kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

今日の句会

2016-11-30 23:03:31 | 俳句・和歌

 

定例の句会が、定例に出来てなくて、

 

今日の句会はとても久しぶりに思えました。

 

メンバーと会うのも久しぶりな気がしました。

 

今回の句集に乗せて頂いたのは、

 

・・・・・

 

二つ三つ洞冷まじき穴太積

 

「冷まじき・すさまじき」 という季語を俳句ブロガーさんのところで知りまして、

使ってみたくて、ちょうど坂本へ行った時、崩れかけた穴太衆積を見て

これや!と思い、挑戦してみました。

 

 

青蜜柑未だ修業と長老言う

 

軋む貨車秋の恵みを待つ町へ

 

曼珠沙華阿修羅の如く火の如く

 

・・・・・

 

 

2か月前に提出した秋の句でした。

 

 

今日は句会の後、喫茶店でこれからの句会について話し合いました。

といっても雑談ですが、みんなの気持ちが分かってよかったです。

 

とにかく、来年も句会は続きます。

退会する者はいないようです

 

それに伴い、私の句作りも進化するといいのですが…

 

どうだか…

 

12月の句会は22日です。

兼題は「数え日」

 

もういくつ寝るとお正月~

 

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十三

2016-11-27 17:54:46 | 真田丸

 

豊臣時代(1583~1615)の大坂城

 

 

↓こちらは、徳川時代の大坂城

 

 

並べますと、豊臣の大坂城の上に盛り土をし、徳川の大坂城を築いています。

 

 

 

最初の絵図の丸印のついている石垣が、昭和時代に発掘作業により見つかりました。

 

今は見学できませんが、先日ブラタモリで撮影されたのを見ました。

 

いずれ公開されるようで、楽しみです。 ハヤクシテクレナイト…

 

「真田丸」

 

砲弾が茶々局の座所目がけて打ち放たれたのが和睦に動いたきっかけとか。

 

大坂城の堀を埋められ、外にある真田丸は壊される。

 

家康にまんまと騙され和議以外の堀まで埋められてしまい…

 

家康はわずか4か月ほどで堀を埋め尽くし、再び征伐すると宣言し

 

夏の陣が始まります。

 

 

 

現在の三光神社に「真田の抜け穴」が残っていますが、

大坂城へと続いていると伝わります。

 

このあと、抜け穴を抜けるシーンはあるのだろうか?


 

 

 

 

夏の陣の結末は、明らかであり覆しようもありませんが、

その過程で、どのようなことを三谷幸喜さんは盛り込まれるのでしょうか?

 

今年の大坂城

 

 

大坂城から南を見ると、通天閣、あべのハルカスが見えます。

 

通天閣の辺りが天王寺で「茶臼山」が近くにあります。

 

冬の陣では家康が陣を敷き、夏の陣では幸村がここまで来ます。

 

更にこの近くには、幸村最期を迎えた「安居神社」もあり、

 

次第に悲しくなってきますが、「真田丸」さいごまでしっかりみ見届けないと。

 

 

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岩国錦帯橋

2016-11-23 17:30:14 | 旅行

 

岩国錦帯橋です。

 

 

 

 

広島観光2日目

当初予定していたのは、安芸の宮島、弥山(みせん) でした。

 

ところが11月1日、あのタイミングでの広島観光。

安芸の宮島はきっと、鯉鯉鯉…と思いました。

 

 30日のお昼なんぞは、広島名物お好み焼きを食べようと、

駅のお好み焼き屋さんが数軒集まっている所へ行ったところ、

どの店もこの店も、長蛇の列で断念していたのです。

 

翌日も観光客が多いだろうな~、自分もそのひとりで(^_^;)

広島と言えば、安芸の宮島は外さない…

 

宮島口に行くJRに乗り合わせた人達、何となく宮島観光の気配を、醸し出しています。

 

やっぱり私の乗った車両に座ってた人も立ってた人も宮島口で降りました。

 

 直前で、行き先を変更しました。

 

車両には、私とあと5人位しか残っていません。

想像以上に見事に宮島口で降りてしまわれました。

 

弥山に未練はあったけど…

 

そうだ、錦帯橋に行こう。

 

ということで。

 

広島駅から小一時間乗ったJRは岩国駅終点でした。

 

宮島口までの切符でしたので

 

岩国駅で、のりこし精算をして、観光案内所で訪ねて、

 

錦帯橋行きのバス往復、錦帯橋渡賃、ロープウエイ往復、岩国城入場、

これだけできるチケットを買ってバスに乗りました。

 

ここで、大失敗発覚!

