとか5分突きとか選べるんです

 

米ぬかもそれ用の出口から出て来て持って帰れます

 

少し持って帰りました

 

 

新幹線が道の駅の横を走ります

 

道の駅には、ドクターイエローの通過時間を掲示板で伝えてくれてます

 

以前、ドクターイエローに手を振ろう~~!

 

とかなんか、イベントをしていて、ニュースになってました

 

今回は、その日ではなかったようです

 

 

コスモス満開です

 

新幹線からも見えるでしょうか、あっという間に通り過ぎるかな?

 

 

この辺りは、父がお世話になった介護施設や病院があって、

 

自転車でよく通った所です

 

仕事も近くの場所でしたし…

 

帰り道は虚しさがこみ上げてくるのを、

 

ペダルを必死でこぐことで、ふっ飛ばしてた気がします

 

懐かしいなあ~

 

 

 

 

 

 家の近くの土手には、薄やセイタカアワダチソウ?ブタクサ?がゆらゆら

 

悪評高い黄色い花ですが、そんなにも嫌じゃないですけどね

 

花粉も感じないですけどね

 

 

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彦根に行ってきました

2017-10-10 16:46:38 | 歴史

 

 

 月に一度のクラブ活動です

 

今回の遠足は、彦根城下を散策しました

 

先ず行ったのが 「曹洞宗・天寧寺・テンネイジ」

 

井伊家ゆかりのお寺です

 

アクセスは、JR彦根駅を挟んで、お城のある地域とは反対側へ(東側)

 

路線バスなら、簡単に行けそうですよ♪

 

今回は歩きました

 

急な坂を少し登ると小高い山の中腹に天寧寺はありました

 

 

羅漢堂(仏堂)

 

天寧寺は井伊直弼の父、井伊直中が建立 文政5年(1822)頃の創建 

 

 

五百羅漢

 

~自分の探し求める人に会える~

 

羅漢堂の本尊は、「釈迦如来」

その両脇には、「十大弟子」

堂内には、「十六羅漢」と「五百羅漢」、併せて527体

 

 

 

 

すべてのお顔を見るのは無理でしたが、前列に「稀勢の里」に似た様な… 

 

 

羅漢さんは所々に安置された頃の絵の具の色が残っていて、

当時は、鮮やかな雰囲気だったと思います

でも、朽ちた雰囲気も好きですけどね

 

 

五百羅漢さんに番号が付いていて、前列右の方が一番

どの羅漢さんにも「〇〇〇尊者」と書かれているようです

最上段なんか、見えないんですよ

今度は双眼鏡を持って行きますか!

  

とにかく、堂内は圧巻でした

 

 

 

羅漢堂の真裏には布袋尊が

 

背が1.2m、重さ300kgで木造日本一だそうです

 

皆さん、撫でて行かれるのかな? 

 

私も、分からないまま右ひざを撫でさせてもらいました

 

 

 

こちらは本堂(法堂) で前庭は羅漢石庭 

 

 

このお寺の創建には、ちょっと複雑な訳がありまして…

 

井伊直中(直弼の父)が、自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の

 

菩提を弔うため、寂室堅光禅師により建立されました

 

文政2年(1819)の春、 男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で

事件が持ち上がりました

奥勤めの腰元の若竹が子を宿しているらしいという噂が立ち、

それが藩主の耳にも届いたのです

大奥の取り締まりのためにも相手の名を詰問したが明かさず、

遂に不義はお家の法度、の掟に従い手打ちとなりました

 

後に、それが我が長男の直清だと分かり

直中は知らなかったとはいえ、大層心を痛め

若竹とお腹にいた子(初孫)の追善供養のため、

京の大仏師駒井朝運に命じ、五百羅漢を彫らしめ安置させたのでした

 

と、彦根藩大奥物語があった訳なんですね…

 

境内には、他に井伊直弼公供養塔、腹心だった長野主膳の墓、たか女の碑があります

 

世継ぎ問題は、どの藩も重大事項で、井伊家もご多分に漏れず

 

超大変

 

直清は嫡男、直弼は14男らしいですが、最終的には

直弼が13代彦根藩主となり、後には江戸幕府の大老ですものね~

人生なんて分からんもんです

 

ところで、天寧寺のお坊さん(ご住職かな)にお話を聞きました

 

