「日の本一のつわもの」
そんな表現が400年後の、日の本の、一凡人の私にも伝わって参りました。
その戦いぶりとはどのようなものだったのか。
まず、嫡男の大助が旗を振り謡「高砂」を唄って相手を挑発し、佐助が爆発音を立てる。
その音を仲間割れと勘違いした前田利常の軍勢が
チャンスとばかりに空堀を登ってくる。
同じく、井伊直孝も後から攻めてくる。
空堀を充分登らせぐっと引き寄せたところで鉄砲隊が一斉に打ち放つ。
それでも鉄砲玉をかいくぐって出丸に突入して来た徳川の兵を、
幸村、堀田作兵衛らが、槍で討つ。
こうして、豊臣軍は勝った。
「空堀」の底の部分は、大きな畝の様にデコボコが付けてありました。
あれは、足を取られ進撃を阻みますね。
実際の空堀はあの数倍のスケールだったのかもしれないな。
現在、真田丸のあったとされる所の近辺には「空堀通り」をはじめ、
「空堀」が地名としていくつも残っています。
ただ、江戸時代に徳川が築いた大坂城に関する空堀の名残りかもしれませんが
そうなんですよね、大坂城は紆余曲折を経て今の天守を構えています。
その歴史は、
① 明応5年(1496)浄土真宗の蓮如上人が坊舎を建てのちに石山本願寺となる
② 石山本願寺の地に、天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城を築城
(これは、織田信長が生前この地は天然の要塞であり、港を設けるにも適した土地であるから
城を建てたいと言っていたのを聞いていたので、それを実行したと言われています)
③元和6年(1620)徳川秀忠が夏の陣で落城した大坂城を再築
大坂藩を廃し、豊臣色をすっかり払拭した大坂城は江戸幕府直轄となる。
城主は将軍であるが、代々有力な譜代大名が大坂城代となり預かる。
(天守は寛永3年に建つが寛文5年(1665)落雷で焼失。
わずか39年でなくなる。
以後、昭和の復興まで266年間天守をなくしたままだった)
④明治維新の動乱で、櫓をはじめ大部分を焼失
⑤昭和6年(1931)市民の熱意によって現在の天守閣が復興
⑥第二次世界大戦で空襲を受けたがその後は史跡公園として整備されている。
こうした歴史を持つ大坂城、浪速の人も他の地の人も、
江戸幕府の城ということは忘れ去り、豊臣の大坂城と思っていた。
それが近年地下より古い石垣が発掘され、今の城は豊臣の大坂城跡に盛り土をして
建てた江戸幕府の大坂城と再認識することになったのです。
盛り土、出ました(^_^)/
※「大阪夏の陣図屏風~右隻」
※同左隻
左右合わせると、こうなりまして六曲一双の屏風絵
中央に大坂城が描かれています。
各隻150.3x360.7cm。
人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺など。
(凄いですね、誰が数えたのか)
右隻には慶長20年5月7日(1615.6.3) 大坂夏の陣終盤の様子
左隻には大坂城、落城後の大混乱を描いている。
大坂城を中心に、向かって右が南、左が北。
右から左へ合戦の推移が自然に展開している。
(絵って、瞬間を切り取ったものと思ってましたが、
時の流れによる情勢の変化も書くことができるのですね~)
大変生々しい描写。
この大阪夏の陣図屏風ですが、
もちろんポスターで4月、大坂城に行った時に買ったものです。
本物は六曲一双の屏風絵で、大阪城天守閣所蔵の重要文化財です。
実際見て来ましたが、ゾクっとしました。
一説に、合戦に参加した福岡藩の黒田長政が家来に命じて書かせたものとあります。
部分的に拡大して撮ってみました。
この屏風の折り目のすぐ左側中央に白馬がいて、その下に鹿の角の兜をかぶった武士が
真田幸村です。
赤備えの真田軍の中心に居ますね。
夏の陣なのでここは茶臼山辺り。
↓冬の陣の時は茶臼山には徳川家康が陣取っていました
大坂冬の陣の布陣
大坂冬の陣、豊臣軍が勝った…
なのでしょうか…
来週は第46回 砲弾
予告編で幸村が、和睦はだめ! と言っていたのが気になる…