もう、追っかけても追いつきそうにないくらい
いだてんは、遥かかなたですが…
久しぶりに録画を見ました
四三さんは、熊本で家族と共に穏やかな毎日なのですね
1932年ロサンゼルスオリンピック
ドラマはここまで来ていました
日本は、金メダル7個、銀メダル7個、銅メダル4個
陸上競技と、競泳が伸びていたのですね♪
この中に、前畑秀子さんの銀メダル(平泳ぎ200m)
が含まれている
その4年後ベルリン五輪の出来事で
実況中継中の日本のアナウンサーさんが
「前畑ガンバレ 前畑ガンバレ」
と連呼したということを知った時、子供ながらにも感動しました
伝記で読んだような気がするのですが…
前畑秀子さんは平泳ぎ
ドラマの中の、女優さんの平泳ぎの足の動きを見て感心しました
あの水のかき方は、今はしないと思います
時代考証、ばっちり!
さすがNHKです♪
数年前にスポーツクラブで、注意を受けたのですが、
ばっと足を広げて伸ばして、がばっと水をかき込む
これは、古い泳法
今は、
どう言えばいいか…?
旨く表現出来ませんが、例えばお姉さん座りをするように
足を寄せて、次にどんと蹴る?
ドラマでは、前畑さんの右側を泳ぐ女性の泳法
これが今の形だと思います
私は、小学校高学年に踏水会で教えてもらって以来そのままです
いわゆる古式泳法の中のひとつなのでしょうね
他にも踏水会では、横泳ぎ、抜き手、あおり足?
そんなの今はしない(と思いますが)
水にあまり顔をつけないで済む泳法です
だから、水に顔をつけずに泳ぐことが多かったです(^-^;
おかげさまで、こんなことを思い出しました
踏水会は、横を流れる疎水を利用してましたから、
昇級試験の時は、水底に足が付かない、
代わりに、水草に触れたりして
泳ぎ切って水から這い上がる桟橋に着くか、はたまた途中で溺れるか!
そんな思いの試験でした
子供の頃、水泳に連れて行ってもらうと言えば、琵琶湖でした
お墓参りの帰り、浜へ寄り道してもらえたことが、懐かしいなあ~
叔父にはやされて、200m追っかけて泳いだこともありました
今、スイミングスクールで鍛えられてる子供達にいえば、
「たった、200m?」
なんて言われそう(/ω\)
第20回 恋の片道切符
四三さん、ひたすら駅伝に力を注ぐことにまい進しておりましたが、
嘉納治五郎校長がアントワープ・オリンピック行の切符をがちらつかせたら、
やっぱりオリンピックですね
当然ですよね、それでいいのだ~♪
十種競技にチャレンジする野口源三郎さんはじめ、
四三の育て上げた15人の選手と共に、アントワープへと出発いたしました
ところで、その「十種競技」ですが、
”どの競技も特別優れているわけではないのでこの種目を…”
そんな言い方はないっしょ!
どの競技も、こなせるスーパーマンです
テレビで活躍中の武井壮さんが、確か十種競技の選手で
いい成績を残しておられますよね
なんと、俳句もお上手ですし、やっぱりスーパーマンです
百獣の王とも言うそうで(-_-)/~~~ピシー!
オリンピック参加
ストックホルムの時は、三島弥彦と四三とのたったふたりでの参加で、
その時から思えば、日本のスポーツも成長したことを実感しつつ…
でも、残念ながらメダルには手が届きませんでした
きっと金メダルを取ると宣言していた四三としては
日本に、はい、終わりました!
と帰れなかったのでしょうね
そのお気持ち、お察しいたします
でも、大変な努力で、後継者を連れての参加でしたから
胸を張って帰って来て下さったらいいんですよ
さて、ちゃんと帰国するのかな?
また何かに心血を注ぐような…
何なんでしょ?
最後に可愛いく活発そうな女の子が沢山いましたが…
第19回 箱根駅伝
知らなさ過ぎました
「駅伝」が、日本で生まれた競技だったとは
それに、四三さんが深くかかわっていたとは
全く知りませんでした
マラソンが、競技中に死者を出した競技だったので、
オリンピックから外されたとは
四三さんは、一人で走るのが無理というか、危険なら
何人かに分けて、その距離を走ればいいと、
そのコース東海道五十三次に因んで、「駅伝」と名付けたとは
駅伝は、日本的な名前でも、外国で生まれたスポーツやろなあ~
と思っていました
必要は発明の母、ということでしょうか
オリンピックがマラソンから外されたことから
「駅伝」が生まれた
そうだったのですか
日本は、団体競技が強いですね
だから駅伝も日本選手にとって、好成績を上げる可能性の大きな種目かも
そうそう、最近の短距離走も素晴らしいです
4X100mリレー
例えば、アメリカの選手は軒並み100mを9秒台で走るのですが、
日本選手は、9秒台で走れるのはまだ2人だけ
でも、リレーとなると、
勝つんですよね~♪
バトンタッチの華麗な技
これが決めてです
協力し合って、ことを成すことを得意とする
感動の能力ですよね
四三さん、今の日本選手はこんな感じです♪
いかがでしょうか?