現在全国で上映中の 「関ヶ原」

この映画のロケ地になったそうです

三成が秀吉に初対面で、お茶を振る舞った有名な話

「三献の茶」

このシーンを五百羅漢の前で撮影されたそうですよ

他に、延暦寺、日吉大社、百済寺、彦根城、姉川河口、愛知川などなど

 

司馬遼太郎原作、原田眞人監督で

 

愛と野望が激突!だそうです

 

どんなんかなあ~

 

 

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句会に行きました

2017-10-09 12:21:02 | 俳句・和歌

 

月例の句会に行きました

 

先生が主宰を引退されて初めての会でした

 

まずは皆で、先日の引退セレモニーの事を話しました

 

聞いていたよりも、かなり出席者が増えていたそうです

 

ほんとに大きな会場にいっぱいの人でした

 

 

この先は、新しい句会は立ち上げないそうで、私達が最後の句会になりました

 

ということは?

 

上にはずら~~っと、先輩句会が、そして、

 

下には…、誰もいない

 

いつまで経っても誰もいない…

 

言わば、末っ子句会、決定です

 

これは、ことのほか可愛がってもらえるかも(*^^)v

 

 

 

 

さて、今回の句集に選んで頂いた句は、

 

にわか雨踊太鼓の乱れ出し

 

子ら集いラジオ体操蝉の声

 

甘党の父に饅頭を盆支度

 

地蔵盆提灯に子の名を探し 

 

 

 

これでいいか、と思って提出するものの、

あとで見ますと、残念な句ばかりで…

上達しませんね~(ーー゛)

でもまあ、楽しいですから、こんな調子ですがやって行きます♪

 

 

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直虎が竜宮小僧になる時三十八

2017-10-06 12:09:38 | おんな城主直虎

 

 

第39回 虎松の野望

 

井伊が潰れて6年、

 

天正十二年に、直親の十三回忌が龍潭寺で営まれました

 

しの、なつ、六左衛門、亥之助、そして虎松も帰って来ました

  

 

 

松下虎松

 

直虎に向けた笑顔に、どことなく直親の面影が…

 

 

 

 笑顔の爽やかな、聡明な男子になっていました

 

 

井伊の里を、直久の案内で、亥之助と共に見て回った虎松

 

井伊の里の豊かなこと、今は水堀造りを近藤に願い出ていること

 

これらが、直虎の尽力あってのことと聞いて、

 

キレてましたね~(^^♪

 

自分には諦めよと言いながら、直虎は諦めていない

 

この事にカチンときたようで、颯爽とキレッキレだけでなく、

 

気にらないと、キレる、この時代にもこういうタイプ、いたのでしょうね

 

そして、虎松の猛進が始まりました

 

『すばらしく豊かな里、何がなんでも頂戴しとうなりました!』

 

虎松は、南渓和尚にアシストを求めました

 

思えば、南渓和尚は虎松が松下に養子に行く前に、秘かにけし掛けていました

 

それは、直虎がもう井伊を再興するつもりがないのを知って、

 

『虎松は井伊の虎松にございます』

 

と、和尚に泣いて訴えた時のこと

 

『あれ(直虎)はのう、もう殿ではない

ならば従わねばならぬという道理もないのじゃ』

 

 

だから、虎松がその気になるのを和尚は虎視眈々と待っていたはず

 

和尚は、この上なく喜んだと思いますよ♪

 

 

 

 

虎松は、あの日のことを忘れず、井伊の家名を立て直す機会を待っていたのでしょう

 

和尚に徳川への手紙を託し、六左にこの事を口止めをします

 

六左さん、冷や汗を拭いてもらえばもらうほど、冷や汗が出ます

 

優しく、追い詰められていますよ(^_^;)

 

 

手紙は、井伊虎松として徳川の小姓に上がりたいと願い出たものでした

 

なかなかやりますね 

 

 

 

しかし、相手は家康、そう易々と希望を通してもらえることもなく、

 

井伊を名乗りたいと内心思っているだろう?と 

 

居並ぶ貫録の家臣の前で、自ら「なりたい!」と言い出す羽目になりました

 

 

 

皆にとっては、たかが、小童なのでしょう

 

 更に、小姓にするのは「松下虎松」なら、

 

「井伊…」なら、小姓ではなく草履番を、と、

 

ま、そんなもんかなと思わなくもないですが…

 

虎松、当てが外れました

 

あ~キレるう~

 

 

しかし、偉い!