カメラをチェックしてみたら、電源が入りません。

あれま、電池入れ忘れ…

 

乾電池ではないので、その辺では…、ヨドバシカメラも見当たらないし

仕方なく、スマホ頼みです。

ま、スマホ自身はいい仕事してくれますけど

ハサミもスマホも使い様…(ーー;)

使えそうにないけれど、仕方がない。

 

 

 

 

バスを降りて道路を渡ると錦川に架かる 「錦帯橋」

 

 

* 延宝元年(1673) 吉川広嘉(きっかわひろよし)により架けられた。

(歴史があるんですね~)

 

* 関ヶ原の合戦の後、吉川家が岩国を守ることになった。

(毛利氏の家来としてですが、

色々事情があったみたい)

 

* 戦後間もないので、藩は「防御」を重要視していた。

(また戦になるかと思いますよね)

 

* 城は海抜200mの 「横山」 の山頂に、麓の 「錦川」 を天然の外堀にする。

(自然の地形を利用した要塞は、

あちこちにあったのですね)

 

 

 

 

このことで、山側と川向こうに別れる城下町を結ぶ橋が必要。

 

* 吉川広嘉は明から帰化した僧の独立(どくりゅう)の見せた

「西湖遊覧志」に描かれた、いくつかの小島を結ぶ橋を見て心動いた。

 

* 延宝元年(1673)10月 五連アーチの橋が完成

ただ、錦帯橋という名は付いていなかった。

 

* この橋は翌年、降水で流されてしまったが、その年のうちに再建

(家来は近江の穴太衆から石垣の技術を学んでいる。

穴太衆積みの技術は有名だったんですね、ビックリ)

 

 

* 創建の翌年、再建されて以来276年間補修などを続けながら不落を誇る。

 

* しかし昭和25年、ギジア台風により流失。

 

* 昭和28年、市民の熱意により再建される。

 

* 平成16年、架け替え工事完成、今に至る。

 

という歴史をもっているとのことです。

 

川幅は広いですが、今見るとさほど水害など起こすようには見えないのですが、

かなり増水することがあったのですね。

 

横山の山頂の岩国城が錦帯橋から見えます。 

 

アーチを5つ越え、横山地区に入り、ロープウエイを目指しました。

 

 

 

 

ロープウエイから錦帯橋全体が見えました。

 

 

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スーパー十六夜

2016-11-17 00:41:02 | 四季折々に

 

スーパームーンを期待しましたが、その夜は雨。

何にも見えませんでした。

気象予報士さんが、スーパー十六夜を楽しんで、とTVで言ってました。

 

頑張って空を何度も見ていましたら、日が変わったころ

黒い雲の中にお月さんが透けて見えてきました。

 

 

そして、

 

ワンチャンスでした。

 

 

黒い雲が晴れて、ようやく見えました。


やや右よりの上の方がほんの少し欠けてきてます。


もう、夜中の12時をまわっていて、月の位置は頭の真上。


いつもの満月より大きいですか?


と聞かれたら、


変わりないですね。


しか言えない…でも、美しい。


 

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広島

2016-11-15 18:16:06 | 旅行

 

10月末、コンサートで広島へ行って、少し観光をすることが出来ました。

 

思い出は薄らいできていますが、シナプスを必死で繫いでみます。

 

10月30日の朝、家を出て広島へ。

 

前日、日本シリーズ戦で、広島は日本ハムに敗れ、優勝が決まっていました。

 

薄情ですが、私としてはこれで多分新幹線は混雑しない!

 

と踏んで、自由席のまま乗りました。

 

ありがたいですね、一人座るのに迷うくらいの空席。

 

お昼には駅に着きました。

 

広島駅

 

どうも、最近は駅といい、神社仏閣といい、ただ今改修中の文字が目立ちます。

 

2020東京オリンピック効果でしょうか?