さて、ストックホルムから8年、
ベルギー・アントワープでオリンピックが開催されると、伝えてきましたね
嘉納治五郎先生、マラソンは割愛されていますが、さて、どうなさるのか
四三さん、マラソンはあると信じて、妻のスヤさんと大事な約束をしましたが…
このあとアントワープ紀行、なんちゃって(^-^;
ベルギー・アントワープ、ここに、ノートルダム大聖堂があるのですね
あのアニメ「フランダースの犬」の最終回、ネロが大聖堂の祭壇画を見ながら
永遠の眠りにつくという、思い出しただけでも泣けそう…
ほんとに、感動的なラストでしたね
↓その祭壇画、素晴らしいものなのですね
四三様へ
四三さんが、誕生された明治から、幾時代かが過ぎまして、
日本は本日(5月1日)皇太子様が天皇となられ「令和」という新しい時代になりました
平成の天皇は昨日(4月30日)ご自分の意志で退位され、
よって、「退位特例法」により「上皇」となられました(約二百年ぶりの上皇)
様々なメディアがその儀式や巷での催事を伝えています
明るく、にぎやかに
四三さんは、明治から昭和を生きられました
その間、戦争が度々起こりましたね
そのせいで、オリンピックが中止されたり、出場権をなくしたり
苦しい時代ではありましたね
でも日本で、第二次世界大戦の後は戦争は起きませんでした
なので、オリンピック出場が阻まれることは…?
あ、一度だけありました、モスクワオリンピック
前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、
日本、アメリカなどがボイコットを行いました
その時は、涙に暮れる選手も…
このように、昭和の時代は戦争もありました
でも、次の平成の時代、戦争は起こりませんでした
だからずっとオリンピック参加が続き、
日本のスポーツは、世界に通用するまでになり、制覇する競技も表れました
ストックホルムオリンピックで、四三さんや三島さんが、
オリンピックに日本人選手として初出場し
手探りの状態から始められたことが、今の日本のスポーツに繋がっています
世界に負けないスポーツ大国です
感謝申し上げます
ところで
四三さん、思いっきりびっくりですよ、超特急並みのスピード結婚
なのに、新妻を熊本に置いて、東京でまたもやマラソン漬けの日々
昔の奥方は、辛抱強いなあ~
あ~でも、現代もそういう所ありました
私も経験しましたよ、単身赴任で夫の不在
大変なこともありましたが、現代ですから、
辛抱する部分もあれば、かえって楽なこともあったりして(^-^;
おかげさまで?男性がこなすような仕事も出来るようになりました
この辺りから、女を捨てたのか~!
はい、過ぎたことです、昭和、平成の時代の話です
今はもう、令和
だが悲しからずや、私、もう下る一方です、何もかも(T_T)
さあ、四三さん、嘉納先生から
『君は、プロフェッショナル・ランナーだ!』
と断言されましたね
ひょっとして、日本で初めてのプロ・ランナーでしたか?
ならば、足袋の播磨屋さんは日本で初めてのスポンサーなのか?
次のオリンピックを目指すとともに、後輩を指導する
いいお仕事ではないですか
頑張ってください
今の日本も、目の前に大きなプロジェクトを据えて頑張っています
大河ドラマ「いだてん」
本日まもなく 15回 あゝ結婚
♪会いたかばってん 会われんたい♪
という歌を四三に教えていた、スヤさんが予告で出ましたね
結婚したはずのスヤさんですが、何か事情がありそうで、でも、
時間がなさそうで、その時、怖~い奥方様が
『時間がないので、また来週!』
そぎゃんたい
あゝ結婚、なのですか…お相手は?
ところで話を少し戻しますが、
高等師範学校の寄宿舎にて、五輪の報告会がありました
仲間たちは、よくやった!と、四三をねぎらってくれているところへ
女性が出てまいりました
その名は、二階堂トクヨ
東京女子高等師範学校(今のお茶の水大学)の助教授、永井舎監のお弟子さんだとか
どうも、せからしか~
オリンピックの敗因を突き詰めるし、あげくの果てに予選会をも疑った
でもこの方、そのあとすぐ、女性のスポーツの推進のため
英国へ留学を促されて出発されましたね
おそらく、今の女性のスポーツの発展に大いに貢献された方だと
感謝しないといけません、ありがとうございます
そして永井舎監、日本のスポーツは10~50年遅れている
その理由は何故か、考えるのが使命である、と
二階堂女史も、永井舎監もかなりシャウトしておりました
四三は、自分には時間がないと、
そりゃそうですよね、五輪は4年に一度ですもん
「今度勝つために」
またもや対策を立て、今日から練習に励み、ベルリン五輪を目指す!
