長崎の町で、龍馬をさがして最後に辿り着いたのは「小曾根邸跡」 でした。
「勝海舟」 から紹介された「小曾根乾堂」
龍馬の活躍の陰には、豪商・小曾根家の大きな援助がありました。
元治元年(1864)、龍馬が初めて長崎に来た時から、亀山社中~海援隊を含め
何かと面倒を見てきました。
「小曾根邸跡」 には今、長崎税務署があり、この町の名前も、「小曾根町」でした。
私は長崎を離れる間際にここを探して歩いたのですが、一番手こずりました。
歩いても歩いても見つからず、道行く人に尋ね尋ね、細い道の細い階段を、
上って、民家の裏をすり抜けたりして、戸惑いながらもようやく見つけました。
そして、 さあ、これで帰ろう…
長崎駅から、列車に乗りました。
土佐、京都、長崎と、翔けぬけた龍馬。
どの地にいても、皆から慕われながら、太く生きたことを、確信ました。
「石山寺」
琵琶湖から流れ出ている唯一の川、瀬田川の川沿いにあり、
瀬田の唐橋も近くです。
西国三十三箇所観音霊場の十三番札所で、東寺真言宗のお寺です。
堂内にある 「源氏の間」 は、「紫式部」 が、「源氏物語」 を
書いた所と言われています。
紅葉にあわせ、ライトアップされているというので、行ってきました。
ライトアップされると、昼間の雰囲気とはころっと変わるものなのですね~(@_@)
石山寺の境内はとても広く、今回は本堂まで、それより奥はまたの機会に
見て周りたいと思います。
聞くところによると、梅、水仙、桜、つつじ、牡丹、菖蒲、紫陽花、百合、萩、
紫式部、山茶花、と四季折々の姿を見せてくれるという事です。
あ、そうそう、めずらしく、「紫式部」 がライトアップされていました。
かわいい実の紫色が、暗闇に美しく浮かび上がっていました。
グラバー園、最後に見たのは「長崎伝統芸能館」 でした。(10.29)
ここには、長崎市「諏訪神社」 の祭礼 「長崎くんち」 での、
「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」などの出し物が
展示してありました。
「コッコデショ」 は「ここでしょう」 らしいです。
「くんち」 というのは、旧暦の重陽の節句、9月9日に行ったためとか、
九州北部の方言で「9日(くにち)」を「くんち」という事から来ているそうですが、
私は関西人ですが同じ様に 「19日・じゅうくんち」 「29日・にじゅうくんち」
などと言うなあ~。
グラバー園の全てを見てはいなかったのですが、ここ、「長崎伝統芸能館」を最後に
再び坂を登ったり下ったり、「長崎さるく」 を続けました。
旧グラバー住宅です。
台所: 床に使われているのは、「こんにゃく煉瓦」 と言います。
普通の煉瓦より薄く、こんにゃくの形をしていますが、
縦に並べているので、とても頑丈だそうです。
ここに入った時、温かい雰囲気を感じました。
ああ、こんな台所でごはんを作ったりして過ごしてみたいなあ~。
修学旅行生らしき男の子が、興味深げに覗いていますが、
この中はと言いますと…、
グラバー氏は大浦慶とも仕事上関わりがありました。
お茶の貿易をしていました。
この釜で、お茶を煎っていたこともあるそうです。
300歳の蘇鉄 :
グラバー邸の庭にあるこの蘇鉄は、グラバー邸が建てられた当時、
薩摩藩主、島津侯から贈られたもので樹齢300有余年、国内最大級のものです。
斜面市街地移送機器・ラックスカーRC2200 :
グラバー邸の近くにありました。
やはり急な坂道での物の搬送には、苦労がありますよね。
さて、この館のご主人さま、「トーマス・ブレーク・グラバー」
スコットランドに生まれ、20歳で上海に渡り、イギリス商社に勤めました。
21歳で、長崎開港と同時に渡来し「グラバー商会」を設立しました。