 

広島駅は若い人も多く、活気があります。

 

いつもそうなのかもしれませんし、日本シリーズのせいかもしれません。

 

さて、 

 

コンサート会場と平和記念公園は歩いて15分位の所にありますので、

その日は、平和記念公園に行きました。

 

以前見ていない広島平和記念資料館に入りました。

 

広島平和記念資料館

 

入り口には修学旅行生らしき団体さんが列をなしています。

 

意外や意外、その横をスイーッと進んでいいと係りの方に勧められ、ラッキー♪

 

でも中はいっぱいの人で、結局芋の子を洗うような状態の中、芋の婆です。

 

学生さんは、メモを取っています。

 

撮影がOKでしたので、少し写してきました。

 

 

爆心地から600m、中学一年生の滋君が、このお弁当を抱えたまま被爆し亡くなりました。

弁当の中身は炭化して真っ黒になっていますが、入っていたのは

●米、麦、大豆をまぜて炊いた混ぜごはん

●ジャガイモと千切りダイコンの油いため

食糧難の中、畑で作った野菜を初めて食べることが出来ると

喜んで出かけたのに、とお母さんが語っていたそうです。

 

 

爆心地から1500m

3歳11か月の伸一君は自宅前で被爆し『水…水…』と言いながら亡くなりました。

その時乗っていた三輪車です。

 

父親は、その時遊んでいた女の子と伸一君を三輪車と共に庭に埋葬しました。

その後、被爆40年目におに移す決心をして堀り起こし、葬式をしました。

 

 

 広島に投下された原子爆弾 3m、約4t (実寸模型)

 

この爆弾には50kgのウランが詰められていましたが、

そのうち核分裂したのは1kgだけなのです。

 

爆発により発生したエネルギーの15%が放射線でした。

放射線は原子爆弾の核分裂と同時に瞬間的に放出されました。

 

これが 「初期放射線」

 

爆発後、当分の間地上には大量の 「残留放射線」 がありました。

 

爆弾投下の8月6日、広島に居なくて放射線汚染を免れたのに、

後日、広島に入ったために放射能に侵されてしまった人も多かったのです。

  

爆弾の中のウランが100%爆発していたなら、どれほど被害は拡大していただろうか…

 

 

 

オバマ大統領が広島を訪れたのは、記憶に新しいです。

 

この原爆資料館にも沢山の外国の方が訪れていましたし、熱心に見ておられました。

 

 

 元安川

 

暑くて暑くて、水を求め、川に飛び込んだ人のほとんどが亡くなっていった…これがその川

 

 

 原爆ドーム

 

全国から届いた千羽鶴がいっぱいありました。

 

  平和の灯

 

昭和39年8月1日

核兵器が地球上から完全に姿を消す日まで燃やし続けよう

と、12宗派の火、溶鉱炉など工場から届いた産業の火を

原爆投下の日に生まれた7人の女性により点火されました。

 

 

 

原爆死没者慰霊碑

 

 

原爆の子の像

 

 

 

平和の像 若葉

 

子鹿と少女の像です。 台座には


「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」


と 湯川秀樹氏 の銘文が彫られています。

(まがつび、火災や凶事をおこす神の事)



広島平和記念資料館 

 

 

 

カワウ?

 

 

 

 

穏やかな一日でした。

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十二

2016-11-14 12:45:38 | 真田丸

 

「日の本一のつわもの」

 

そんな表現が400年後の、日の本の、一凡人の私にも伝わって参りました。

 

 

その戦いぶりとはどのようなものだったのか。

 

まず、嫡男の大助が旗を振り謡「高砂」を唄って相手を挑発し、佐助が爆発音を立てる。

 

その音を仲間割れと勘違いした前田利常の軍勢が

チャンスとばかりに空堀を登ってくる。

 

同じく、井伊直孝も後から攻めてくる。

 

空堀を充分登らせぐっと引き寄せたところで鉄砲隊が一斉に打ち放つ。

 

それでも鉄砲玉をかいくぐって出丸に突入して来た徳川の兵を、

幸村、堀田作兵衛らが、槍で討つ。

 

こうして、豊臣軍は勝った。

 

