7月17日、山鉾巡行、見て来ました
カンカン照りでもなく、それに御池通のケヤキ並木の木陰にいましたので
祇園祭の割には、涼しくて楽でした♪
巡行されてる方々も、心なしか例年より元気そうに見えましたよ
雨の中とか、カンカン照りの中とかが多い祇園祭ですので、
毎年大変だと思います
長刀鉾
今年は、雨除けのビニールで覆われた山鉾も2~3基だけで、
見ごたえがありました
長刀鉾
くじ取らずの長刀鉾といわれ、毎年先頭を行きます
ちょうど、お稚児さんが身を乗り出していますが、「稚児舞・ちごまい」により
道を祓いながら進みます
稚児舞は「太平の舞」 と言い、四条通での注連縄切りの時や巡行中、
町名が変わった時に舞います
鉾の名前でもある「長刀・なぎなた」は、伝・三条小鍛冶宗近作で
疫病邪悪を祓いながら進みます
巡行中、刃が八坂神社と御所の方に向かないようにしています
今年の前祭巡行の順番は
長刀鉾→占出山→孟宗山→霰天神山→函谷鉾→伯牙山→四条傘鉾→
→芦刈山→月鉾→山伏山→油天神山→太子山→鶏鉾→木賊山→綾傘鉾→
→蟷螂山→菊水鉾→白楽天山→郭巨山→保昌山→放下鉾→岩戸山→船鉾
の23基です
祇園祭は、
平安時代、京の都に疫病が流行したくさんの人が亡くなったのですが、
神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を迎えて祭り厄災の除去を祈ったことに
由来します
平安時代の中頃からは規模も大きくなり、
空車、田楽、猿楽等も加わって盛んな賑わいを見せてきました。
室町時代になると町々の山鉾が特色あるものになってきました
応仁の乱(1467)で、祇園祭も中絶しました
この時と、第二次世界大戦の時の二回、祇園祭は中断しましたが、
それを除けば、千年以上続いているお祭りです
応仁の乱のあと、お祭りが再開した時から、
山鉾巡行の順位をくじで決めるようになりました
それまでは、順番について争いがよくあったそうです
毎年、くじ取式は7月2日に行われ、くじ取らずの9基の山鉾以外の順番が決まります
今年の前祭の「山一番」は「占出山」が、引きました
占出山がくじ順が早いと、その年の出産は安産になる、
といわれています♪
占出山
御神体は神功皇后
安産祈願のさらし木綿の腹帯を巻いての巡行です
また、右手には釣竿、左手にも魚らしきものが…
神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って、
戦勝の兆しとしたという故事が元となっています
それは、日本書紀(720年)・肥前(佐賀県)風土記によりますと、
神功皇后が4月上旬に松浦・玉島の里の小河で食事をし
その後 「西の方、財(タカラ)の国を求む(新羅征伐の意味)」
と釣り占いをしたところ
「希見(めずら)しき物、細鱗魚(アユ)が釣れた。
針を曲げて鉤(ハリ)をつくり飯粒を餌とし裳の糸を抜き取り釣りをした」
「鮎」 魚で占うことがあったので、それにアユが関係したので「鮎」となった?
身重であった皇后は凱旋後に無事出産しました
その縁で安産のお守りと腹帯授与があります。
宵山の日、会所(鉾町の家)では
” 安産のお守りはこれよりでます
ご信心のおん方様は 受けてお帰りなされましょ
ろうそく1丁献じられましょう ”
と、子供たちが浴衣姿で唄います
わらべ歌のような雰囲気の歌ですが、ひょっとしたら、
CMソングのはしり?
また唄にある「ろうそく」ですが、
自分が献灯したロウソクを、短くなるまで待ってから持ち帰り、
いざ陣痛という時に、神棚にそなえて残りを灯すと、
燃えきるまでに子供を授かるといった言い伝えも…
懸装品は水引が「三十六歌仙図」
前懸「厳島之図」
左右の胴懸「天の橋立」 「松島之図」
前懸、左右の胴懸は
天保2(1831)年に構想されたもので、日本三景を綴織で表現しています。
山一番のくじを引いたのは、やっぱりラッキーです、
占出山さん
今年はいいことありますように、お願いします
あ、私は安産は関係ないですけどね
前祭の全部で23基のうちの2基でした<m(__)m>