当初は、お茶、生糸、海産物、後には艦船、武器を扱い、
諸藩に販売、龍馬や桂小五郎をはじめ、幕末の志士達とも深く関わりました。
また、薩長藩士の渡欧(密航)を斡旋するなど、明治維新にかけての
政治的なことにも関与してきました。
後年は、三菱の相談役として活躍しました。
グラバー邸の中は、観光客でいっぱいでした。
写真撮影も遠慮がちになりましたが、グラバーの妻、「ツルさん」の
お部屋のクリーム色の天井に、隠し部屋の小さな入り口がありました。
グラバーは法を犯してまで、薩長藩士を守ったので、
必要な部屋だったのでしょうね。 グラバーは後に、
「自分は徳川幕府にとって、最大の反逆人だった…」 と回想しています。
何回目だったか、「龍馬伝」では、龍馬とグラバー(ティム・ウェラード)、
大浦慶(余貴美子)、小曾根乾堂(本田博太郎)が中国風な部屋で
マージャンに興じているシーンが心に残ります。
龍馬ゆかりのスポットからスポットへと線で結び、歩き、撮りました。
線上のカメラマン…? (^_^;)
「グラバー園」も、歩いてきました。
前に書いた、「旧三菱第2ドックハウス」 もこの中にありました。
グラバー園の入り口に来て、驚いたのは、こんな山の中にエスカレーターが!
いちばん、高い所にある「旧三菱第2ドックハウス」 の近くまで、運んでくれました。
ほんと、これが無かったら大変でした。なにしろ、この高さです!
「旧ウォーカー住宅」 ↑ です。
英国の船長で、三菱系列及び日本郵船に勤務したロバート・ネール・ウォーカーの、
次男、ロバート・ウォーカー・ジュニアが大正時代から亡くなるまで住んでいました。
この家は、明治の中期に大浦天主堂の隣に建てられたもので、
屋根から突き出た庇など、細部に日本趣味が繁栄されています。
また、ロバート・ネール・ウォーカーの兄、ウィルソンは郵便汽船三菱の
監督船長に抜擢されています。
その後、横浜でグラバー氏と共に「ジャパン・ブルワリ・カンパニー
(キリン麦酒の前身)」 を設立しました。
ウォーカー一族は、日本の海運業などの発展に大変貢献したのですね。
「旧自由亭」です↑。我国初めての西洋料理店の三度目の屋号が「自由亭」 です。
初めは「良林亭」
始めたのは、「草野丈吉」 です。
出島オランダ商館内で「草野丈吉」 は西洋料理を見習い、オランダ軍艦の
コックとなり技術を習得しました。
かつては、亀山社中の近くに店を開いたこともあり、
ひょっとしたら、新しいものの好きな龍馬のこと、
自由亭で、西洋料理に舌鼓を打ったかもしれませんね。
NHK大河「龍馬伝」 の第一回で、龍馬の幼なじみ、「岩崎弥太郎」 は、
「龍馬はこの世でいちばん嫌いな男」 と言い放ちました。
その、弥太郎は、「土佐商会」 「九十九商会」 「三川商会」 「三菱商会」
「三菱蒸汽船会社」 「郵便汽船三菱会社」 を率いるトップとして次第に
ビッグになっていきました。
写真は、「旧三菱第2ドックハウス」 です。
長崎居留地の「グラバー園」 の中の最も高い位置に建っています。
修理船の乗組員の宿泊施設として、ドックそばに建てられていましたが、
昭和49年(1974)にここ、グラバー園に移築されています。
グラバー園の中でも、大きく綺麗な建物でした。
とてもよく手入れされた床ですね。
ホーム・バーがあります。
こんな暖炉がうちにもあったらいいなあ~???
バルコニーからは、ドックが見えます。
とても広くて、おしゃれなバルコニーです。
弥太郎が龍馬を嫌いとするのは、龍馬とまるで正反対の人間のようでありながら、
実際はとてもよく似た人間だからかもしれません。
幕末から明治へと…、
弥太郎の歩んだ道と、龍馬がもし生きていたなら歩んだであろう道。
それは、似ていたのでしょうか?