「空堀」の底の部分は、大きな畝の様にデコボコが付けてありました。

 

あれは、足を取られ進撃を阻みますね。

 

実際の空堀はあの数倍のスケールだったのかもしれないな。

 

現在、真田丸のあったとされる所の近辺には「空堀通り」をはじめ、

「空堀」が地名としていくつも残っています。

 

ただ、江戸時代に徳川が築いた大坂城に関する空堀の名残りかもしれませんが

 

 

そうなんですよね、大坂城は紆余曲折を経て今の天守を構えています。

 

その歴史は、

 

① 明応5年(1496)浄土真宗の蓮如上人が坊舎を建てのちに石山本願寺となる

 

② 石山本願寺の地に、天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城を築城

 

(これは、織田信長が生前この地は天然の要塞であり、港を設けるにも適した土地であるから

城を建てたいと言っていたのを聞いていたので、それを実行したと言われています)

 

 

③元和6年(1620)徳川秀忠が夏の陣で落城した大坂城を再築

 

大坂藩を廃し、豊臣色をすっかり払拭した大坂城は江戸幕府直轄となる。

城主は将軍であるが、代々有力な譜代大名が大坂城代となり預かる。

 

(天守は寛永3年に建つが寛文5年(1665)落雷で焼失。

わずか39年でなくなる。

以後、昭和の復興まで266年間天守をなくしたままだった)

 

 

④明治維新の動乱で、櫓をはじめ大部分を焼失

 

 

⑤昭和6年(1931)市民の熱意によって現在の天守閣が復興

 

 

⑥第二次世界大戦で空襲を受けたがその後は史跡公園として整備されている。

 

こうした歴史を持つ大坂城、浪速の人も他の地の人も、

江戸幕府の城ということは忘れ去り、豊臣の大坂城と思っていた。

 

それが近年地下より古い石垣が発掘され、今の城は豊臣の大坂城跡に盛り土をして

建てた江戸幕府の大坂城と再認識することになったのです。

盛り土、出ました(^_^)/

 

 

 

※「大阪夏の陣図屏風~右隻」

 

※同左隻

 

 

左右合わせると、こうなりまして六曲一双の屏風絵

中央に大坂城が描かれています。

 

各隻150.3x360.7cm。

人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺など。

(凄いですね、誰が数えたのか)

 

右隻には慶長20年5月7日(1615.6.3) 大坂夏の陣終盤の様子

左隻には大坂城、落城後の大混乱を描いている。

 

大坂城を中心に、向かって右が南、左が北。

 

右から左へ合戦の推移が自然に展開している。

 

(絵って、瞬間を切り取ったものと思ってましたが、

時の流れによる情勢の変化も書くことができるのですね~)

 

大変生々しい描写。

 

 

 この大阪夏の陣図屏風ですが、

もちろんポスターで4月、大坂城に行った時に買ったものです。

本物は六曲一双の屏風絵で、大阪城天守閣所蔵の重要文化財です。

実際見て来ましたが、ゾクっとしました。

 

一説に、合戦に参加した福岡藩の黒田長政が家来に命じて書かせたものとあります。

 

部分的に拡大して撮ってみました。 

 この屏風の折り目のすぐ左側中央に白馬がいて、その下に鹿の角の兜をかぶった武士が

真田幸村です。

 

赤備えの真田軍の中心に居ますね。

 

夏の陣なのでここは茶臼山辺り。 

 

↓冬の陣の時は茶臼山には徳川家康が陣取っていました  

大坂冬の陣の布陣 

 

大坂冬の陣、豊臣軍が勝った…

 

なのでしょうか…

 

来週は第46回 砲弾

 

予告編で幸村が、和睦はだめ! と言っていたのが気になる…

 

 

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真田丸船賃六文波枕二十一

2016-11-10 18:41:44 | 真田丸

 

ついに、出城「真田丸」 登場

 

慶長19年(1614)真田幸村は大坂城の南側の守りが弱いので砦がいると考え、

わずか一か月で真田丸を築きました。

(又の名を偃月城・えんげつじょう~本城から半月形に張り出して造った出丸の意)

 

 

 

 

古地図ってワクワクします♪

大坂城の厨で後藤又兵衛と策を講じていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

大坂冬の陣

 