 

『井伊万千代、かくなる上は日の本一の草履番を目指す所存にございます』 

 

何とか、徳川ホールディングスには入社した、そんなとこでしょうか 

 

 

とは言うものの… 

 

 

 意気消沈の、虎松と亥之助

 

 

 いいお部屋を当てがってもらえたのもたった一日…

 

一見、物置小屋に移され、堪忍袋の緒が切れた

 

悪口、言い放題

 

亥之助は、ちょっと大人ですね、若様の好き友♪

 

一生懸命、虎松を諌めておりました

 

 

 

なんか、紐が頭に絡んでますけど…涙…

 

気を取り直した虎松は、亥之助と二人

 

草履番を極めるべく、動きはじめました

 

さてさて、徳川方の皆々様の草履は、

 

虎松の出世への足元をすくうのか、はたまた、加速させるのか!?

 

 

ではまた

 

 

 

 

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直虎が竜宮小僧になる時三十七

2017-10-06 12:02:06 | おんな城主直虎

 

 

第38回 「井伊を共に去りぬ」 では、武田信玄と南渓和尚が酒を酌み交わしながら

 

戦のこと、来世のことを語り合っていましたが、

 

よかったです~

 

立場は違えど、共に戦国の世に生きる二人の言葉は深かった…

 

緊張感のない平成のおばさんにも、すこぶる印象的な場面となりました

 

 

今一度、振り返ってみたい

 

 

 

 

風林火山

 

 

 

 「風林火山 意味」の画像検索結果

 

 

疾きこと風の如く

 

徐かなること林の如く

 

侵掠すること火の如く

 

動かざること山の如し

 

 

 甲斐の戦国大名・武田信玄の軍旗にある有名な「風林火山」とは、


孫子の兵法書にある一節


第38回で、武田信玄が急病で亡くなりましたが、


その直前、南渓和尚は武田の陣を訪れていましたね

 

徳川の軍を追い払い、遠江へどんどん攻め進んで来ていた時でした

 

本人にしてみれば、今川も落ち、もう徳川も落とせると思った矢先だったかも


井伊谷も近藤に焼かれ、更に武田軍に焼き尽くされていました

 

 

 

 

南渓瑞聞の願いは、井伊の安堵でした

 

ひとつ間違えば、首も飛びかねないような中、

 

やはり僧侶という立場は、特別なのか

 

武士と言えども手出しは出来ない世だったのか

 

信玄はそんな和尚に、何か魅かれるものがあったのでしょうね


信玄の陣営で、酒を酌み交わしていました

 

 

 

『なまぐさ坊主がちょうどよい。 戦ごとは苦手…』 と和尚

 

二人のやり取りを見ていて、

あ~戦国乱世を渡って行く宿命なんて、つらいだろうなあ~

と思いました

 

人と人とが命を奪うことの愚かさを知りつつも、

 

生きる糧を得るために、他国を襲い奪い続けなければ生きられない

 

だから、戦に強くなることが何よりの生業

 

 和尚がそんな信玄に、

 

『来世は何になりたいとお思いか、朝な夕なに祈願して差し上げましょう』

 

 と問いかけると、

 

『お天道様がよいかのう、

 

あちこち睨みをきかせ雨、土を調略し、どこもここも恵まれた土地とする』

  

 

 

よく知られている信玄の辞世の句は 

 

大低還他肌骨好 不塗紅粉自風流


大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流

 

(大ていは他の肌骨の好きに還ろ 紅粉を塗らずしておのずから風流)

 

此の世は、世相に任せるものだ

その中で自分を見出して死んで行く

見せ掛けで生きるな

生きるのは本音で生きることが一番楽である

 

と、言っていた

 

そんな信玄も…

 

 

 

冥府よりお迎えに参りました…

 

 

と、寿桂尼様が…

 

 

 

信玄は本音で生きることが出来たのでしょうか… 

  

なまぐさ坊主と、甲斐の虎と、女戦国大名は、

 

あちらへ行って三人仲良くお酒を酌み交わしているのでしょうね…

 

 

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