この意気込みで、その場を収めた四三さん
よか人ばい♪
そのあと、日本は招致に成功したのに、日中戦争で開催権を返上したり、
第二次世界大戦ではオリンピックの中止
戦後は、戦争責任から出場が認められない
様々な理由で、ようやくカムバックしたのは、1952年ヘルシンキ大会でした
日本選手が外国選手と、肩を並べて戦い始めました
*1964年、東京オリンピック マラソン
円谷幸吉選手 銅メダル
君原健二選手 8位
*1984年、ロサンゼルス大会 マラソン
宗猛 四位
1992年、バルセロナ大会 マラソン
森下広一 銀メダル
谷口浩美 8位
同年 400m
高野進 8位
1996年、アトランタ大会 4X400mリレー
(伊東浩司・大森盛一・小坂田淳・苅部俊二) 5位
2004年、アテネ大会 ハンマー投げ
この年は、室伏広治 金メダル
2008年、北京大会 4X100mリレー
(塚原直貴・末続慎吾・高平慎士・朝原宣治) 銅メダル
2016年、リオデジャネイロ大会 4X100mリレー
(山縣亮太・飯塚翔太・桐生祥秀・ケンブリッジ飛鳥) 銀メダル
短距離走は、ここまで来るのに、やはり100年ほどかかりましたか…
同大会 50km競歩
荒井広宙 銅メダル
同大会 棒高跳び
澤野大地 7位 記録は5m50
日本のスポーツ界の歩みを一部、ぽつぽつと打ち込んでおります中、
すみません、ちょっと私情を挟ませて頂きますが、
澤野選手、数年前から応援するも、どうも本番に弱いのかなあ~
実力が出なかった…
来年の東京大会はどうされるのでしょうか…
すでに100m、10秒を切った、桐生選手もいます
三島選手も喜んでいることと思います(@_@。
リレーの選手層もなかなかのもので、東京大会が楽しみで楽しみで♪
いだてんもどんどん進んでいます
こつこつ追っかけます
筋肉も、骨も鍛えるのは毎日の積み重ね,
正しい立ち方、歩き方で過ごそう!
「いだてん」
今日は、第14回 新世界
ストックホルムから帰ってきた面々に、何か変化が表れるようですね
日本初めてのオリンピック出場
抱えきれないほどの期待を胸に、ストックホルムへ出発した四三、弥彦たち
言葉、食べ物、など何もかもが初めての経験で、
嫌でもプレッシャーは重くなっていったことと思います
あの、イケイケのシティボウイの三島弥彦さえ、ビルの窓から飛び降りて
死んでしまおうとしたくらいですものね
過去に、日本人がオリンピックに出場したことがない
全く、体験者の話を聞くことが出来ないという状況は、
それはそれは、不安だったでしょうね
弥彦の短距離は、外国人選手には歯が立たなかったものの、
自己最高記録を打ち立て、
「タイム」 という敵に勝ったと弥彦はオリンピックを終えた
一方、四三にも、大変なことが起きていた
あの日射病による幻覚の中で会った子供時代の自分に、導かれ助かった
あの足袋をあげたポルトガルのラザロ選手は、マラソン途中の
迷った道の分かれ道で違う道を行き、亡くなった、四三と同じ日射病で…
ラザロは試合前、「私は貧しい、勝つか死ぬかだ」
と言っていたという
試合後、四三は日記にこう記している
”人笑はば笑へ
ストックホルムにて重任を全うすること
あたはざりし口惜しさ
死してなお足らざれども
死は易く 生は難く
その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き
もって皇国の威をあげん”
東京オリンピック、マラソン銅メダリスト
円谷幸吉さんを思い出します
思い詰めて、思い詰めて…、
本当に残念です
四三さん、よく思い留まったなあ~と思います
弥彦と四三は、笑顔で、
「実に楽しかった」
「はい、楽しかった」
「我らの一歩は、日本人の一歩ばい!」
そうですよね、皆さん、とつけむにゃあ~♪
よく挑戦されました
ありがとうございました
さあ、ストックホルムから帰ってきた一団には
どの様な風が吹くのでしょうか?
まもなく、第14回「新世界」
新しく登場されるのはどんな方々でしょうね
いだてん時々追っかけ噺が、とんと進まずにいました
いだてんそろそろ追っかけないと
韋駄天さま、よろしく
今日は朝から小雨が降り、桜もちらちらし始めました
春らしい暖かな日が少なかったですが、それでも
春深し、ですか…