徳川方の顔ぶれを見ると、錚々たるメンバーです。

 

 

大阪冬の陣

 

秀吉方は、牢人を集めること、兵糧を確保すること、城周りの造りの強化、

また、武器の買い入れなどに、秀吉が遺した金や銀を使いました。

沢山遺していたんですね~

この頃は遺産相続税なんてものはありませんよね。

 

ただ、諸大名の中に味方に付くものはいませんでした。

 

 

豊臣秀頼方に集まった兵は約10万人(徳川方20万)

 

① 豊臣譜代衆 : 大野治長、治房、治胤(はるたね)兄弟。木村重成

② 牢人五人衆 : 真田幸村、長宗我部盛親、明石全登(てるすみ)、

後藤又兵衛、毛利勝永

 

牢人衆は野戦を主張しましたが、大野氏らの言う籠城戦に決まりました。

 

 

 

 

 

真田軍は武田氏に仕えていた頃と同じ赤備えで挑みます。

 

 

この戦いは銃撃戦だったそうですが、この後は、

 

第45回真田丸「完封」にて

 

 

 

さて、この真田丸跡ですが、

 

大阪市営地下鉄の長堀鶴見緑地線「玉造駅」下車、「宰相山公園」から「真田山公園」辺りが

城跡とされます。

 

4月に真田丸を訪ねて一日この辺りを歩いています。

 

 

この辺りは坂道の多い所でした。

 

 

学校のグラウンドを背にして、真田丸顕彰碑が建っていました。

 

 

 

 心眼寺(しんがんじ)

真田幸村のお墓があります。

 

 

 

こうして、「真田」の名前は残っています。

 

学校や、お店、様々なものに真田が付いてます。

 

地元の方は、誇りに思っておられるのでしょうね。

 

気温の高めの春に、訪ねていましたが、

 

冬の陣はちょうど今頃あったのでしょうか?

 

見れなかった所もいくつかありそのうちにと思っていますがなかなか行けません。 

 

この辺りは街中で、道路、家も多く、大変発達していて

発掘も難しく、分からないことも多いのでしょう。

 

上の写真の顕彰の碑から心眼寺、その他数寺を結ぶ地帯が真田丸跡地か?

 

形は偃月ではなく四角ではないか?

など…???

 

堀の跡や空堀の跡らしき地形も発掘により出ているとか。

 

これからの発掘、研究結果が楽しみです。

 

真田山を訪れた時の…

 

 

 

かぎろひの坂を出丸へ真田山

 

 

 

冬の句考えてみます(^_^;)

 

 

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近江坂本

2016-11-06 18:43:16 | 歴史

 

 

滋賀県大津市坂本

 

坂本というのは滋賀県側の比叡山の麓の門前町です。

 

 

  

 

 

「穴太衆積み」の石垣を巡らした「里坊」の並ぶ街並みが特徴です。

 

「穴太衆」というのは、比叡山延暦寺の土木工事を古来より勤めていた人達で

その高い技術で里坊だけでなく神社、古民家などの石垣を造ってきました。

この石積みの特徴は加工しない掘り出したままの石を巧みに組み合わせ、

積んで行きます。

 

穴太衆が言うには、

 

『ここに積んでくれ。と石が話しかける。』 とか。

 

 

坂本にある日吉神社の参道には穴太衆積みの遺構がずらっと並んでいます。

 

「里坊・さとぼう」というのは比叡山延暦寺で修行を積んだ偉~いお坊さんが

天台座主から寺を賜り隠居生活をした、それが里坊です。

 

 

こちらはそのひとつ「滋賀院門跡」

 

延暦寺の本坊で、代々天台座主の御座所でした。

穴太衆積みの上に五本の線の入った門跡特有の白壁が風格を感じさせます。

 

こちらも滋賀院門跡です 。

徳川家光が小堀遠州に命じて造られた庭や、狩野派の障壁画が残っています。

 

 

 

 

織田信長による比叡山の焼打ち、廃仏毀釈などで、里坊もそれぞれ

過酷な道をたどって来ました。

 

80ほどあった里坊も今あるのは52となりました。

 (明治維新後にそれまでの神仏習合を廃して神仏分離が進み廃仏毀釈が発生した)

 

 

 

千余年の歴史を秘めた比叡山延暦寺の山坊、麓の坂本の里坊、

 

共に戦国時代に焼失しはしたものの、江戸時代以降再建され、

 

今は国の伝統的建造物として、守られています。

 

 

 

 坂本の町から東を見ますと、琵琶湖が。

 

空も湖も静かな一日でした。

 

 

乱世越え比叡里坊水澄めり

 

二つ三つ洞冷まじき穴太積

 

 

 

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月と金星

2016-11-04 19:14:29 | 四季折々に

 

11月2日(水)

17時30分頃、南西の空に、月と星が見えました。

まだ、夕焼け空の見える頃でした。

 

 

左上に小さな点が見えますが、カメラの汚れみたいですが、

肉眼なら星と分かるのです。

何と言う星かなあとまた気になり調べると、

金星の様でした。

 

 

拡大出来るだけしてみるとこんな感じ。

メラメラ燃えてるのではなく、きっとピンボケです(^_^;)

 

月はというと

 

 

うっすら全体の輪郭も見えます。

 

 

11月3日(木) 

18時頃、南西の空に、また月と星が見えました。

 

また、何という星なのか気になります。

 

 

一日前より、かなり位置関係が変わっています。

金星は左下の方に移動してます。

説明できませんが、動き方が違ってるのでこうなるのでしょうね(^_^;)

 

以前のカメラより拡大が出来るもので、月を撮るのが面白くて、

星は上手く写りませんが、存在だけは確認出来て嬉しいです♪

 

ま、いつも似たような写真ですけど、

アップする程のもんでもないですけど、

 

いいお天気が続いています。

 

明日はまた出かけます。

例の月に一度、遠足するグループの活動です。

 

ご紹介出来る様、頑張って見てきます♪

 

 

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松山千春コンサート・広島

2016-11-02 00:35:44 | 松山千春

 

松山千春デビュー40周年記念コンサート・ツアー2016

 

10月30日の、広島で開催でした。

 

広島文化学園HBGホール

 

 

『*お待たせいたしました、松山でございます。

 

本日は日本シリーズ第7日目ということで、昨夜の結果を受け…

 

広島の皆様にはご迷惑をおかけしました。

 

反省を込め、頭を丸めて参りました…』

 

 

一曲歌い終わったあと、千春さんの挨拶で会場は笑いに包まれたのですが

 

『残念やったね』 と言う

 

町行く人の言葉をすでに聞いていました。

 

やはり広島の方々は、残念の一言に尽きますよね。

 

コンサートは40周年記念なのですが、

 

ずっと春と秋年2回のコンサートツアーを続けておられるのは凄いなあと思います。

 

懐かしい歌を聞いていたら、なんか昔に戻った気分になりました。

 

ありふれた表現ですが、そうなんですね。

 

やっぱり、LIVEはいいです。

 

 

 

 

『29日、勝っていたなら皆ソワソワ、こっちもソワソワするはずが、

 

こんなに落ち着いて歌える。』

 

なんて、揶揄するようなことを言ったり、

 

『この悔しさを来年まで忘れず持って、頑張ってください。』

 

励ましたり。

 

コンサートも接戦の日本シリーズも、所は広島

 

奇しくも、こんなことになり、

 

人によっては憂さ晴らしコンサートみたいということが無きにしも非ず…、

 

多分、他の会場では聴けないであろう貴重なものとなりました。

 

いつまでも心に残る日になると思います。

 

歌でなく、話に印象を深く持ったというのも、「松山千春コンサート」ならのものでした。

 

あそうそう、カープの菊池涼介選手が会場に来ておられました。

 

舞台の前まで呼ばれて進んできて、振り返り顔を見せてくれました。

 

来年も頑張ってくださいね。

 

何だか、コンサートでなく野球を見てきたようになってしまいましたが、

 

コンサートに行ってきたのでした。

 

会場でゲットしたのは 

 

CDブック 愛の哲学

久しぶりの本です。

 

ひとつ、待ってるものがあるんです…

 8月8日、武道館であった、ギター一本での記念コンサートのDVD

必ず出るはず、待ってます♪

 

 

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